楽しかった批評再生塾第n期
批評再生塾第一期生総代、吉田雅史(以下「吉田」)の最終論文は、批評再生塾生がいかに批評を学ぶべきかを教えてくれている。その一端を吉田の最終論文において検討しつつ、第n期の総括としたい。
1.吉田の最終論文がいかに読めるのか
吉田の最終論文、その始まりはヒップホップの前身ともいえるブルースを引用した詩から序章が始まる。その詩が発表された昭和の始まりから、歴史の中でサンプリング的技法は増幅し続け、50年後、ヒップホップ、そして日本語によるラップが沸き立ち始める。その背景にはいつもブルース由来の悲哀、抵抗、反撃があった。
「ヒップホップは、享楽の音楽ではない。それはいつも、悲哀を我が身に、反撃を叫ぶ者に寄り添って来た。」
だが、近年存在感を増してきた、そしてこれまでの解釈にはそぐわないラッパーが出てきたと吉田は分析する。それがKOHHである。
日本語ラップの分析を宣言することから第一章が始まるが、ところで1980年代に輸入された日本語によるラップは、そもそもすっきりと一つだけの筋に沿えばいいという単純な図式に乗るわけにはいかない。多くの日本における文化同様、ラップは海外から、しかも西洋から輸入された代物であるために、西洋へのオーソドックスなラップに合わせるのか、それとも日本独自の路線を貫くのかで二分されてしまう。とはいえ吉田はその点に関し、かなり楽観的評価を下している。すなわち、「日本語ラップはその誕生から30年の歴史を既に獲得している」という点を確認するだけで、まずはとどめている。あるいは最終論文冒頭にも書かれるが、源流であるブルースと関連ある詩がラップを連想させるように、日本語ラップの新たな可能性を模索するべく、日本語ラップが詩の条件から「自由に」、しかも「詩として存在しているのではないか」と仮説を提起する。そして日本語ラップの内容だけではなく、他ジャンルにまたがりうる話題としての、形式に焦点を当てた批評となることが宣言される。また、アーティストはKOHHを対象とし、その「和洋混合の要素」に基づいた「MCの革新性と、それを可能にした背景」について述べられると予告される。
第二章は日本語ラップの誕生として主にいとうせいこうを挙げ、いとうのリリースしたラップのリリックに見える、事後になって初めて分かる警告を見て取る。一方で日本におけるヒップホップの流れは初めJ-POPに回収されぎみとなり、1990年代にようやくハードコアなスタイルが隆盛、J-POPに回収されたヒップホップを批判することとなる。状況の整理がなされつつ語られるのは、「社会」であるならば「社会」が「社会」として、「ラップ」であるならば「ラップ」が「ラップ」として存在しているという、リアルを主張してくる多数派の論理から思い知らされる悲哀、またそれへの反撃、反抗である。いとうが社会に奇妙な様態であることをまざまざと思い知らされて、その有様をラップで表現したとするならば、KOHHに対してはどのような評価が、あるいはリアルがありうるのか。
第三章ではそうしたまざまざと思い知らされるリアルとKOHHとの関連性について分析するべく、今度はヒップホップの「正統」、アメリカにおける歴史からひも解いてゆく。1982年におけるラップの誕生は1990年代にかけてギャングスタラップとしてリアルを突き詰めすぎ、それぞれのプレイヤーたちは各々に速度を速め、「ヒップホップ」という類型化した物語に突き進んでゆく。「合理的」に考えて、周りの人間だったらこうする、この時にはこうするべきだなどと言語を用いて推論する現実は、大衆の世界とはサブカル的にも、アウトロー的にも一線を画す、ヒップホップの世界においても同様に存在する。そうした、推論し合目的な判断を下してゆく現実性を否定し、「『いま目の前にある現実』への賛美」だといえるのがKOHHのリリックだと評される。目の前の記述を徹底することで、記述による物語が自らの生へ侵食してくることを防いでいるという。
