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二十世紀音楽のポストモダン性について

「新しい芸術」なんて誰が決めるのさ、どうして新しいか新しくないかがわかるのさ?芸術なんて作ればもう新しくない」(アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』』

二十世紀についての反省的な思考には、私たちがいくつもの「終わり」を見送り、折り返し地点を過ぎ、ある臨界点を越えてしまった、という拭い難い感触がぴったり貼りついている。その思考は、このような危機を反復してきたという事態とともにある他はない。いや、この事態それ自体を露呈することが、その主題となるのである。(市村弘正『「名付け」の精神史  )

二十世紀文化史の「起点」をどこに置けばよいか。それは決して新奇な場所ではない。この世紀がいわば終末形態として始められていることを、私たちに想起させる場所であればよい。(市村弘正『「名付け」の精神史』)

いつの地点から音楽が離れてしまったのか、わたしにはけっしてわからないだろう。ある朝突然、音の出るすべてのものに食指が動かなくなってしまったのだ。かろうじていつもの習慣から、あるいはその視覚的美しさのために楽器に近づいていった。だが楽譜を開いても、もはや歌は鳴り響かず、あるいは細く縮こまり、あるいは別の歌にしか思えず、嫌気がさし始めていた。わたしにとって世界の果てであったものが、今や耐えがたい娯楽となってしまった。

わたしたちは奇妙な謎のようでもある。未来に向かって根を張り、過去の空に向かって枝葉をのばす蔦のような存在だ。

わたしたちは死よりも起源にとりつかれることもありうる。遺骸や腐った沈黙よりも、洞窟や暗い羊水や幼少期の甲高い声にさいなまれることもしばしばだ。(パスカル・キニャール 『音楽への憎しみ』)

 

逆向きに読むとは、個人についても時代についても記憶を辿りなおし、それを生きなおすことである。立ち還るという方法意識のもとで、すなわち現在そのものの認識の仕方において、私たちは二十世紀史を必要とする。(市村弘正『「名付け」の精神史』)

 

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二十世紀の最後の4分の1世紀が始まる時点で、音楽は混乱の様相を呈している。もはや、歴史的論議を進めることは困難になってきた。

(ポール・グリフィス 『現代音楽小史』 p208)

 

二十世紀後半においては、パトロンを喪失した芸術音楽は、一種のアングラ音楽へと先鋭化していったのではないか?前衛音楽に何かまだ可能性があるとすれば、それはサブカルチャーに徹することを通してのみかもしれないと考えることすらある。あの輝かしいモダン・ジャズは、それが「非公式文化」だったからこそ生まれたものだった。

(岡田暁生 『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』)

 

言葉、音楽、絵画、詩はすべて「思考の道具parole 言語活動(language)である。けれども思考はその言語活動の物質的な媒体のそれぞれ——思考の「語」——に自らの非物質的心理——知ることが出来る「語」の意味——を運ばせるのではなく、それ自体が自身の即興的な「演奏=解釈interpretation」として他の思考による解釈を求め、合奏concertとして意味を作り出すfaire。もちろんそれはまたひとつの演奏であり、また別の思考へと向けて放たれ。。このような意味において思考の言語活動は「音楽」である。

(市田良彦 『新<音楽の哲学>』)

 

どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである。

その実在そのものが秩序への挑戦である世界の中に死と秩序を取り戻すことは、戦争と戦争の永続性を取り戻すことである。熱烈な残酷さへの状態を取り戻すことであり、諸事物と諸局面のアナーキーである名前なきひとつのアナーキーを取り戻すことであるが、それら事物と局面は、統一性のなかにあらためて沈み込み、融和してしまう前に覚醒するのである。

(アントナン・アルトー 『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』)

 

答えはこうである。全体性に戦争を仕掛けよう。現前できないものの証人になろう。差異を活性化しよう。

(リオタール 『ポストモダンの条件』)

 

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状況が大きく変化するのは八十年代に入ってからである。その立役者の名前はジョン・ゾーン。アンソニー・ブラクストンの『For Alto』(69年)に刺激されてサックス奏者になったという彼は、マウリツィオ・カーゲルのミュージカル・シアターとカール・スターリングのカートゥーン・ミュージックからの多大なる影響の下で、ニューヨークのロウワー・イースト・サイドを舞台に、ヨーロッパでのそれとは著しく違ったタイプの「インプロ」を育て上げた。

