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解体された吉田雅史、収奪されたMA$A$HI

1.批評について

批評について、ヴァルター・ベンヤミンは、『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』において次のように書いている。

中心的意図において価値判断だけでなく、一方では作品の完成、完全化、体系化であり、他方では絶対的なもののうちにおける作品の解消なのである。これら二つの過程は同時に起こるのである

つまり、作品の内部にある論理構造を解読することによって作品を分析、解体した上で、その問題を論じ作品の完成を目指すこと、そして絶対的な理念のうちへ作品を解消することなのであろう。

また、佐々木敦は初回の導入において批評をこう論じた。

それが何をしているか、それによってどうなるのかを論じること

ある作品における構造と意味を理解し、さらにはそれが作品と作者と受け手を含めた全体の関係性にどう影響を与えたかを論じること。そして作者にさえ気がつかない現象を気づかせ、作者に能動的な変化をもたらし、また読者には読み終わった地点から思考を発展させていくような批評が理想的であると述べた。佐々木はさらに、その作業において、自分の趣味から作品の価値判断をすること、また作品の瑕疵を単に批判することにさして大きな意味はない。ただ、瑕疵は単なる瑕疵ではなく、なぜそうなったかを考えるべきである、そこには然るべき理由があるはずなのだ、と。

本稿では、上の二人の先達のもと、暫定的に批評をこのように定義づけする。「作品の構造と意味を考察し、部分的に生じた瑕疵をいたずらに批判するのではなく、どうしてそれが生じたかを考えること。作品の諸要素を全体的な視点の元に分析すること。そして作品を解体=解消することによって作品を完成させること」である。以上のことを踏まえ、吉田雅史の文章を「解体」してみよう。

 

吉田は、長年に渡るラッパーとしての経験を持ち、ヒップホップに依拠しながらもアプリやPV、映画、文学に至るまでの議論を、引用を唐突に交え、自己の理論へと半ば強引に高速に展開していった。その批評文は生徒の中では一際異彩を放っていた。吉田雅史の文章には、なにかしら得体の知れない違和感が脳の中に残った。固有名で彩られた論理を反芻すると、さらに違和感はより強烈なものとなり、まるでジャブを連続して打たれているような感覚となった。しかし、文章自体が非論理的で、破綻しているからというわけではない。その唐突性にどこか戸惑いつつも、それはある種の感覚によく似ていると感じる。突飛な固有名詞の引用が独自の論理で絡み合う、そうした遊戯性。これが、吉田の批評文を毎回読んだとき常に感じた違和感の正体であるように感じた。

全体を通して高評価を得たのは事実であったが、他の人間以上に引用や、数字を数えるときの恣意性、論理運びの強引さが指摘された。瑕疵が多いが、それにも関わらず、なぜ最終的に勝者となり得たのだろうか。立ち現れた吉田の特異性とは具体的に何だったのであろうか?または、ある種の瑕疵があったが故に、覇者となったのだろうか?

まず、吉田の批評文を表層的な相から分析してみよう。固有名詞や引用から、それを2つの流れに分類することが可能である。それは、ヒップホップを基調とするポピュラー音楽文化を中心に、現代社会の諸相を捉えようとするトラックメーカー兼MCの「MA$A$HI」としての基軸と、伝統的で文芸的な古層をこよなく愛する、「文学青年吉田雅史」としての基軸である。

一方で、現代の聴衆に向けてラップを放つ表現者としての姿があり、他方にジャンレケヴィッチを読み、山尾悠子の詩を分析し神を論じる文学青年の姿があった。この2つの軸は、他方を制することもあれば、うまく融合すること、または両者が相克し合い、それが文章全体に独特の未視感、違和感を生じさせた。吉田雅史は、初回からこの2つの軸を半ば意識的に巧妙に操縦し、ついにどちらかに振り切れることはないまま、熾烈なレースを完走したのだ。

 

次に、具体的に各批評文を分類してみよう。

まず「MA$A$HI」的な基軸はどこに見られたか?それは、第5回の『「逆」空耳アワーたる現象』や第13回の『母音を飼いならす』などを代表として、第9回や第11回にも見られる。

「文学青年吉田雅史」的な基軸は、山尾悠子を論じた第7回や藤田を論じた第12回、そして第14回である。

そして最後にハイブリッド的な基軸を数えてみる。第2回の『速度喪失、残響創出』、第3回の『排便の出来事性』、8回の『遠ざかる「死者たち」と近づく「鋼鉄の処女」』を代表として、第4回、第10回、第16回がそれに続く。そして最終回は、日本のラップをめぐる論考であるが、ヒップホップに対し悲哀という言葉の導入したこと、やや文学の参照が多いのでハイブリッド的と捉えることは可能であろう。

