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55年後のなんとなく、クリスタル

「この間までフランス人の彼氏さんと世界をクルージングしてたのに、今度は一人でスイスでしょ? その歳で由利って若いわぇ。羨ましいわぁ。」

と早苗は、まず出てきたシャンパンのグラスを片手でゆっくりと揺らしながら、ちょっとため息をつくように羨ましげに言いました。四谷駅から少し離れた、閑静な住宅街に佇むオテル・ドゥ・ミクニで早苗と春先の特別ランチを久々に愉しんだのです。

前回は、彼と3ヶ月間のクルージングをする前だから、その分時間は経ってしまっていました。早苗は20年前に婦人病の大病を患い、さらには最近病を患ったようだけれど、ただ、今はだいぶ体調が良くなってきたようで、それに合わせファッションも派手になってきていました。

「あら、あなたもエルメスのスカーフ素敵じゃない?」と私が言いますと、

「由利に刺激を受けたのよー。病に勝たなきゃ、実は喉にも跡があるのよ、いやになっちゃう」と返されました。

私はしばし沈黙した後、敢えて場の雰囲気を明るく変えるように努めました。

「しかし、あのハマトラ少女がねー」

早苗といると、お互い時間を忘れて昔話に余念がなくなるのです。

55年前なんていう大昔に、私たちは渋谷四丁目にある大学に通っておりました。早苗と私は同じ英文科で、同じテニス同好会。当時、ハマトラ少女だった早苗は、カッターシューズと呼ばれる底が真っ平らな“ペチャぐつ”に、丸いボンボンの付いたハイソックスを履いていたのです。

当時から、早苗とはお互いに恋人や進路について、夜中まで電話で話し合う関係でした。学生でモデルでもありました私は、売れっ子だったキーボーディストの淳一と神宮前四丁目のコーポラスで同棲していましたが、早苗にも自由が丘からほど近い国立大学の建築学科に在籍していた男の子がいて、そのことについてお互い誰よりも知っていた、なんてことがありました。

もちろんそれは遠い昔の話です。だけど、いつも話が一番しっくりとくるのが早苗でした。それから長い間、お付き合いする人は少しはいたけれども、私はずっと独身でした。一方早苗には、大手町に本社がある総合商社で働いていた亭主がいました。皆さん、もちろん、今は定年して、優雅な老後を楽しんでいるようです。私も仕事で忙しかったのですが、人生に一息ついた数年前から、時間が合えば、私たちは国内に温泉旅行をしたり、歌舞伎をみたり、シャング・ラやアマン東京、マンダリンオリエンタルなど外資系のホテルでランチをするのが日課となってました。

 

たけど、ここ最近は様相が少し異なってました。早苗の様子はそれほど芳しいというわけでもないし、喉頭癌の手術後は、気丈に振舞うもの、少し術後の疲労感が感じられるようになったのもまた事実でした。私も私の方で、さすがに残りの人生を考え始めました。長年燻っていたフランス人の彼氏、ロランと寄りを戻すこととなり、約3ヶ月のクルージングを敢行したのでした。

 

彼との出会いは、私が外資系の化粧品会社の会社員だった40年前にさかのぼります。私がいた会社はあるとき、M&Aを通して複合企業体に組み込まれ、企画再編のときに、彼がパリから赴任してきたのです。出会った当初は良い上司と部下の関係でしたが、彼の勧めでロンドンの経営大学院に30年前に私費留学。そしてそのような表向きの理由とともに、彼の案内の元、イタリアや南フランスを案内してもらいました。いわゆる仕事のできる上司として尊敬をしてましたが、故国に妻がいるはずの既婚者の彼との関係はヨーロッパで深まっていきました。

日本に帰りますと、会社役員となりました彼から、当時まだ新しかった元麻布ヒルズの一室が用意されておりました。どれもモダンにファーニッシュトされた素晴らしい部屋でしたが、東京タワーが一望できる部屋がお気に入りでした。お互い仕事が一息ついた金曜の夜に、急いで会社からタクシーに乗り、大きなヒルズの大きな駐車場に到着、コンシェルジュのいる一流のホテルのようなフロントを駆け足で帰り、ソファーでくつろぐ、ということをよくしました。そして、彼がさっと用意してくれるブルスケッタやテリーヌをパンにつけて食べながら、真夜中に東京タワーの灯りがぱっと消えるのをカウントし、ワインで乾杯する。もうそれは25年前のことでしたが、そんなクリスタルな瞬間が大好きでした。

 

おっと、場所を四谷に戻します。私は早苗にもう一度スイス行きについて、しっかりと話せねばなりませんでした。すると、

「本当に行っちゃうのかしら。そうねぇ。今はそういうのもありかもねぇ。でも私もこんな状況だもの、考えちゃうわ。でももうちょっと考えてよ。また連絡ちょうだいね」

とそのように答えました。

 

