印刷

静謐の南 -その「原-芸術性」を巡って-

人類は、生物的な本能から知性を分化して発達できた、ほとんど唯一の動物であり、生物としての集団的な統制機能を失ったのと引き換えに、個としての限りない自由を得た。しかし、その自由は、発展途上の不完全なものには違いなく、知性により深刻化した生死に関するエニグマは、個人をひどく狼狽させたのだ。対して、共同体はその存続を常に自己目的化する。かくして、宗教をはじめとする共同体的な規範が、文明社会における個人と共同体のいびつな関係性を調停する一つの体系として求められることとなった。

確かに、共同体的な規範は、ある一定期間、文明社会(=北)に安定を与えたのだろう。しかし、あくまでそれは暫定的な調停をする仮構機能に過ぎず、知性が個に自由を提供し続ける限り、個と共同体との関係性は常に危うく、また脆弱であることには変わらない。

ある日、特権的な魂を持つ個体は、自然(=南)と対峙することにより、そのような共同性の外部からいきなり立ち現れる。ある動的な力を見つけ、また発生させる力を持つ。それはもはや知性の力とすら言えない、なにがしかの新たな力ではあるのだが、外部から共同体を変化させる力を持つ。そして、そのような力のことを、ベルクソンは、エラン・ヴィタール、すなわち生の飛躍と呼んだ。

音楽もまた、この共同体と外部という二項対立と相似的な関係性を持つ。つまり、共同体の一部としての音楽もあれば、限りなく純粋な状態の音楽も存在する。そして、その「原-芸術」的とでも言うべき力の発生は、どのように生起し、どこに向かうのだろうか?

 

—————————-

エリック・ロメールによる『レネットとミラベル 四つの冒険』(1987年)は、ハイティーンの娘二人がお互いの友情で結ばれ、成長していく瑞々しい物語だ。その友情は、ミラベルが田舎でバカンスをしている最中に自転車が故障し、偶然にも現地に住むレネットと出くわし、彼女の家に宿泊することから始まる。レネットは正規の教育も受けておらず、自然に囲まれた田舎にて、自由気ままに絵を描く生活を送る、純真で夢想家の娘であり、対してミラベルは都会的な教養と品性を持つパリジェンヌである。ミラベルはレネットによるもてなしを好意的に受けながらも、その素朴な田舎の暮らしと、都市に比較して情報量が少ないことに、当初はどこか戸惑いを隠せない。例えば、シュールレアリズムという単語すら知らずにそれに近い画風で描く芸術家志望の少女に、少し懐疑的な素振りを見せてしまう。

そんなミラベルに、レネットは自分のとっておきの時間を一緒に共有したいと申し出る。その共有とは、夜の虫がすっかり鳴き止んで、朝の鳥が目を覚まし鳴き始めるまでの、ほんのわずかな沈黙の時間である「青の時間」という不思議な瞬間を共に体験することであった。レネットは「夜と朝の間には完全な沈黙が存在するのよ」と言って、2人は朝を迎えることを約束する。1回目の朝は、車が通るというアクシデントがあり失敗するが、2回目は無事、その「崇高」とも言える特別な時間を感動的に分かち合うのだ。

自然に囲まれた田舎=「南」には、一日を過ごし終えた自然が一端濾過され、生に関する全ての事象が再び動き出すような、そのような静謐の力がある。そこには洗練されたパリ=「北」の人間をも完全に魅了するなにかがあり、その野性的な「南」の静謐さの持つ魅力をこの映画は捉えていないだろうか。そしてそれは田舎=南の持つ「原-芸術」的な力に他ならない。その不思議な経験をしたレネットはパリへの美術学校へと通うこととなり、同居するミラベルとの新生活と芸術への新しい修行が始まる−−−−。

 

—————————-

アメリカにおける黒人音楽の歴史をひもとくには、アメリカの「心臓部」を流れる世界第三位の大河であるミシシッピ川に関する地理的な知見が不可欠だ。音楽的に見てみると、ミシシッピ川はまずジャズ発祥の地として著名なニューオーリンズから入り、デルタ地帯へ。デルタから北へ行くとW・C・ハンディ(ブルース)とエルヴィス・プレスリー(ロックンロール)が生まれたメンフィスがあり、さらに北上するとスコット・ジョプリン(ラグタイム)やチャック・ベリー(ロックンロール)が生まれ、マイルス・デイヴィス(モダンジャズ)が十代の時に初めてディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーの共演を聴いたというセント・ルイスがある。

