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疑問を差し挟みつつ横目で確認

自分中心で世界が回っていると考える私は、私の一挙手一投足が私を苛つかせる。私は私を辱める。いつだって今日やった失敗を、朝起きたときは昨日やった失敗を、思い出してはなんて馬鹿だったんだろうと後悔している。反省は空回りしてばかりで、同じ失敗を繰返している可能性もある。なぜならそこには客観的な視点が欠如しているからだ。言い換えよう。なぜなら反省という自己内部の回転には、自分の考えにはない考えが入り込む余地はないからだ。反省は黙り込む。人から何かを引き出そうという意識すら滅却させ、独り言をつぶやかせる。次第に反省は反省自身を食いつぶしてゆく。実は自分は悪くなかったのかもしれないとすら思わせるから危ないのだ、などと言わせるほどにまで肥大化してゆく。

確かに相手にとってあなたの行為は悪かったのかもしれないが、それは相手の論理の中で悪かったのであって、あなたが今反省している、悪いと思っているようなことを相手が悪いと思っているわけでは必ずしもないし、7,8割はあなたの悪いと相手の悪いは違っているでしょう。というか、確認も取っていないのにあなたの悪いと相手の悪いを一緒にしようとするところからまず間違っている。

間違っている。どこで間違えたのか。本当は間違っているなどと思っていないくせに、もしかしたら間違えたのかもしれないなどという素振りを見せることによって相手に間違っていると思っているのだと思われたいのか。反省の素振りを相手に見せたい(のか?)。反省の素振りを見せることによって相手に慰めてもらいたい(のか?ということによって相手に慰めてもらいたい(のか?))。

 

人への注文も多い。もっと効率よく動けばいいのにとか、全然その行動は理にかなってないではないかとか、考え方がおかしくないかとか思う。スケジュールと比べて少し早めに進んでいるからといって、なぜ仕事の手を休めようとするのか。のんびりやろうとするのか。早めに終わらせて定時に帰るというのが理想ではないのか。私と他の社員の理想が異なっているのか。あるいは残業代が出ているから帰れないのか。出来ることと立場に食い違いがあるのもおかしいと思う。何もできないのに責任者として振る舞っていて、その人の何にもできない感じが出てくると途端に苛つきを感じる。

本当に今の今まで、日本の会社って社内ですらコミュニケーションを上手く回す努力がなされないままで来たんだと思う。そりゃあ社外とも上手くコミュニケーションできないわけだ。パソコン持ってるんだったらスカイプぐらい使ったらいいのでは?もっと頻繁に相手先と話したり、会議の場をオンラインでいいから持とうとすればいいのに。何のためのインターネットなのかさっぱりわかりません。単にネットサーフィンするだけの光回線なのでしょうか。

理想のベクトルが社内ですら違うんだろう。上司とも、社長とも、それぞれが考える理想は異なっていて、しかも誰も僕らを束ねる人がいない。会社だ会社だと威張ってはいるけれど、考え方がまとまった一つの集団とは言えない様に見える。各人バラバラに考えたいことを考えていて統制が取れていない。自由っちゃあ自由だけど、これじゃあ何かを成し遂げるには至らない。生き続けることはできるだろうけれど、楽しくはならない。

 

もっと別のルールが必要だ。なぜ先輩社員それぞれの予定を新入社員がカレンダーに記入しなければならない?一人ひとりがカレンダーにアクセスできるIDを持っているのに?個々人それぞれが自分の持ち回りの仕事をこなせるようにってそれぞれにIDを持たせているのではないのか?先輩だろうが後輩だろうが社員それぞれは自分の予定を自分でカレンダーに書き込むこと。以上。

一つのプロジェクトに参加している人間の中で、プロジェクトに関わる言語、ライブラリ、モジュール等々の知識を一番知っている人間がトップに立ち、監督すること。たとえ一番の年長者であっても、知識がなければ一コーダーとしてそのプロジェクトに関わること。知識がある者は知識のない者に対して説明を尽くし、どのファイルのどの部分にどのような内容を書き込めば動くのかということを設計書に記入し、コーダーにも丁寧に説明すること。

 

ソフトウェアの製造というのは実に言葉をひたすらに書き連ねてゆく作業である。あちらのソースのこの部分が動くことによってこちらのソースのこの部分が動き、次にまた別のソースの別の部分へ処理が移るというように目まぐるしくデータはコンピュータ内部で移動しては計算されてゆく。文字と文字は連結して処理のどこの部分が呼び出されるかが確定されてゆく。ある部分においてどのような処理を為すのかを必ず記しておかなければならない。コンピュータに動作はあっても思考は(まだ)ない。

コンピュータだって考えればいいのに。設計書を書けば途端にプログラミングが完了すればいいのに。あ、思い出したけど、用語統一の徹底もきちんとした方がいい。ルールその3。設計書とか言いながら書いてるの仕様書だし。設計書と仕様書の違いも無いかのごとくコーディングしていく感じは嫌。エクセルのタイトルが「仕様書」って書いてあって、話す時は「設計書」って言うの、やめましょう、マジで。というか「設計書」というフォルダの中に平気で「仕様書」と名付けられたファイルを置くのをやめよう。単語の違いとは?って感じになる。

いや、違うんだろうな。このプロジェクトでは「設計書」=「仕様書」ってことなんだ。この定義でとりあえず僕らは進んでいっているけど、でもそれでいいのか?