昔モデル事務所で一緒だった奈緒とは、元麻布時代に偶然再会したのでした。奈緒の子供が、近くにあるロランの子供と同じインターナショナル・スクールに通っていた関係で、奈緒とは私が就職してからは音信不通でしたが、偶然スクールでやっている子供向けのフリーマーケットのイベントで顔を合わせたのです。そんな出会いからもうかれこれ30年くらい、もう一人のモデル友達、直美と三人で都内のレストランを中心に女子会をするようになりました。

「由利さんて変わらないですね。まるで、まだ50くらいのように見えます。」

未だにちょっと外国人のしゃべるようなアクセントで、奈緒には言われるのです。奈緒の方が3つくらい若いにもかかわらずです。シルバー世代のモデルとしていまだ活躍している直美からも、

「またモデルやったらいかがですか?由利はいつまでも美魔女よねぇ。」

といつも勧められました。

 

三人ともモデルとして活躍して、若い自分からスキンケアや化粧品にうるさかったのですが、私はその後化粧品関係の仕事をしていておりまして、アンチエージングがテーマの抗老化医学に出会いました。その見地から、30代後半に毎日の食生活やスキンケアを徹底的に見直したのがひょっとして大きいのかもしれないと思っております。もっとも、さすがにこの歳になったら、肌の老化は隠しきれないのですが、それでも若くは見られるのだということにしておきましょう。

 

奈緒は、日本人とロシア人、ベルギー人の血を持っていて確か輸入商社を経営している両親のもとに生まれました。彼女は私がモデル事務所を去って以降、当時流行っていたファッション雑誌の表紙を飾ったり、TV番組にでるなど、かなりの活躍をしたのです。その頃から多くの男性とのお誘いがあったらしいけれど、今では外資系生命保険会社の役員と結婚をしています。住まいは、元麻布ヒルズから少しの所にあり、私たちが出会うのは必然だったみたいです。

「なんか若い頃に会った人って、また人生の途中で会うものなのね。」

とよく私は話していました。

直美は子育てがあってモデル業を休止していましたが、子育てがひと段落してからは、年相応の読者のいるファッション雑誌などのモデルを勤めておりました。いまではすっかり、シルバー世代ですが、いまだにCMの仕事やファッション関係の写真を飾り、同世代の理想的な主婦像を演じているのです。

ただどんなに綺麗であり、モデルの仕事をしているとは言え、お互いにかなりの年齢でありまして、お互いの子供の話や孫の話、通っている病院の話など、年相応の話題に移っていきました。

そんな彼女たちにも、私は自分のスイス行きを告げることとなりました。

 

「こんにちは。今度東京に演奏しに行きます。少し会いません?積もり積もった話をしませんか。」見知らぬはずのメールアドレス。そのメールから淳一という懐かしい名前を見つけたのは、周りにクルージングからの帰国の挨拶とスイス行きを告げている時でした。彼とは55年前、男女の関係をさせて頂いておりましたが、共通の友人であったヤスオの小説が一世を風靡することとなり、二人の関係が暴露されたのです。それは他の異性の関係を肯定するようながオープンな関係性だったこともありまして、他人の好奇の視線にさらされました。

さすがに私としてはプレッシャーで、環境を変えようと私はモデルの道を一旦切り上げ、就職をしました。そのような経緯が重なり、淳一とは別れることになってしまいました。

 

でも、本当のことを言ってしまえば、セックスのとき彼がくれる電気のようなものを他の男からは感じることがついにありませんでした。私たちの生活は、職業的にも常に水物で不安定だったから、ヤスオの小説のせいだけではないけれども、別れてしまいました。しかし、今でも一緒にいたかったと思う時があります。別れた後も、毎年彼からは家族の写真入りのクリスマスカードを頂いたのだけれども、その想いは、歳を経るにつれ減るばかりか募っていきました。

 

淳一が80年代から気付いてきたフュージョンバンドは世界中で評価されてます。しかし数年前から病気を抱えている淳一にとって、これが最後のワールドツアーになります。実際、ウェブサイトではそのように宣伝されておりましたし、いつもは向こうから誘わない淳一も、この時ばかりは何かが吹っ切れたのかもしれません、私に公演の誘いをしてきたのです。

 

2ヶ月後に、青山にあるブルーノート東京での彼のバンドの凱旋公演の日が訪れました。私は一人で端っこの席を予約して、淳一の演奏、そしてそれに熱心に耳を傾ける熱心な往年のファンを少し俯瞰的に眺めることにしました。80年代にヒットし、人口を膾炙したファンキーな曲や、かなりAOR寄りの洗練された「アーベイン」なバラードを一通り楽しんだのも束の間、公演はあっと言う間に終わってしまいました。

 

会場にてCDのサイン会をしたあと、楽屋に戻り、少しぼおっと椅子に佇んでいる彼に、満を持して、私は「淳一くん、疲れさまです。」と声をかけて少しお辞儀をしました。疲れのせいか、さらに年老いたように見えた淳一は、開けた口をなかなか閉じませんでした。

