怪物性の内と外〜Lightning Boltのノイズの彼方へ〜
彼に匹敵しうる力は地球上に存在しない
ヨブ記 41章 24
1.Lightning Bolt
ほとんど体力の限界に挑戦していくかのように、歪んだ爆音をカオティックに延々と鳴らし続ける、狂気に満ちた持続。いわゆる通常の編成ではない、ベースとドラムの2人のみという編成であるにも関わらず、どんな既存のバンドをも凌駕するような音のエネルギーを発し続けるとともに、その演奏のどこかでバランスが崩れやしないかという、スリルに満ちた即興性。
私は、数年前のある日、アメリカ東海岸の都市部にある、何の変哲もないうら寂れたバーで、一つの強烈なパフォーマンスに遭遇した。ブライアン・チッペンデールによるドラムと、ブライアン・ギブソンによるベースから構成される、Sui Generis、(ラテン語にて、その性格が歴史に例を見ないという意)なハードコアノイズデュオとして知られるLightning Boltの演奏であった。
彼らは仮面をかぶり、ステージには上がることはなく、オーディエンスの手の届くフロアにて、半ばゲリラのようなライブを行うことで有名だ。曲は概して即興的で長く、ただひたすら2人の感性によって進行していくようにも聴こえる。一方はドラムという舵を、他方はべースという銛を持って、スリリングな即興性を保ちつつ、爆音と言う怪物と、長時間にわたって、対峙していくのだ。そして、ほとんど理性を失ったかのように高揚した観客たちは 邪魔になるほどの地点まで演奏者たちに接近し、頭を突っ込んで、その生け贄の正体を必死で確かめようとするのだった———。
2 『リヴァイアサン』
政治哲学上の怪物。それは人間の体の一部分の中に潜むものだろうか。それとも人間が怪物の一部分に過ぎないのだろうか。1651年に発表された、イギリスの思想家、トマス・ホッブズによる著名な政治哲学書『リヴァイアサン』。その表紙の口絵には、旧約聖書に出てくる雲をもつかむような壮大な海の怪物「リヴァイアタン」の名前にちなんだ、無数の人間の集積によって構成されている巨人の姿、「リヴァイアサン」が描かれている。一つのフィクショナルな形態である自然状態、「万人に対する万人に対する闘争」を想定し、それを調停する社会契約を持つ、個人個人の生存保存が約束された共同体という<怪物>の姿が描かれた。ホッブズによって描かれた国家のあり方は、国家のコモンウェルスを遵守する政治的秩序を、初めて社会契約論という理論的組枠組みで描いたのだが、かくして、共同体の構成員の生存は、各個人が、国家権力に恭順の意を表することで保証されることとなる。しかし、当然のことながら、その共同体の外部の者にとっては、その<怪物>は大きな脅威となって襲いかかる可能性が生じるのは、自明の理となるのは火を見るより明らかだ。実際、口絵に描かれている海の右奥には、煙をふいている四隻の軍艦があり、町には銃を携えた兵士だけが描かれ、つまりこの町は、海から迫るリヴァイアサンによって、今まさに攻められようとしている-——。近代国家の一因である我々にとって、国家が外部へと攻撃性を持つのは避けられないのであろうか?
3 『白鯨』
『リヴァイアサン』より200年後を経たアメリカにて、ハーマン・メルヴィルによって書かれた『白鯨』では、海の<怪物>(リヴァイアサン)は大自然を象徴とする白鯨(モービィ・ディック)として描かれている。語り手のイシュメイルによって読者に伝えられるその話は、多人種によって構成される荒くれ者たちによって、未踏の領域である海と島とを波瀾万丈に巡航するピークオッド号の航海の出来事だ。白鯨によって片足を食いちぎられエイハブ船長は、煮えたぎる復讐心を偏執狂的な性格を持ち、それは悪魔の化身と見なされ、他の船員も船長の決意によって命運を左右される。やがて決闘の日が訪れ、船長は銛を手に決闘を挑むこととなる。しかし、イシュメイル一人を残し、帆船ピークオッド号は乗組員全員とともに海底に沈んでしまう、というのがストーリーだ。
この小説は、地域的な流動性を持っている、外部から眺めるイシュメイルの視点の介在がありながらも、アメリカの例外主義と絶え間のない偏執狂的な占有欲が読者には伝わってくる。例えば、白鯨は、想定されるような暴力性を最初から秘めていた訳ではないにも関わらず、エイハブ船長による思い込みによって、凶暴さを露にせざるを得なくなる。結局、その復讐に執着した船長は銛を突き刺した白鯨によって海に沈み、ボートは白鯨の尾によって砕け散ることとなる。
『リヴァイアサン』が社会契約によって成立する一般的な近代国家という<怪物>を描いたとするならば、『白鯨』は<怪物>的な超大国であり、例外主義という特殊な形態をもったアメリカ合衆国を示しているのだろう。排外主義的なスタンスを見せるトランプと、ピークオッド号の理性的な航海士として、スターバックス(アメリカ国旗を象徴Starと資本を意味するBucksの連結だ)がいるのは象徴的である。しかし、ここでもまた、アメリカという国家、またはそれに従属している船員のような我々は、常にエイハブ船長のように敵意を外部に向けなくてはならないのであろうか?。
4.
ロック・ミュージック。それは人間の体の一部分の中に潜むものだろうか。それとも人間が怪物の一部分に過ぎないのだろうか。それはそんなアメリカの国の中で生じた反プラトニズムの音楽であり、社会によって生じる歪みを内部に生じるノイズを生成することによって調停する手段のことである。本来ならば、普遍主義的、あるいは伝統主義的になることはなく、いかなる地域から生まれようとしても転がり続け、ある種の民族音楽のような生真面目さと伝統を持つことはない、つまり、その音楽を模倣しようとする個人の内部に宿りつつも、常に他者へと転移し続ける非芸術的な芸術と言えるだろう。そんな音楽であるロックに必要なのは、自分自身に対し、揺さぶりをかけ続け、下らなさと過激さの融合でもって絶えず綱渡りをすることだ。起源を遡行することなく、模倣し、内部から生じる攻撃性を思いっきりノイズへと仮託するこ――。
Lightning Boltは、そんなロック・ミュージックをさらに過激な方向へと独自に解釈した<怪物的>なデュオであることは間違いない。因習的なバンドの編成、歌と演奏というフォーム、そしてアーティストと客という関係性全てにおいて変則的であることによって、異様な光を放っている。そして、内部に生息する狂気たる<怪物>を音によって召喚することによって、ロックに生じがちな因習性を回避し続けている。
2015年『Fantasy Empire』という発表した彼らは、いかなる帝国を夢想し、いかなる<怪物>的な音楽の企みをしているのだろうか。
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