まだ人と人は強い愛によって結ばれるのではないか、と思われていた頃の2つの作品について
【課題1】
二作品に現れているそれぞれの愛は、全く性質が異なっている。
二作品の愛は、未成熟である。それぞれの漫画における主人公らの絵柄は老けているように見えるが、実際には若さあふれる、互いを愛すに愛せない二人の男女を描いている。どこか生き急いでおり、じっくりと相手を楽しむ心意気に欠ける。
例えば「コロリころげた木の根っ子」における愛は2つに分解できる。大和先生における愛と、その奥さんによる愛の二種類である。仮に大和先生の愛を愛A、奥さんの愛を愛Bとする。愛Aは自分の言いたいこと、やりたいことが通らなかったら暴力を振るう。愛Bは特定の人を殺すという強い結びつきを要請する。2つの愛に共通するのは相手への物理的ダメージを加えようとすること。また、2つの違いは結果である。愛Aは飼い殺し、相手を服従させようとし、愛Bは相手を死に至らしめる。
二人の愛は二人の関係を受動的なものにした。大和先生自身は絶対に動かない。酒はもってこさせる。旅行の準備を整えさせる。家庭内の問題を奥さんに責任転嫁する大和先生。また、奥さんは能動的に大和先生を殺そうとはしない。あくまでも間接的な、偶然任せの「殺人」にとどまる。なされる暗殺行為には黒々と強く燃える怨念が見えづらい。ただ、早く死ねばそれでいい。割合、軽薄な関係と殺人未遂がそこにはある。
第一大和先生が愛しているのは奥さんとともに創作である。その証拠に家の一切を奥さんの責任としている。あくまでも大和先生は仕事人間である。そして奥さんよりも創作を愛している。奥さんはあくまでも創作を成立させるための一つの道具である。道具がきちんと機能を果たそうとしないのだから、出る杭は打つほかない。暴力を振るってでも、「曲がったところ」をまっすぐに手直ししなければならない。そして道具が壊れてしまうことは大和先生にとって避けるべき事柄である。ゆえに奥さんを殺すまでには至らないものの、強い暴力によって勝手な行動を抑止する。そして奥さんは自分が殺されないということを分かって、「勝手な行動の抑止」をかいくぐり、暗殺の計画を着実に実行している。
ところで、どうだろうか。やはり奥さんも、そして特に大和先生は、戦争を経験したのだろうか。
その点に関して頭の片隅に置きつつ「老雄大いに語る」を見てみると、いかに人間の振る舞いが醜く、つまらず、さっさと捨てなければならないゴミであるかがよく分かる。宇宙局長は地球を捨てた。夫人が象徴となる地球も、もはや肉眼では見えない。だが夫人だけは捨てられなかった。夫人とは話がしたかったのだが、それまでできないできた。宇宙局長と夫人が互いに話すためには、明白に距離を離す必要があった。物理的な距離を取るしか、会話のテンポを合わせることができなかった。
夫人の側は国の威信という大旗を振って宇宙局長に近づいてゆくが、宇宙局長には夫人へ近づいてゆく理由がない。なぜ夫人と付き合い続けたのだろうか。夫人からのラブコールに根負けし続けてきたということなのか。とするならば、こちら「老雄」の示す愛の方が、「コロリ」の愛よりも純朴で素直だと言える。女のラブコールに男が応える「老雄」の愛に対して、「コロリ」の愛はどちらも互いの愛に対して無関心、あるいは無頓着であり、互いの関係についての無責任な態度は頑なである。
しかし、結果からみれば「老雄」の方がより無責任だといえよう。宇宙局長は、一時的ではあるにせよ地球を捨てるという人類最高の無責任さを打ち出した。
よりわかりやすく二作品の特徴を説明できるよう、表にしてまとめた。
二作品は同様に軽薄な部分を持つことから、きわめて強い愛情によって夫婦が結ばれているとはなかなか言いがたい。「老雄」の方は、まずはとにかくただ夫人と対話がしたいだけで、未だ愛し始めるに至っていないかもしれない。その点、暗殺をし始める「コロリ」の方は、双方で誤解やすれ違いがあり、それぞれの愛し方に違いはあるものの、大和先生は奥さんに家庭の一切を任せるほど奥さんを信用しており、奥さんは大和先生が暴力を振るってくるものの確実に殺すには至らないと悟っているように、双方の信頼関係は固く結ばれている。ただしその状況が双方共有の愛なのかといえば疑問である(ゆえに上記では愛を二種類に分別した)。より正確には取引であり、相手がこう出るならば自分はこうするといった程度のことでしかない。
では、より深く可能性を探るならば、「コロリ」で表現される2種類の愛の接点とはどのようなタイミングでありうるのだろうか。それは当然、二人で一人の人間を殺すこととなった瞬間である。その瞬間は大和先生と奥さんの初めての共同作業となる。まさにウェディングケーキ。切り分けられた臓物は出席者の人々に振る舞われ、人々は喜んでそれを口にする。今までこんなにもずれ込んできた二人の初めての共同作業である。周りの人間は喜ばずにはいられない。二人の愛はそのようにしても実りうる。この共同殺人のイメージは戦争時の人間性を匂わせている。
