印刷

見えない郊外と見える映像

事件にはある効果がつきまとっていた。事件から人は逃れることはできなかった。個々人それぞれで衝撃的な事柄は日々起こり続けていた。人は、メディアは、ニュースは、事件を勝手に決めつけるけれど、それは実際には個々人にとって事件ではなかった。事件とは、まずもって個々人にとって人生を左右する事柄だった。しかし、世の潮流はなぜか場所について先取りしようとする。場所が事件の原因だとする論調は多かった。主要な原因にならずとも、事件の起こった場所に住む人々がどのように場所を捉えているのかを、インタビューされながら答える姿をイメージすることに難くなかった。

事件が場所のイメージを固定化させた。インタビュイーに語らせることで、インタビュイー自身のイメージは固定化していった。事件は場所のせいになっていった。

事件のせいで。事件が悪い。事件ゆえに、不愉快な思いは土地に、場所にかき集められた。

 

今現在は人口が全体的に縮小傾向にあるのか、かき集められるというよりも離散傾向にある。人も魂も。あるいは都市で小さくまとまる。人はどんどん少なくなってゆくので、今後も場所はどんどん小さくなってゆくだろう。

これは別段、広場が無いという話ではない。もちろん広場は無いのだが、それよりも小さきものの美、不要物の切り落としに意識が向いている。わたしたちは大きな空間を集合的に欲してはいない。そうではなく、まとまりと緻密さが欲しい。快適に暮らすためのメカニズムを知り、実践したい。

 

 

郊外とはどこにあるか

郊外に関する議論は一時期流行った。だが、その議論を見れば見るほど、一体どこに問題があるのかさっぱりわからない。むしろ、郊外には「問題」すら欲されたという感すらある。かき集められた。本当に、すべてが。

 

郊外のこうしたすべてを飲み込んでゆく力強さは都市から受け継いでいる。都市と郊外は対になって語られる地域だが、どちらも様々な定義手法があり、一意に意味合いが取れる語とは言いがたい。

本文章でも郊外は、毎朝、近隣の仕事あふれる都市へ通勤する人々が住む場所や地域を指す。この文章を読む人々も以上のように表現すると、自分が住んでいる場所も郊外かもしれないと思い始めるかもしれない。そう。どこにでもある、何気ない住宅街。バスに少し乗ると最寄り駅があって、最寄りの駅でも並大抵のことは済ますこともできるけれど、そこから電車に乗ると大都市に出ることも可能、といった具合の場所のことを指したい。

 

だが、この「郊外」という語を上記の意味で人は使っているのだろうか。確証はない。「私達のこの郊外」だと、人々は互いに住み合う間柄の住人と口を合わせることがない。考えてみれば「郊外」という言葉にはどこか蔑みの意味合いにも取れる感触がある。「郊」とは都市の外側の意味を指すそうだ。郊外とは、外の外、大外である。出て行ってくれと言わんばかりの土地、郊外。しかし、おいそれと簡単に出てゆくわけにもいかない。人々は郊外に土地を買い、マンションの一室を買い、戸建ての家を買っている。そして結婚もしている。人同士も、土地、すなわち都市と郊外同士も。それぞれを結ぶのは婚約届か鉄道か。

 

フォルダにきちんと綺麗に収まるように、家に収納され、格納される人々。人々はあくまでデータの一つであることを自覚するかのように、じっとしている。禁欲的ではない。むしろ感情に流されやすい。だが、その生活を手放すことはない。手放す方向性に転がり落ちてゆくことを極力避けようとする。あるいは生活が消えてなくなるということをつゆとも考えず、ひたすらに、まっすぐに自分の都市人生を歩んでゆく。使命感強く、整然を強烈に意識するため、自分ではない誰かがそう仕向けているかのように誤解するぐらい。

 

夢の世界かのように誤解するかもしれないが、郊外は夢の世界ではない。少なくとも今現在は、きちんと現実である。ちゃんと人が生き、人が死ぬ。平日は多くの人が大都市に通うために朝早くから駅に向かう。東京で暮らしている人の多くは、本当は東京の人じゃない。都市民は、本当は都市民じゃなくて、郊外民が多い。

 

郊外はありきたりな場所の一つになった。そこでは家が潰されては建ち、潰されては建つ。かつて住んだ人の家は穢れであり、郊外という物語から排除されるべきものだ。人は郊外という物語を切実に望んでいる。郊外はすべてを飲み込むように、すべてを引き寄せるが、「きちんと」という意識は強い。不要なものは当然「きちんと」捨てる。「きちんと」した郊外の物語を望んでいる。決して神話ではない、どこか別世界の物語ではない、私達の物語を望んでいる。

集められたもの。幸せな家族生活。残酷な事件、多くの人々に開かれたショッピングセンター。のどかな田園。均質な住宅街。それら全体を眺めて現れる異質な風景。ぼんやりとたゆたうような文体。善も悪もすべてが望まれ、郊外は生成された。どこにでも存在しうるすべてが一つの場所に欲された。

 

 