―――

怒りや苛立ちには原因がある。だが日本ではそうした原因を突き詰めて考えることには否定的だ。なぜ自分が苛立っているのか、人と議論することは殆ど無いし、議論が衝突と介されることはしばしばだ。言い争いも何もかも全部なかったことにしたがる。青森県黒石市の「黒石よされ」における一件(※1)もその一つだろう。特に今回の場合、祭りにおける写真だったというのが問題を複雑にする原因である。ハレである祭りにおいてもうすでに亡くなった人が、ハレの姿で写っている。祭りが(こんなことを書く事自体苛立たしいが)一人の死によって穢れてしまうということを恐れて実行委員会は内定を取り消したのだろう。「ああ、あの死んだ女の子を大賞に選んだ祭りね」と人々から言い伝えられるのを恐れての大賞取り消しだろう(というのは私の勝手な妄想で、実際には当時はまだ匿名であった自殺者に配慮したとの市長談だが、今回は報道がどのように見えるのかという観点で議論を終始したい)。

こんなにも素敵な姿で映っている彼女の心は全くハレてなどいなかった。どん底にいた。誰にも何も言えず、黙り込む。黙っても黙っても生き続けなければならない。生き続けるためには祭りにも参加しなければならない。本当のところ、りまさんは祭りに参加したくなかったのではないか。それでも今以上に状況が悪くならないために、やむにやまれず祭りに参加し、偶然写真に写る。

写真に写ってもなおつらい状況は続く。写真に写ることは彼女にとって救いとはならなかった。

多分こうしたことはどんな街でも起こっていることだ。この問題は街の問題である。人が寄り集まって生活している一定の地域範囲の問題である。何も学校内部だけに問題があったというわけではない。りまさんの写真を偶然選び、意図的に内定取り消しをしたのは実行委員会である。ここに街全体を取り囲む閉鎖性、現状の街社会を守らんとする精神性が見える。部外者はこの精神性を無碍に否定する事はできない。だが、写真に写ったりまさんの笑顔は、本当にこれでいいのか、この社会に問題は無いのかと明らかに訴えかけている。カメラを向けられ恥ずかしかったのだろうか、笑顔ではあるがどこかぎこちない笑顔にも見える。しかしポーズとしては手踊りの型にはまっている。りまさんは手踊りを通じ、街社会をきちんと受け継いでいた。そしてそれでもなお若干はにかんだ眼は、現状の街社会に対し疑問を投げかけ続けている。

街社会はりまさんの眼を見つめ続けることができない。りまさんの眼は街社会を責め続けるからだ。一方街社会は自身で責任を取りたくはない。死んだのはりまさん個人の選択であって私達社会は間接的にしか、りまさんの死に影響を与えてはいない、と。

 

朝に書いた上記の一件は、夜には「入賞取り消し撤回」という回転否定を見せた(※2)。改めて考えると、写真に対して価値をつけることは非常に難しい。比較対象として絵画を考えてみると、絵画はある程度時間をかけて対象を描いてゆくが、写真は一瞬で撮れてしまう。被写体がカメラを意識することなく写真は出来上がってしまう。確かに被写体にカメラを注目させることもできるが、そうでなくてももちろん構わないわけだ。コンテストを行うとなると膨大な写真を撮るカメラマンがいてもおかしくはないだろうし、その中でどれだけ被写体にカメラを意識させた写真が含まれているだろうか。コンテスト狙いの玄人風カメラマンが「はい、チーズ!」と言って写真を撮っている姿は少なくとも見たことがない。

写真コンテストに配慮を求める事自体が間違っているのではないのか。写真家はあくまでも偶然カメラのレンズに画像が入り込んでしまったとしか言いようがない。確かにレンズを向けたのはカメラマン本人だが、それがどのような内容を未来において含みうるのかをどうやって想像すればいいのか。そしてその写真を不用意に(などと言いたくはないが)コンテストで選んでしまうことの難しさたるや、さながら交通事故のように避けようがない。