第四章では引き続きリリックについて、その形式面に踏み込んだ内容が記される。形式面に踏み込むため、実際のKOHHのリリックを見てゆくことでその押韻に対する態度を確認しつつ、批評対象であるKOHHとの比較として、かなり唐突にアーティストの志人が挙げられる。KOHHは押韻に対して「踏んでも、踏まなくても良い」態度を取り続けることで「今、目の前にある状況を映し出」すことに成功している。一方の志人は押韻もし、ラップによる日本の物語をふんだんに取り込み、「普遍」を訴えているという。
この志人による「普遍」の訴えは翻訳語の多用によって支えられているという。一方KOHHのリリックにはそうした翻訳語が入り込む余地がない。ではKOHHが使っている言葉はどのようなものであると表現できるのか。吉田曰く「家族や友人のコミュニティ=『一人称複数』に寄り添う10の語彙」だと言う。ごく少ない語彙ですべての「今」を表現するため、どのリリックの表現も一見すると単に同じことの繰り返しであるかのようにも見える。が、吉田はそれこそ、「今」について過剰に価値や物語を読み込もうとする人々への批判になっていると指摘する。
第五章では最終的な結論としてKOHHの「リアル」がどのようなものであったのか、分析を試みている。分析材料のために日本におけるヒップホップ史を三期に分けて概観し、日本語ラップ史にはリアルを形作る要素である「悲哀と反撃のうち、常に悲哀を欠いた、反撃=カウンターだけの歴史であった」と語る。そしてそうした体制側のヒップホップをカウンターするKOHH、志人らが盗み、勝手に持ち去っていったのは「私性」であった。物語を語る志人ですら一人称は徹底的に排除され、あるいはKOHHはもはや物語ですらない。そして奪われた私性のバランスを補うように、反撃の意図は喪失し、もはや「悲哀」に浸るほかなくなる。反撃ではなく、ただ独りでぼんやりと歩き、ぶつぶつラップしている。これが昭和を経た平成における「リアル」なヒップホップであり、このラップがどのような音となるのかを期待し、文章を終えている。
2.吉田の最終論文とそれに関連した疑問
以上が吉田最終論文の筆者なりの読みである。次に吉田による最終論文を通じて得た疑問点を列挙していくという、一番やってはいけないパターンをやってみようと思う。
・KOHHは物語から逃げているだけではないのか、今に注視して、「当事者」たろうとして、無意識的であれ物語を避け、他者との視点の「共有」を避け、他者からの批判を逃れようとしている欺瞞的な態度とは言えないのか。
・そもそもKOHHを批判することのできる点はないのか。KOHH大絶賛でいいのか。KOHHがリリックによって物語ることを避けるならば、歌が時代を映す鏡の性質を持っている点についてある意味無視しているといえないか。
・カウンティングとは反撃という意味ではないのか?そして反撃=カウンティングの無いヒップホップなどヒップホップなのか?もはや反撃せず、ただ独り歩き、悲しんでいる人間像など弱弱しくて誰が好むんだ?むしろ戦ってばかりいる、反撃ばかりしている奴らにリアルを見出そうとしなかった理由とは何か?もちろん戦ってばかりいる奴らはリアルなんて微細な物事に執着しようとはしないだろうけれど、批評の役目はそういう無意識に戦ってばかりで自分のリアルに気づきもしない奴らの持ってるリアルを見出そうとすることではないのか?もうすでにそういう批評論考はありきたりなのか?本道を行かない、脇道でセコセコやってる批評が総代の批評なのか?
・あるいはKOHHがやっていることは「物語への反抗」、「体制的ヒップホップへの反撃」とは言えないのか?本当に反撃は明け渡されているのか?刺青ガンガン入れてて「反撃してません」とかそんな無茶な。
・唐突に志人が出てきた理由は志人:KOHH=物語手:非物語手なだけ?
・第三章が第一節しかないのはなぜ?節分け必要?