区別のつかない郊外

以上、郊外を言葉で表現してゆくと、その内容はどこまでが事実の郊外で、どこまでが欲された郊外なのか、区別がつかなくなる。それは様々な欲望が入り混じり、しかも一つの場にそれらの欲望が実現できる政治的、あるいは技術的革新があったためである。あるいはそのように集められた状況を一つの情報にまとめ、編集することによってさらに欲望を増幅させ、発信することが可能となったためである。

ここで郊外の様々な欲望をすべて取り扱い、丁寧に解きほぐしてゆく論調も可能であろうし、あるいは2つ3つの欲望の関係について集中することも可能だろう。

 

だが、それら2つの案では、郊外で暮らし、生きる人々にあまり理解されることはないだろう。欲望とはあまりに客観に過ぎ、人事のようである。生活において欲せられる瞬間はもはや言葉にならない。人を介さなければ手に入れられない物事である場合、初めてそれは欲望となる。これまで欲望、欲望と書いてきたが、郊外において現実化してゆくのは、欲望としても語られることのない言語化前の欲望である。ここでは仮に前欲望と称しておこう。とすると、郊外では前欲望が欲望を通過することなく現実化してゆくといえる。これを欲望するとして郊外では現実化するとはいえない。誰かが欲望している宣言しているわけではない。欲しいと思ったことがぼんやりと蓄積していき、そちらの方向性へ自然に向かってゆく。まさに夢の国、ワンダーランド。

 

だが、こうした前欲望と土地や開発、街や場のあり方というのは、郊外でなくともありうるのではないか。誰かが何かを土地や場、空間、街、村に対して宣言している事例は私達に馴染み薄なのではないか。むしろ手弁当であれができるこれができるとやり始めただけで、そこに天皇や武家といった政治的レイヤーが覆ったのではないか。政治的レイヤーは都市と農村に重点的に覆いかぶさり、郊外はそうした政治的レイヤーから逃れつつ、都市的な生活を続けようとした人々が寄り集まるようにしてできた街場である。さらに政治的レイヤーから逃れているために欲望を前欲望のままですら容易に現実化することが可能であった。社会的しがらみは薄く、都市的物資は潤沢に投資される。語られ、述べられることは多くない。映像と音声だけが頼りだった。

 

 


 

なぜ、こんなにもしゃべれないんだろうか。

この疑問は

他の誰かと共有している悩みなんだろうか。

 

誰かと気持よくしゃべれるというのは

とても楽しいことだ。

会話しながら

食事をし

会話しながら

仕事をし

会話しながら

ぼんやりと

時間を過ごす。

ああ

なんて豊かな生活なんだ

 

一人

家に

一人

 

一回だけ

「友達」が

遊ぼうと訪ねてきたけれど

塾があると

断ってしまった。

 

塾に行ったのも

ただ誰かとしゃべる

あるいは

時間をともにしたかったからだ

狭い友人関係を

広げたかった

 

うまく

編集できない

人間関係

自分の

立ち振舞い

見た目

発話される

言葉

 

どうして

過去は取り消せないのだろう

 


 

それは記録と現実が異なるからである。過去を取り消すという考えは記録と現実を混同してしまっている。記録はいくらでも取り消すことができる。あるいは自分の記憶、過去として想定している何事かをも、自分に嘘をつくことで消し去ってしまうことは、信念次第でいくらでも可能だ。

郊外には取り消せる過去が溢れている。なぜならば前欲望が現実化したに過ぎないからである。欲望という宣言がなされることなく物事は現実化してゆくので、実は無かったかもしれないという疑念を振り払うことが容易ではない。では、映像は?

果たして映像を編集して、写っていたものをうまく消したとして、それは「消した」ことになるのだろうか。郊外は欲望を言い表す前の前欲望が現実化してゆくために取り消すことは容易だが、映像には必ず編集元という欲望が存在してしまう。もちろん編集時において編集元が前欲望を受け止める役割を担うのだが、いくら前欲望を受け止めたところで欲望は欲望、無限大に1を足したところで無限大は無限大なのだ。

 

どのように収めれば郊外は映ることが許されるのだろうか。なにせ郊外は前欲望であり、映像は欲望なのだから。土台、無理な話だ。話が違いすぎる。どうしたって郊外は映像には成り得ないし、言葉にも、表現にも成り得ない。こういうものだと規定されることからするりと抜け落ちてゆく。

いや、むしろこうだ。はっきりした欲望である映像と映像の間に、はっきりしない前欲望である郊外を差し挟む。ある程度間隔を開けて投稿される動画。連動する連載記事。あー、そういえばあの時のあの記事、今どうなってるんだろう、そういえば郊外やそれを映した映像作品のことだったけれど・・・と、読者に郊外を想起させる。自身の前欲望は映像の欲望がもつ力を借りることでようやく郊外が印象づく。前欲望がもはや儚く消え去ってゆくとしても、そうであるならば別れとして、なおはっきりとさせなければならないという意志が見える。

 

それが「Camera-Eye Myth」という作品群です。

 

対象作品;「Camera-Eye Myth」(https://www.youtube.com/playlist?list=PL4ysmvuSa7SaPjkPBvMTceg2xhYWePLxX

この作品の「擬態」しようと思ったポイント:詩。

文字数:4194

課題提出者一覧