そして実は「老雄」の方にも2つの愛が存在する。夫人を想いすぎて何も言えなくなってしまう宇宙局長の愛。そして等身大の宇宙局長の後ろにそびえる国家権力を崇め、愛する夫人の愛。ゆえに「老雄」はバランスが悪い。そもそも宇宙局長の愛は結実することのできる愛であり、物語の最後においても実っている一方、夫人の愛は置いてけぼりである。夫人の愛は一向に実ることが無い。人は国家権力と結ばれることはない。国家権力に実体は無い。そして夫人は自身の振る舞いに関する事実にいつまでも気がつくことはなく、宇宙局長と生活を共にしてきた。宇宙開発の下りからも明白なように、ここには冷戦期の夫婦像が見受けられる。
つまり、この2つの作品を重ねあわせてみると、第2次世界大戦から冷戦期にかけての夫婦像が浮き彫りになっていると言えよう。もちろん「コロリ」の夫婦像が端的に第二次世界大戦時の夫婦像を描いているわけではない。平和な時代になってさえも、一時期の暴力性から抜け出すことのできない夫婦がいかにして暮らしているのかが示されている。そしてむしろ第二次世界大戦から離れてしまったからこそ、夫婦の暴力性は軽薄に映るようになってしまった。彼らは「戦争」を奪われたことで、受動的に、軽薄な振る舞いをなすものと捉えられるようになってしまった。軽薄だと受け取られることは彼らの本意ではないだろう。
一方の「老雄」が映し出すのはそうした夫婦の暴力性からも逃げ、別居状態へと発展した大戦後の夫婦像である。彼らは「コロリ」の夫婦よりも、より軽薄である。妻に地球を象徴させなければならないほど、夫は離れたところへ出て行ってしまった。もちろん、行きと同じ速度ならば2年半で戻ってくる計算とはいえ、老いも差し迫った大切な時間をみすみす自分から逃しに行ったのである。もはや宇宙のロマンなどと子どもじみたことを言っている時間は宇宙局長に無いはずだ。「逃しに行った」と書いてしまったが、これでは捨てたも同然、やはり宇宙局長は地球を捨てたのである。たとえ地球に帰還したとしても、もはや宇宙局長は文字通り「宇宙」人である。
宇宙局長の心、地球にあらず。とするならば彼の持つ愛は地球における愛ではなく宇宙における愛、宇宙の視点から地球を垣間見る愛である。これを仮に「宇宙愛」と呼んでみると、夫人の愛との区別がより鮮明になる。夫人の愛は、現状地球にしか存在し得ない国家権力への愛、言ってみれば「地球愛」である。
まとめてみよう。「コロリ」において夫婦から奪われていたのは「戦争」という体験、ないし時間であった。「老雄」において夫婦から失われているのは、双方が交じり合う空間である。その関係の結果は以下の通りである。夫婦の外側に立つ読み手の立場においては、「コロリ」の夫婦は暴力と暗殺が渦巻く白々しい関係が、「老雄」の夫婦は離れ離れになっても宇宙局長側は話し足りないと捉える向きが、それぞれ指摘できる。そして二作品双方の夫婦、各四者の主観的な立場に立ってみると、「コロリ」の大和先生以外満たされた愛を持つ人物は出てこない。そして大和先生の愛ですら奥さんが「愛してくれている」から満たされているだけだ。
愛とは器である。愛とはただ受け渡されるだけである。人という液体から人という液体へ、物理的な液体や霊魂という名の気の伝達が行われるだけである。愛とはともに共有する一つのものではない。愛とは各個人に、その手元にあるだけである。もちろん共有するなにかが二人の間にあれば、二人の愛の間の伝達は早まる。だが、早まったところでどうなのだろうか。それぞれの手元にある愛の器がそれぞれにおいてどのように映るのかが問題である。素早く満たされてゆく器を見ることに魅力を感じるのか、まるで月が満ちるかのように静かにぼんやりと満たされてゆく器を眺めているのが好きなのか、並々と満たされた器を豪快に飲み干すのがお好みか、小さいおちょこでちびちびやるのが乙なのか。
戦争という混乱期にあって、たとえ冷戦であったとしても、こうした愛に対する人の対峙の仕方にはブレが生じざるを得ない。小さいおちょこでちびちびやるしか、明日生きられるとも限らない世の中である(それはいつだってそうである)。酒は飲まなきゃ損損、愛だって飲まなきゃ損損、である。器など見ている暇も教養もない。
どの登場人物も「自分は強い愛情によって結ばれなければならない」と考えていたはずだ。だれもがそう信じていた。だが世は戦争状態を引きずり、ちびりちびりとでも愛をすすって生きてゆかなければ生き続けることは困難だった時代である。「強い愛情」を体験するには家庭内暴力でしか実現できなかった時代である。
愛に酔った大人を見て、子供たちはさぞかし軽蔑したことだろう。
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