「来るって言ったじゃない。」

「そうだけどさ。由利ちゃん、かなり久しぶりじゃん。」

それは何年ぶりの邂逅だったでしょう。私たちはゆっくりと、だけれど熱い抱擁をしたのです。少し年老いて軽く、そして角ばったように見えますが、それはまさに180センチに近い、しっかりした淳一の体でした。汗ばんでいたけれど、その汗の匂いでさえどこか懐かしかい気持ちにさせました。

 

私たちは、他のメンバーの打ち上げの誘いを断り、私としばらく深夜を散歩することになりました。話は尽きませんでした。彼の方からは、彼の妻がもう亡くなったこと、孫もできたが、子供は二人とも独立したことなどを聞きました。

散歩してしばらくすると、From 1stに着きました。ここは私たちがデートでよく通った思い出の場所でした。そして、246沿いを歩いて、ベルコモンズの跡地に向かいました。真夏だったけれど、23時を過ぎ、外はだいぶ涼しくなっておりました。私は少し昔の記憶を辿りました。大学へ入学後は、父の仕事の都合で、両親が海外へ行ったこともあって、一人暮らしをし始めたました。そんな時の話です。当時の私は、都会を一から見てやろうという好奇心が強く、青山や六本木辺りをよく闊歩していました。そんなときに、このベルコモンズで

「モデルやらないかい?君ならいける。うちはヌードとかそういうのはやらないからさあ。」

そんな文句だったと思いましたが、スカウトから誘われたのです。若いというのは不思議なもので、そんな文句に軽く乗ってしまいましたが、それが私の人生を大きく変えることになりました。

というのも、淳一の所属するプロダクションは私のモデルの事務所は同じ建物の中にありました。それはもう今はない、鳩森神宮神社近くのビルディングでしたが、そんなところから二人の出会いは生まれ、お互いに関係を育むことになりました。

一連の思い出に想いを馳せるとともに、私は淳一に少し体を寄せました。淳一も、まるで若いときのように少し肩を寄せてきました。だいぶ白いものが頭にもヒゲにも目立ってきた淳一でしたが、日焼けした肌が相変わらず、昔の男の色気というものを感じさせてくれました。

 

ただ、一連の話の中から、淳一には立派な孫がいるし、今でもファンがたくさんいるのをその日にしっかりと確認しました。私は、ついに自分がスイスに行くことを淳一に告げることはできませんでした。

 

諸々の準備や挨拶をした夏の終わり頃、私はついに成田から直通でジェネーヴへ、ルイ・ヴィトンの旅行用トラックに考えられる必需品を入れるだけ入れて、片道切符で行くことにしました。成田から12時間をかけてジェネーヴに到着し、さらに旅行業者によって手配された、郊外の豪勢なホテルにリムジンで1時間ほどかけて到着しました。アルプス山脈に囲まれたホテルの中は非常に快適で、また常時医療用の施設も整っておりましたし、気分を晴れ晴れとするようなコンサートや映画など、他に文化的な様々なイベントが用意されておりました。実は、スイスのホテルの滞在は、昔ロンドンへ留学していたときに、クオリティー・オブ・ライフを研究しているスイス人に教えられたのがきっかけですが、この時、彼のアドヴァイスに深く感謝しました。

 

そこで適切な医療を受け、一ヶ月ほど、特に体の痛みもなく、楽しく過ごしました。予定日になって、決められた部屋に入って、腕に隣に座った医者により注射を一本受けました。医師の診療中、私は、過去を振り返りつつ、心でこう唱えました。

 

「そう、私の人生はいつだってクリスタルなんだから」

 

それは、淳一との交感にも似た快楽でしたが、私は少しずつ朦朧としていきました。

 

 

 

 

◎社会保障に係る費用の将来設計(平成24年3月推計 内閣府)

 

2012年度 109.5兆円 (22.8%) <479.6兆円>

2015年度 119.8兆円 (23.5%) <509.8兆円>

2020年度 134.4兆円 (24.1%) <558.0兆円>

2025年度 148.9兆円 (24.4%) <610.6兆円>

 

注1 社会保障は年金、医療、介護、子供子育て、その他の費用で構成されるが、年金、医療、介護費は常に全体の9割弱を占め、恒常的に増加傾向にある。

注2 ()内はGDP比である。<>内はGDP額である。

 

 

◎チューリヒ州への「自殺旅行者」数の推移 (Journal of Medical Ethics Paper)

 

2008年度 123人

2009年度 86人

2010年度 90人

2011年度 140人

2012年度 172人

 

 

 

 

 

 

(本稿は、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』河出文庫、1983年をもとに主人公の由利の視点から書いた。また、同じ著者の『33年後のなんとなく、クリスタル』河出書房新社、2014年も参考にした。)

 

 

 

 

 

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