・小説トリッパーでリライトしているというのも、それは編集の手が入るから当然の話だろうし、批評再生塾における記事と小説トリッパーに載る記事はまたそれぞれで「ゲーム」に違いが出るのでは?比較対象ではあっても、批評対象そのものにはなりえないのでは。あるいは小説トリッパーの記事を想定して批評を書くことを意識させようとした吉田の提案だったのか。しかし現実に投稿締め切り前までに出版されていない、すなわち存在しない文章を想定するのは、神を想定するほどの不可能性を帯びるのでは。ただ「リライトされる」という言葉による影響を与えたいだけだったのだとしても、一体その意図とは?単なる冷やかし?
3.以上の議論から見える第n期批評再生塾の総括
普通に自意識に陥ってしまっている第二章を終え、第三章である。最後に以上の筆者の議論を結ぶべく、第n期批評再生塾の総括、というか批評再生塾そのものについて考えてみたい。
批評再生塾に集う塾生らは批評のオタクたちが目立つ。現状の締め切り前の投稿を見てもそうだ。批評再生塾はごちゃごちゃと節操無くあれやこれや引用して論じることが大好きな人々の集まりである。吉田はそうしたオタクたちではない(なかった)ものの、並々ならぬ努力の痕跡や一定以上の批評的言葉を獲得し、実践しえたからこそ、総代になるべくしてなったのだろう。そこには批評再生塾の批評界における政治性が垣間見える。批評再生塾は明らかに批評界を新たな言葉によって脅かそうと試みている。批評オタクらの言葉ではない言葉を輸入したいという欲望が吉田を総代たらしめているように見える。吉田はそれに応えるように、これまで培われてきた批評的言葉を随所で取り入れながらも、とりわけ主題になるわけではなく、なおかつ論として、批評として成り立たせるような言葉遣いに仕上げている。
別段批評的ではない言葉によって別のことをし始めるのは、批評を批判するよりも簡単なことであろう。そうではなく、批評を熱烈に愛し、批評のオタクだからこそ、まずは批評的言葉を獲得させ、そしてさらに批評的言葉を獲得する以前から使っていた、全く批評的ではない言葉も運用してゆくことで、批評に新たな砂嵐を巻き起こそうという魂胆ではないだろうか。批評的な言葉と批評的とは言えない言葉の両者がもたらす非常に微妙なバランス感覚を要求しているし、ゆえに政治的でもある。しかし、残念なことに批評再生塾の「リアル」はそうした魂胆から離れてゆく。仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。批評的言葉を得るためには何かを犠牲にする必要がある。生き残る塾生は数少なかった。
だがどうだろうか。もしいくらやっても批評的言葉を獲得し得なかったのだとしても、批評再生塾を去る必要はないのではないか。毎回の投稿はたとえ壇上に上がれなかったとしても講師からのコメントがつくと聞く。たとえ自分の書いた文章が批評ではない奇っ怪な代物であったとしても、壇上に上がる優秀な塾生らが「あれは批評ではない」と軽蔑した目つきでその代物を見、そして見られることによって、「批評」と「非批評」の境目をより深く傷つけることに成功したと言わなければならないのではないだろうか。
塾生に書き続けさせることができなかった批評再生塾は今後どのように発展してゆくのだろうか。入ってくる塾生は日本語の分かる、ある程度多様な人々の集まりだと言わなければならないし、第n期総代をめぐって熾烈なデッドヒートを繰り広げるのもいい。しかし、デッドヒートばかりだからこそ残るのは批評的言語を持つ(持った)オタクたちである。しかし批評界は非批評的な言葉をも持ち合わせた人物を欲している。やはりここには甘い餌が必要だろう。非批評的な言葉を持ち合わせた人間が欲している甘美な香りとはなんだろうか。それは金、地位、名誉の3つに通じる何かである。批評はこの3つのどれにも通じているように見えないから問題である。
長々と馬鹿話を書き綴ってしまったが、批評再生塾生は独り言言いながらちんたら歩いてないで、どんどん別のことを考えていって、元気に快活に朗らかに、物の言い方を学んでいけることが理想なのではないだろうか。とこのようにして理想を打ち立てるからデッドヒートが生まれるのか?
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