ミシシッピ川は単なる川ではなく、綿花や木材など、主要な産業を支えるに際して上流の都市へと輸送する経済活動にとって欠かせない大河であり、また物品の輸送と同様に、黒人も出稼ぎの季節労働者として、ミシシッピ川の南北を行き来した。そのような中で、デルタ地帯は特別に重要な位置を占める。デルタ地帯はミシシッピ州北西部に広大に広がる、木の葉の形をした沖積平野をさしているのだが、南北戦争以前は南から北へと黒人奴隷が逃亡していく際の要所であり、また南北戦争以降も、黒人にとってこの辺りはアメリカ一過酷な労働環境の場と言われていたが、それだけ多くの労働者が集まる土地であったのだ。そして言うまでもなく、音楽的な意味においてデルタ地帯とは、後のブルース史において多大な影響を与えることなるロバート・ジョンソンが彗星のごとく現れ、その短い人生のほとんどを費やした場所に他ならない。

若かりし頃のロバート・ジョンソン、少なくとも18、19のときの彼は、師匠のサン・ハウスにギターを弾いてはならないと諭されるほどに、技術力のなさから不快な音をたてたとされる。しかし一年後に師匠の元に戻ってきて再び現れると神業的な演奏を披露した。その理由として、彼はクロスロード(四つ辻)にて夜中に悪魔に魂を売り、代わりにギター演奏の技術力を手にしたという有名な伝説がある。

そのクロスロードを彼はこのように歌っている。

Standin’ at the crossroad, baby, risin’ sun goin’ down
Standin’ at the crossroad, baby, eee, eee, risin’ sun goin’ down

(クロスロードに立つうち、日は昇り沈んでいく。

クロスロードに立つうち、日は昇り沈んでいく。)

 (Cross Road Blues)

 

彼は一年のあいだに一体どのくらいの間、クロスロードに立っていたのだろうか。

現在その場所が伝わるクロスロードは、単なる道の交差以外に建物が何もなく、また過去もそのようであったことは事実のようだ。しかし、静謐な南の自然の中に、彼が長時間いたことは想像に難くない。ロバート・ジョンソンは、悪魔に魂を売り払ったというとき、西アフリカを経てカリブ海から伝わるブードゥ−的な悪魔を自分の中に内在化させ、「北」の白人性に対して「南」の黒人性を内面化し、半ば「悪」のイメージをフィクショナルに創出する作戦を取っているのだと言えるのだが、それでも音楽的な契機を与えた場所として、十字架にも見えるクロスロードはなんらかの神聖さを逆説的に帯びている。その神聖さの経験とは、レネットとミラベルが出会った「崇高」な南の静謐な力の体験と同様の体験であるが、アメリカにおいて黒い肌をした人間として半ば戦略的に、そして自嘲的に、悪魔に魂を売り渡したという話に変換したのだと考えるのが適切だろう。

 

—————————-

私たちはここでこのような仮説を立てることが可能である。ある特権的な魂を持った個体は、共同体の外から力を発生させるのだが、それは自然を模倣するのでもなく、まして今までの人間の技芸を踏襲するのでもなく、自然と対峙することにより、ある種の「原-芸術」的な動的な力を得ることができるのではないか?そしてそれには、「青の時間」のような崇高とでも言うベき特別な時間に遭遇し、そのような自然と対峙する必要があるのだ、と。そして、その経験をした人間の放つ音楽には、いかに力強い声で歌っても、技術力を開陳させても、不思議な静謐な力が宿っている。そう、それはロバート・ジョンソンの歌唱の間に見られる独特の沈黙のように−−−−。

 

独特の沈黙と言えば、クルーン唱法という、力の抜けたような、ささやくような歌唱法で知られるボサノヴァの創始者、ジョアン・ジルベルトもまた、そのように自然と対峙して「原-芸術」的な力を創出した人間の一人であった。ジョアンの声は静かな歌唱という意味で前例がなく、まるで静謐な自然と対峙し、音風景全体を聴いているような、そのような聴覚を私たちに想像させる。彼はアフリカ的な土着音楽の色濃い、北東集部にあるバイーア州のジュアゼイロを出生地とするのだが、方角はともかくリオに対して明らかに田舎(=南)である土地であった。そして、そこで最初のボサノヴァ曲として知られる「Bim Bom」を作曲したのはあまり知られていない。ブルースがミシシッピ川流域の大自然に霊感を受けたのと同じように、河岸都市ジュアゼイロで流れるサンフランシスコ川の流域の自然風景に影響を受けて作られた作品であった。そのように思考を巡らせた時、「Bim Bom」が放つ、あるジャンルが黎明期だけに持ちうるエネルギーを強力に感じていた私たちは「青の時間」のような「南」の静謐な時間を体験したジョアンの姿を容易に想像できるだろう。

 

—————————-

ちなみに『レネットとミラベル』において、レネットの話はまだ続く。レネットは、その田舎由来の野生的な感性を忘れることなく、ある意味で頑固なためにミラベルを困惑させることもあった彼女だが、アカデミズム的な技術を学ぶに際して、今までの感性を忘れることはなく、ミラベルの協力もあり、絵が一枚画廊で売れるところで映画が終わる。そう、南の静謐な「原-芸術」性を内面化した彼女は、画家として一つ成功の階段を登り始めたばかりなのだ——-。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文字数:4084

課題提出者一覧