印刷

資本主義における<農>の肯定と変革

 

「財産・企業・産業が政府ではなく、個人によって所有される経済・政治制度」

(コウビルド英英辞典 “capitalism”の項の和訳)

 

「なぜ資本主義の運動がはてしなく(endlessly)続かざるをえないか、という問い。実は、それはend-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本もまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

(柄谷行人『トランスクリティーク』)

 

 

2014年、モンサント社やスターバックス社などの加盟社によって構成される全米食品製造者協会は、ヴァーモント州にて州レベルとして初となる、遺伝子組換え作物(GMO)を含む食品の表示を義務づける法律の成立に対し、表示義務の差し止め訴訟を起こした。するとミュージシャンのニール・ヤングは、オフィシャルサイトにて、“GOODBYE STARBUCKS!!!”と言い放ち、「私はラテを毎日購入していたが、昨日が最後になった」との文章を掲載し、スターバックス社に対して公然と非難の声を上げ、不買運動の先陣を切ったのだった。9.11のテロ直後に自粛されていた「イマジン」を歌い、また環境活動などのアクティヴィスとしての側面でも知られるヤングは、この件でもファンに強いインパクトを残した。ヤングはこのように言う。

「モンサントにしてみれば私たちが何を考えていようが構わないだろうが、一般社会を相手にしている会社スターバックスはそうはいかないだろう。この件をしっかりと注意喚起することができれば、スターバックスが訴訟を支持するのを止めさせることができるかもしれないし、その他の企業に対してもプレッシャーをかけることができる。」

 

1970年代の発明以来、バイオテクノロジーの発展に拍車をかけた遺伝子組み替え技術とは、ある生物の遺伝子の一部を切断し、そこにある目的をもった別の生物の遺伝子を導入し、つなぎ換えて新しい生物の遺伝子をつくる技術(GM)のことである。それは多くの人間がおぼろげに想像しているような、同種の遺伝子の中での組み替えに限らない。ある生物の遺伝子にまったく異なる生物の遺伝子を入れることもある。例えば、北極ヒラメの遺伝子をトマトに導入し、凍りにくい性質をトマトに「改良」する。2013年の調査によると、全世界の作付け面積では、大豆は79%、トウモロコシは32%、コットンは70%が既にGM作物で占められている。そして、グローバル大企業による寡占によって地球規模の農業政策までも左右されている現状がある。例えば、世界貿易機構(WTO)が定めた協定により、遺伝子組み換え作物に知的所有権が与えられた結果、その種子を使用する農家には、自家採種の禁止、特定の除草剤の使用などが義務づけられ、農民は既に自由に種を蒔くことが禁じられている。GMの代表的な大企業として知られるモンサント社は、なんと除草剤耐性を持つGM作物とセットで自社の除草剤を販売する戦略を考えたのだった。その危険性を十全に知らされていないナイーブな消費者は、GM作物そして除草剤を体内で吸収することになるのだが、双方に関して安全性の面で、実証の不備が指摘されている。例えば、セラリーニ教授によるマウスを使った実験によると、除草剤はもちろんのこと、除草剤がなくてもGM作物の有害性が証明されている。GM作物を摂取したマウスの腫瘍発生率、肝臓や腎臓の異変、さらには寿命率に明らかに有意の差が見られる。それはあくまでマウス一匹に対する実験に過ぎず、食物連鎖による生態系への半永久的とも言える影響は、もはや誰の想像もつかない。

-————————

確かに、ニール・ヤングの行動は多数の人間の耳目を集めた。しかし、理想主義的あるいは本質主義的に考えるならば、そもそも大元のモンサント社を槍玉に挙げるべきではなかったか。しかし、ここでのヤングはあくまで極めて現実主義的だ。日常の煩雑な雑務に追われる人々の行動に、そのつましい消費活動に変化を与えようとしているのだ。しかしこれは、確かに食に対する人々の意識に明確な変化を与える極めて実践的な作戦ではなかったか。

