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『擬日常論』の射程距離について

 

上北千明の『擬日常論』の最大の魅力は、「擬日常」というオリジナル用語、それ自体にあると言えます。非日常/日常という対比(柳田國男によるハレ/ケ、デュルケムによる聖/俗)に当てはまらない概念として上北は、

非日常が常態化してしまっている。非日常から日常に戻ることはできず、しかしそれでも日常を生きていかなければならない社会。それをここで「擬日常」として捉えようと思う。

と、2つの漫画(『花と奥たん』と『デッドデッドデーモンズ』)を通して、自らが創出した「擬日常」という言葉を定義づけています。震災以降(『花と奥たん』は震災以前からの連載)の2つの漫画において、新たな想像力が生まれ(前景化し)、それが「擬日常」と呼べるものだ、という論旨であり、その着眼は確かに鮮やかです。ただ、ここで、どうしても引っかかってしまったのは、私が『擬日常論』という論文タイトルを見て真っ先に思い浮かんでしまったものが、これら2つの漫画ではなく(2つの漫画は既知でしたが)、震災の遥か以前の1992年〜1995年に連載されていた、とある作品だったからです。その作品とは、荒木飛呂彦の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』(以下、ジョジョ)の 『Part4 ダイヤモンドは砕けない』(以下、4部)でした。どういうことでしょうか。

この4月からアニメ化もしているジョジョ4部の内容を簡単に紹介すると、それまでのシリーズ(1部〜3部)のような、「非日常的な冒険もの」という少年漫画の王道展開とは全く異なり、あたかも平穏な日常(主人公たちの住む杜王町)に、実は不気味な何かが潜んでいることが段々と明るみになってくるという、日常と非日常が綯い交ぜになったようなストーリーです。現に主人公らは、どこか別の町へ冒険に繰り出すこともなく、作中の間ずっと、(何かが潜む)杜王町にい続けます。ストーリー中盤、とある事件をきっかけに、主人公らは平穏な町に潜み続けていた不気味な存在の正体を知ることになりますが、そのまま一気に非日常路線に舵を切るわけでもなく、その後もまた、上北が定義する「擬日常」的な感覚を持って、ストーリーは進んでいきます。そして今回のアニメ化にあたり、OPテーマ曲の歌詞が、極めて的確に、原作の「擬日常感」を描いています。

すれ違ってく顔のない視線 胸の穴が変えてった日常
境界なんてなく出会う アタリマエの奇妙 U-yeh,
いつも通りの朝が うわっ面で笑う
正体不明のままに 惹かれあう Mystery
はじまりも言わず じっと潜んでる、この町のどこか
だけど今日も上々に 文句なんか言いあって
日常を踊る Crazy Noisy Bizarre Town  ※1

初めてこの歌詞を見た人は、あまりに秀逸な「擬日常感」に驚くかもしれません。曲(歌詞)自体は、確かに今春のアニメ化に伴い作成されたものですが、あくまでそれは、(震災の遥か以前に描かれた)漫画の内容を的確に表現した歌詞であることを、強調しておく必要があります。さて、ここでわざわざジョジョ4部を一例として挙げたのは、当たり前ですが「擬日常」という感覚は震災以前から存在していた、ということの証左としてです。もちろん、そのことを上北も自覚しており、

(『花と奥たん』が震災以前から描かれていることが証明しているように)3.11以後にかぎられた感覚ではない。

として、具体的には押井守の『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)と神山健治の『東のエデン』(2009年)の2作品を、また、それらよりやや遡って小松左京の『復活の日』(1964年)を挙げています。ただし、具体的な作品の言及はこの3つだけで、その記述自体もごく僅かな文量にとどまっています。そして論文のラスト付近では、

昔の人はそんなふうには考えなかった。彼らは、自分たちがその上で暮らしをいとなんでいる大地は、もともとがふるふると揺れている鯰や龍の背中に乗っているような、じつに不安定なもので、鯰や龍がなにかの拍子にからだをひと強請するだけで、背中の上でくりひろげられていた平穏な日常生活などは、ひとたまりもなく崩れさっていくものだ、という感覚をもって生きていた。

と中沢新一『アースダイバー』(2005年)を引用し、ここでようやく、実は日本には古くから「擬日常」の感覚があったのではないか、という示唆を含み、論文は終わります。『擬日常論』は、震災に関する記述が多く、あくまで「擬日常」という感覚・概念は、震災後の社会を紐解くツールとして使われるにとどまっている印象を受けます。けれども「震災について、擬日常という視点から考える」のではなく、「擬日常という感覚・概念自体を深く掘り下げて考える」ことで、『擬日常論』は、実はもっと長い射程を持ち得たのではないでしょうか。私がジョジョ4部を連想したように、上北も震災以前のいくつかの作品に「擬日常感」をわずかながら見出していますが、日本のこれまでのサブカルチャー、いやもっと言えば文学作品には、そもそもこのような「擬日常もの」とでも言うべきジャンルの作品が潜んでいるように思われます。

もちろん上北は、あくまで震災後の社会を考える言葉を真摯に探しており、日本における「擬日常史」を優雅に探求しようとしているわけでない、ということは承知しています。しかしながら私は、『ゲンロン1』の巻頭言(創刊にあたって)に記されている東浩紀の、

現実について考えるために現実から離れる、まじめとふまじめの境界を揺るがして思考する

という言葉を思い出さずにはいられません。震災後の社会を考えるにあたり上北は、震災後の2つの漫画から「擬日常」という感覚・概念を見出しました。そこから次にすべきだったことはむしろ、そこを起点に時間を過去に遡って、これまでの日本における「擬日常もの」について、(論文内に触れられている程度ではなく)もっと掘り返して考えてみることだったのではないでしょうか。それが、一見遠回りだけれども、『擬日常論』の射程距離(遡った過去だけでなく、未来への射程においても)の拡張につながった可能性があったのではないでしょうか。震災後の社会を考える上で、逆説的にだが、あえて一度「擬日常史」を探求してみる。それによって、実はかつて日本に何度か立ち現れてきた「擬日常」という普遍的(かもしれない)テーマが、今回の震災後に前景化したというような、いささかスリリングな論になり得たのではないか、と思えてしまうのです(あたかも『復興文化論』において福嶋亮大が、かつて危機を乗り越える際に前景化してきた「復興文化」の歴史を、遥か古代から遡って探求していくことによって、今ここの復興だけの話にとどめない射程距離を導き出したように)。『ゲンロン1』に掲載の共同討議基調報告「批評とメディア」の中で大澤聡が、

一九七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に成立困難となる。

と述べているように、現代に近づけば近づくほど、批評の対象領域は、どんどんと拡張(良くも悪くも)しているということはよく指摘されています。 それら水平方向の拡張だけではなく、近視眼的な今ここだけではない、あるときは日本古来に遡り、ときにはそれを梃子にして大胆に未来を夢想する、そんな過去と未来の遥か彼方の広がりを読者に感じさせる(現代の、とりわけ震災後の社会では、そのような遠大なパースペクティブはほとんど提示されなくなりました)長い射程を持つ批評こそ、次の時代に残るこれからの批評となり得るのではないでしょうか。

※1
『Crazy Noisy Bizarre Town』
作詞 – こだまさおり / 作曲 – 小田和奏 / 編曲 – MACARONI☆ / 歌 – THE DU(城田純、和田泰右、Jeity)
(1番の歌詞より引用しました。)

文字数:3178

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