ところでここにこそ絵画が見出すべき一つの道筋があるのではないか。つまり写真は以上の論からすると少々偶然に頼りすぎているフシがある。一方絵画は一定の時間の厚みがある。構造として偶然が起こす悲劇を消し去ることが出来る。意図を構築することで無駄な苦情や批判に口出しさせないことが可能である。写真は論争的だが絵画は内省的である。ところで絵画も表現なのでその内省を人に伝達することが出来る。偶然を極力排しつつ責任持ってある事柄を正々堂々と主張することができる。あるいはそうした性質を逆手に取って偶然を忍び込ませ、観るものの裏をかくこともできる。ここに絵画の果たすべき役割がある。

―――

現状、日本の街社会はカメラで写真を撮るように偶然狙いの無責任である。国家や地方自治はなんとか責任を取ろうとし、社会に対しても一定程度投げかけを行っている。なぜならば市民や国民の投票のため、である。自分たちにめぐりめぐって利益になるだろうから、認められうる仕事だろうから、国家や地方自治は社会に投げかける。だが社会の側は仕事で忙しい、となる。投票ぐらいしか社会は社会自身のためにやれることはない、となる。確かに働くことは忙しいことだ。忙しいからこそ仕事になる。楽な作業とは仕事ではない。考えながら作業をすることが仕事には求められる。求められ続けるために仕事に執着してしまう。街社会にいる人々は街社会自体を意識することができない。社会人は実は社会人ではない。

でも、そこまで仕事に消耗しているわけでもないんじゃないか。結構みんな元気にやってるし、余力を別の部分で活かしてみてもいいんではなかろうか。

もし余力なんてないよっていうならば、それはそうなのかもしれませんね、余力って自分で作り上げてゆくものでしょうからね、という返答になる。だからやっぱりルールが必要なんです。自分の中でルールを作って、そこまでは全力でやるんです。で、ルールまで行き着いたら止める(※3)。で、余った時間と自分の力を合わせて別のことをする。じゃあなんで別のことが社会を作るのに必要なんだろうか。仕事だけしていれば社会は自然と成り立たないの?

成り立たない。社会は全面的かつ不可避的に責任を負わなければならないが、仕事の負う責任は部分的だから。

仕事ってそんなに責任もってやるものなのでしょうか。たとえ医者の仕事だって、人間死ぬときは死ぬっていう前提で医者の皆様が働くべきだと思うのですが。それが事実に沿った仕事内容だと思うのですが。自分が大切に思っている人が病気で死んで、じゃあ医者のことを恨みます、医者も死なないと納得しませんっていうのは流石におかしいでしょ。でもそこでは(ある意味)医者は責任を逃れているわけだよね。仕事って結構責任を逃れるよね。契約ってある部分まではやるけど、それ以外のことはしませんっていうことでしょ?だったらそれは枠内までは責任を負うけれども、枠外は責任を回避しますってことでしょ?やっぱりある部分では責任を逃れるわけだよね。仕事はある部分では責任を負うけれども、それ以外の部分は責任を逃れるよね。

一方社会はどうでしょう。一人の人間がある社会に属する以上、その社会において責任を果たすよう要求されるわけだ。しかもそれは契約ではない。偶然生まれたならばその社会において偶然責任を果たすよう要求される。偶然あることをし始めてその社会の一員になってしまったら、その社会の責任を果たすよう要求される。その要求を受け入れて、応え続けることもできるし、そんな要求知るかといってはねつけることもできる。だけど要求をはねつければはねつけるほどその社会には居づらくなってしまう。

要求は不当な場合もあるだろうし、受け入れることで楽しくなる要求もある。大切なのは社会からの要求を自分の意志で選べるということだろう。そのためには選べる状況も必要だけど、同時にやはり先程から話に上がる、自分の中に基準が必要なわけだ。仕事は相手と自分との双方でルールを取り決めるんだけど、社会においては要求ばかりがあって、その要求に応えるかどうかは自分のルールに照らし合わせて決めてゆくってことになる。つまり社会においては相手とのコミュニケーションはあんまりない。もちろん対象としてこの人に決めますっていうルールを自分の中に決めるならばそこではコミュニケーションが成立するけれど、一対一の関係では次第に契約的な、仕事的な関係が増えてゆくんじゃないかなっていうのが僕の考え。

とにかく、社会の中にははっきりした「ここまではこうして、ここからさきは自由でーす」っていう立て看板があるわけじゃない。そんな茫漠とした土地を見せられて僕らは呆然と立ち尽くしてしまうわけだけれど、やー、ちょっとぐらい怒られるようないたずらを積み重ねていくしか社会の中でやっていく方法はないんだろうか。まともに社会の要求へ応えてゆくこともないと思うんだ。奴ら結構狂ってるし。特に街の奴らはかなり狂ってる。そういう時代だって言うし、ここは狂ってるってことで間違いないことにしておこう。とするならばそうした狂ってる奴らから発せられる街社会の要求もまた狂ってるわけで、であるならばその要求に対してまともに返していてはこっちも狂っちまう。仕事に影響が出てしまったら元も子もないわけで、だったらそういう要求に応えるルールは「狂った要求には遊びながら対処を」ということがまあ生ぬるいルールということになる。