プラグマティズムの哲学者として知られるリチャード・ローティだが、彼の政治思想を具体的に短く述べるならば、ジョン・ロールズの『正義論』と共同体主義の台頭を背景に生成されたと言って良い。それは、政治哲学的に言うならば、財の再配分と文化の承認という2つの側面を考え、カント主義的な個人から構成される理想的な社会をすぐさま構想するのではなく、アメリカン・デモクラシーというひとつの共同体から出発してリベラル・ユートピアを暫定的に、そして現実主義的に構想せざるをえない思考のあり方である。ローティによれば、民主主義とは一連の形式的手続きにあるのではなく、「道徳的理想」であり、またそうした彼のプラグマティズムを支えるのは「ある対象の概念を知ろうと思えば、その対象に働きかけて、我々の行動に与える実際的結果を見よ」という格率であった。

このように考えるとき、ニール・ヤングの行動倫理の原液にも、プラグマティズム的な思想が深いレベルで交差していることは明らかだ。自分の行動が人々に与えるインパクトや経済的効果などを予想した上で、本質主義的ではなく、あくまでも生活圏の中で実践的な政治的アクションを起こしていると言える。

 

-————————

生理中の自殺——-。

それは『サバルタンは語ることができるか』において、インド東部ベンガル州出身で、デリダの『グラマトロジー』の英訳者としても知られる文芸評論家、ガヤトリ・スピヴァクによって取り上げられたブヴァネシュワリ・バドリのあまりにも有名な自殺である。反英闘争に身を投じていた若い女性であるブヴァネシュワリは政治的苦悩のなかで死を選ぶのだが、スピヴァクは、それをサバルタンとして中心的な権力と知から抑圧されている人々の声である、第三世界の女性性によって規定されるステレオタイプに抗する声として読み解く。ヒンドゥー教にはサティと呼ばれる、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をするという社会の慣行がある。インドの伝統主義者たちにはそのような慣行は、自殺は自ら望んでやるものだと想定されており、それに対して白人男性主義的な視点から見れば、そのような悪習から救い出すことによって自らの文化の正当性と優位性を主張することができる。しかし、伝統主義的な男性の側にも、あるいは白人主義的な男性の側にも立てない第三者の女性性からも、社会的なコンテクストを脱構築する意志を、そして力を発動したいと真に考えた時に、声を持たない者の声として自殺が選ばれた。そしてそれは生理中にあえて行われたことによって、望まない妊娠をして自殺をするという、当時の自殺の典型的な例ではない自殺である、という意志の表示なのである、というのがスピヴァクの<読解>であった。そしてポストコロニアル批評を発動する思考の発端となったのだ。

第三世界であるインドの農業でどのようなことが起こっているのだろうか。それは農家の自殺である、そう諭すのはガンディーの「非暴力・不服従」の思想に強く影響を受け、遺伝子組換え農法に対し批判的で、地域に根ざした有機農法の重要性を説くインドの環境活動家のヴァンダナ・シヴァである。

農業のグローバル化が進展するにつれ、西洋で異種交配された種子がインド中に蔓延することによってインドの様々な厄災をこうむったと言う。農家は種子と殺虫剤を買うのに借金を強いられ、綿花の種子がインドを席巻したことで、農薬使用量は20倍になり、1,2年のうちに農家は借金地獄に苦しむようになり、これまでにインド中で20万人の農民が自殺したと言う。これはまさに、スピヴァクの言うような、声にならない貧民層の農民、つまりサバルタンの自殺に他ならない。

 

-————————

シヴァの思想は、ローカリゼーション、つまり地元での有機農法から出発して、歴史的な変遷を経て練られた人間の経験的な知識を、身近な生態系と自然環境の中で発揮してコミュニティを存続させていく姿勢である。そこにはその地域に適した個性的な有機的な自然との連帯がある。大量生産を行う訳ではないので、その農法自体の普遍性を主張することは困難であるが、世界の国々、例えばノルウェーではGMに対する法規制がされており、ハイチでも人々によるGM作物の種子の焼却運動が起きており、それぞれが自発的に抵抗の手段を取っているのだ。

本質主義的に考えず、日常の経験から実践的に社会を改良していく、というのがニール・ヤングの、そしてリチャード・ローティのプラグマティズムであるならば、第三世界から西洋社会の思考的な枠組みを捉え直すことが、ヴァンダナ・シヴァの、そしてガヤトリ・スピヴァクのラディカルな脱構築だと言えるだろう。そしてそれは、遺伝子組み換え作物のみならず、現代の大企業が寡占的に支配する大量生産型社会に対する、ひとつの大きな批評的思考の枠組みとなる。

 

-————————ナンシーフレイザーのマトリックス

 