ゾーンが「インプロ」に託した新たな要素とは。一言でいえば「サンプリング」である。ターンテーブル奏者クリスチャン・マークレーを起用し、レコード盤に記録されたサウンドを楽器と同様の「インプロ」の一要素として捉えただけでなく、演奏レベルにおいても、既存のジャンル/スタイルからのあからさまな引用や音楽的クリシェなどを意図的かつ組織的に取り込むことによって、ある意味では従来の音楽以上に「インプロ」では権勢をふるってきたオリジナリティへの信仰をダイナミックに解体してみせた。(佐々木敦 『即興の解体/懐胎』)

サンプリングのいちばん大事な、そしておもしろいことは、文脈から音を切り離すことが出来るという点ですよね。それは、必ずコンテクストを持っているわけです。例えば、非常に脱構築されている現代音楽というものがあったとしても、それはやはりひとつの音の場で、ひとつの文脈で持続していくものなので、その文脈とうことからどうも離れられない訳です

(坂本龍一 『キーボードスペシャル 1986年5月号)

 

そういう不連続な継起から出てくる感じというのは結局、<空虚>ということなんですね。

(坂本龍一 『未来派2009』

 

いまや芸術とは、その「空虚性」を引き受け、担いきるところに辛うじて成立するのではないか。終着の地点に背を向けて適切な折り返し点に立ち戻る、というのでなく、終末の地形を触知し、それに身を曝すことを通じて空虚なる「世界」のあり方を手探りする。それが、私たちに「わずかに残る」思考の道筋なのではないか。

(市村弘正『「名付け」の精神史』 )

 

また、彼は「ロクス・ソルス」や「コブラ」といったプロジェクトで、ベイリーの「カンパニー」では一期一会の邂逅の上演としてのみあった「集団即興」の方法論にシステマティックなゲーム性(ルールや勝敗の設定など)を導入することで、逆説的に「インプロ」の「イディオム」化を塞ぎとめようとした。ゾーンのこのようなアプローチは、高度資本主義が加速化し、情報のフローに限界が来て過飽和に達しつつあった、「ポストモダン」とも呼ばれた時代性と完全にリンクしていた。

(佐々木敦 『即興の解体/懐胎』p21, 22)

 

ジョン・ゾーンの「コンポジション」は,作曲法というよりむしろ編集芸術とでもいった方が,その本質をよく突いていると思います。呼び笛を用いた彼の音色的な戦略や,世界中どこへ行っても通じるだろう数学的な,かつユダヤ的な「ゲームの規則」,それに数多くのミュージシャンとの共演などは,いずれも音に向けてのゾーンのエディトリアルな欲求に支えられています。

(北里義之『ジャズ批評59号』)

 

フルートとバスクラというまったく異種の楽器を肉化することに成功したエリック・ドルフィーから,AACM のようなシカゴ派に特徴的な多楽器主義を貫く文脈の中に,ジョン・ゾーンのこの方法もまた位置していると考えられる。呼び笛一本が一つの “楽器” とは考えにくいだろうが,音色のみを必要とする彼にはそれで十分なのだ。いずれも楽器一本には収まり切らない表現の多層性が結果した必然である。 (北里義之『ジャズ批評56号』)

 

 

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わたしたちはかりそめに依存している死の間隙は、あらゆるもののうちで瞬いている。

この世に果てなどない。なぜならば死は成就しないから。死は終わらない。死は中断するだけだ。

 

死の間隙は、時がわたしたちに差し出す手だ。死が中断だとすれば、その中断は私たちの内部にある。それはわたしたちの性別された肉体のなかに、わたしたちの生誕のなかに、わたしたちの叫びのなかに、そしてわたしたちの眠りの中にもある。わたしたちの吐息のなかにも、わたしたちの思考のなかにもある。わたしたち二本足の歩行のなかにも、人間の言語のなかにもある。

(パスカル・キニャール 『音楽への憎しみ』)

 

我々が、ある理念が真であることをア・プリオリに知り得るのは、その思念が真であることを(それを何かと比べることなしに)その思念自体から知り得るときのみである。

(ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』)

 

それは、やはり執着というものだろう。

だが、身体がうごかなくなり、

心もはたらかなくなるときは、かならず来る。

それも、遠くない将来に。

人間が一個の呼吸器になってしまうとき、

音楽ではなく、ただ生きることそのものが

最期の調律と学習の場になるのだろうか。

(高橋悠治 『音の静寂 静寂の音』)

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