やっぱり生ぬるいでしょう。遊ぶことが楽しいことだとは思うよ?でもそれじゃあまだ仕事の世界から社会に飛び出した格好にはならない。別に社会に参入することを仕事にしろとまでは必ずしも言い切らないけれど(もちろんそうしたことをなさっている人がいることも極々少々存じてはおりますが)、要求に応えることが遊びだっていうのは心構えとして残酷すぎませんか?さっきは社会にコミュニケーションはないとか言ったけれど、それぞれの要求に応えることってつまりは相手がいるってことを意識するってことですよね。一人に集中はしないけれども、それぞれ要求を持った相手が複数人社会に存在していることを意識することが大切ではないか、ということを申し上げたいわけです。

 

しかしね。この「相手に執着することはなくても複数人の要求をもった人間がこの世に存在していることを横目で確認する」っていう作業、社会においてそうした作業をしなければならない責任が各個人にあるとはいえ、かなり難しいんではないかと思うんです。ということを考えるべく、最後にこの前会った宗教の勧誘について書きたい。

かなり軽い感じでおっさんに話しかけられた。「お兄ちゃん、何してんの?学生?」とかなんとか。南妙法蓮華経とおっしゃっていたので日蓮さんの信仰をお持ちだと推測した。そうかと聞いたらそうだとおっしゃっていた。「悩みとかない?」などとぶっきらぼうにも問われ、まあ人生ですからね、いろいろ・・・と言いよどんでいるうちに相手の側からざっくり「そうだよね!人生色々あるよ・・・」と話の線を取られてゆく。すぐさま人生を木に例え始める。木に対しておしゃれをするとか彼女をつくるとか、いろいろ飾り(おしゃれや彼女は人生の飾りなのか!?)をつけることは出来るけれど、肝心の根っこが弱いと木もダメになるそうだ。そこで南妙法蓮華経と唱えることで木に栄養を与えるのだそうだ。話は唐突に終わり、近くに集会所があるから来ないかと言う。断る。これが顛末である。

私の祖父母が日蓮宗の信者とあって、そこまで日蓮宗を毛嫌いしているわけではない。調べたら勧誘してきた彼らは在家信者の集団であるようだった。信者獲得によって信仰が深まると信じているらしく、どおりで熱心に勧誘するわけだと納得。したんだけれども、どうも気に食わない部分があったような気がしてならない気もするのだ。

それはかなり微妙なシーンだった。断りを入れたシーン。「いやーいいです」とこちらが言ったその瞬間に、熱心に語っていたおっさんはこちらに眼を合わせることなく「そっか、じゃ」みたいな感じで別の人に当たり始めたのだ。

いや終始おっさんの態度は軽かったよ?だけど、その別れ方はどうしても宗教家にふさわしいとはいえないのではないかと思うのよ。もっと未練たらしく、人の情念をつかみ出すように、少なくとも別れるときは相手の眼を見てさようならを言えよ。たとえあんたの信じてる宗教をこちらが信じられなくても、あんたも私も同じく生きてんだ。同じ土俵の上でならんで立ってんだよ。いい歳したおっさんが宗教信じてるとか気持ちわりーとか思われたかな、とか思ってんのか何なのか、恥ずかしがってるのか知らないけれど、なにはともあれ、おっさんのその本気で信じてる感じは良いの。すごく良いの。でも勧誘しようとして断られて、最後に別れるときに相手の目を見て、お聞きいただきありがとうございました、ではさようならって感じにならなかったのは宗教家として問題あるよねって思うのね。少なくともあなたの持論を聞くために私は時間を割いているのだけれど、そのことについて気にかけもしない感じはいやーな感触だけが残る。

かといってこの問題は他人事ではなくって、まあ人にはトラウマとか嫌な経験からどうしても人がそれぞれ生きていることをいつだって忘れがちで、ぶっきらぼうになってしまったり変に相手を遠ざけてしまうことなんてしばしばで、これが人生の大変なところの一つなんだろう。宗教家を標榜している人ですら、人がそれぞれに生きていることをそこまで意識しているようには見えない、この日本の街社会。おっさんだって普通に働いてる、いわゆる社会人で、仕事に嫌気がさしたのか宗教やってみようとかなったのかな。それはもうわかんないけれど、こういうことを踏まえると10年は街社会で修行かなとか思う。どう街社会で生きれるのかとか、考えなきゃならないと切に思う。

 

※1

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00339396.html

※2

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161019/k10010735321000.html

※3

ここらへんは貧困状態の人が労働を自分のルールで止められるのかーとかいうように、貧困問題とかと関わってきそうですけど、今回はその話題は難しそうなのでパスします。

文字数:8207

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