さて、状況を整理するためにナンシー・フレイザーのマトリックスを一度想起してみよう。政治哲学の文脈で著名なロールズは、『正義論』の後、穏健な多元主義を唱えたものの、基本的には財の再配分を中心に考えていた。そして90年代以降になると、多文化主義者がマイノリティーとしての文化の承認を求めることが流行し、いわゆる文化左翼が生まれた。つまりその当時は経済面で財の再配分を考える者と、文化的な承認を求める者が、両極に別れてしまった。そのような状況下でフレイザーは『中断された正義 -「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的考察』において、その二つの不正義について双方の複雑な関係を分析的に区別することによって、正義論の新しいパラダイムを構築する野心的な理論化に取り組んだのだ。

まず肯定と変革という言葉について述べなければならないだろう。不公正に対する治癒策である肯定というのは、社会基盤を壊すことなく、表層的なレベルで変化を加える、ということである。それはしばしば構造的な欠陥を修正するには至らない。つまり現状の修正型措置であり、そのような中で改良することである。それに対し、変革の方は、分配や承認を行う社会的基盤そのものに構造的な問題があるとして、公正さを追求することである。これは脱構築的な働きを持ち、根底的な文化・価値的構造を変革することによって不公正を正そうというものである。集団的アイデンティティーや差異を不安定化させることによって、万人の自己意識を変えようとするラディカルな戦略である。肯定と変革はそれぞれ、財の再配分と文化の承認の問題に当てはめて考えることが可能である。

マトリックスをもとに考えるならば、リベラルな福祉国家においては、表層的な再配分に重きを置き、主流派の多文化主義をある程度保証する一方で、内部化された非承認がより大きくなる可能性を秘めている。主流派の多文化主義は既存の共同体間の表層的な配置を決定し、既存の共同体の差異を強調する。承認の脱構築においては、共同体的な差異を不安定化させ、また既存の承認関係の土台を揺るがし、新たな承認関係を再構成しようとする。

フレイザーはこういった類型的枠組みを作ったあと、二つの是正策が同時に追求される場合、二つの是正策が同時に追及される場合の組み合わせが良いのか、検討している。集団の差異化の基準をもとに判断して、表における斜めの関係、つまりリベラルな福祉国家と脱構築、社会主義と主流派の多文化主義は見込みがないとされる。そして将来性があるのは、リベラルな福祉国家と主流派の多文化主義の組み合わせ、社会主義と脱構築の組み合わせである、と言う。

(ここで注意しなくてはならないのは、フレイザーが社会主義と述べたものは、既存の社会主義ではなく、資本主義に対する有効な代替案の見出せない現状での計画経済ではない、未だオープンなままの「再配分」を基礎とする社会思想のことである。)

そして、フレイザーのマトリックスの中では、ヤングのとった行動というのは、自由な政治思想を表現を主張するアーティストによる、スターバックスの不買運動、すなわち他社製品の購買の勧めであり現状における打開措置という肯定/再配分の項に当たる作業であり、シヴァの取った脱構築的な運動は、変革/承認の項に当たるだろう。それぞれ全く異なる立場ではあるが、グローバル資本主義が台頭する状況の中で、<農>の多様性と自由を死守しているのだ。

 

-————————

冒頭で引用された言葉にあるように、資本主義はその言葉の定義通りに捉えると、それは個人によって財産、企業、産業が政府ではなく個人によって所有される経済・政治制度に他ならない。そして、満たされた自然環境が続くという条件下であれば、資本主義はシステム的な終焉は存在しない。しかし、地球規模で見た場合に、モンサント社の事例に見る通り、独占的なグローバル企業が地球規模で農と食の環境を一変させてしまう事例が発生している。この事例の進展はやがて人類に甚大で不可逆的な影響を与えるだろう。

 

すなわち、<農>は人間社会の終わりと、それに必然的に伴う資本主義の終わりを画定する一つの重要なファクターである。資本主義を常に蘇生、あるいは制御する国際的な産業として、また未だ増加し続けている人類に不可欠な食を提供し持続発展な社会において大きな位置を占め、はたまた環境問題にもなり得る。<農>の多様性が将来に渡って大きな位置を占め続けることは明白であり、今後もその動向に注視し続けることが必須である。

 

 

 

文字数:5696

課題提出者一覧