このように全体的を通して分類化したのちに概括すると、終始、吉田雅史は非常にバランス良くその二つの基軸を使ったことがうかがえる。そして、ハイブリッド的な基軸のときに違和感を感じることが多かったのである。

 

では、その違和感はどこから由来するものなのか、それは固有名詞を扱う際の手つきにある。サンプリング的な感覚とも言える手つきのことで、それは「MA$A$HI」的な基軸を強調するときによく見られた。

サンプリングについて、若き椹木野衣はデビュー作の『シミュレーショニズム』においてこう論じている。

サンプリングに関して認識論的に言及すべき最大の問題は、それが「引用」ではないということに尽きる。たとえば「引用」が、他者をいかにして自己に調和させるか、一綴りの自己表現の小宇宙に首尾よく配置させるか、という問題だったようにしては「サンプリング」は引用しない。それは略奪だ。

ここで椹木が引用というとき、念頭にはブリコラージュとかアプロプリエーションといった当時の先端だった現代美術の手法がある。そののどかさに比べ、DJミュージックにおけるサンプリングの暴力性を強調するため、意識的に引用とサンプリングの差異を対置させた。ギャラリーで発表される現代美術作品の前に既に、ストリートや場末のクラブから発せられる音楽に、強烈な手法が用いられていることを強調していていたのだ。そしてサンプリングは、もはや従来の引用のようなゆるいものではなく略奪である、という風に続く。

吉田雅史の固有名を扱う手つきが、サンプリングか引用か、と区分けすることはさして重要ではない。しかし、サンプリングにはある種の暴力性があり、「MA$A$HI」という基軸における引用はサンプリング的収奪性を帯びている、と言うことは可能だ。サンプリングの快楽とは、ネタの文脈性や歴史性を剥ぎ取り、その意味の略奪を楽しみ、複数のネタを暴力的に併置することにある。実際には論理性の求められる批評文においては、固有名詞を引用し、またそれを文章にするので、最初からある程度の意味性と論理性は必須で、音楽や美術ほどの自由度はない。しかし、「MA$A$HI」の文章における引用には、サンプリング的な収奪性が常に刻印されているのだ。

では、その具体的な箇所を分析してみよう。例えば、第3回の『排便の出来事性 〜『THE COCKPIT』と『佐村河内守事件』から考える〜』を見てみる。ここでは、「映画的なもの」に登場するシーンとして、バタイユのゴダール映画における排便シーンを「サンプリング」した。そして、「映画的ではないもの」にOSMBとbimの曲作り=排便行為を対置させる。ゴダールやバタイユらの大文字の存在の名が、排便という話題を論じるための一箇所として拡大して召喚され、そして現在の日本のラッパーやトラックメイカーの日常と対置したのである。ここでは、文脈性を剥奪されたゴダールやバタイユの名前も、他の著名な哲学者や映画監督といつでも交換可能であり、またOSMBやbimも他のミュージシャンによって交換可能であろう。そしてまた、ひょっとしたら、OSMBやbimの日常は哲学者や映画監督の引用と等価であるかのような、そんな錯覚も起こさせるのだ。そのような暴力的な素振りを感じる。

また、第8回の『遠ざかる「死者たち」と近づく「鋼鉄の処女」〜スネアと木魚のディシプリン〜』では、前半は「文芸青年吉田雅史」の論調で伝統的な鎌倉の街を旅し、中盤から戊辰戦争時にスネアドラムを使ったことを論じたのだが、最終的に「MA$A$HI」が姿を現し、最後に近代と絡めて西洋鋼鉄音楽を語る。ここで、木魚とスネアドラムが、あたかも日本の伝統と西洋の近代における死者と兵士のディシプリンを象徴する代表的なものとして、対比して論じられている。しかし、実際には日本の古典音楽は豊饒であり、声明、雅楽、能楽、民謡など多様であるし、また近代西洋音楽のディシプリンも鋼鉄音楽のスネアドラム一つに代表されるわけでもない。それが弔いの音楽であっても、一つに絞って近代や日本を代表させることなど不可能なはずだ。そうした豊饒な文脈から2つの固有名を意識的に収奪し、自分の論理に強引に導いたのだ。そこにはサンプリング的な収奪性が観察できると言えよう。

通常、書かれたものの内部の読解であれば、そうした突飛な引用や論理的な強引性は瑕疵以外の何物でもない。しかし、そこに潜む違和感からは、それが単なる瑕疵ではないように思える。J.L.オースティンの言語行為論によれば、書かれたものについてのコンスタティヴな言明とパフォーマティヴな言明があると言う。前者が書かれたものの内部の論理の中だけで読解できるのに対し、後者は言明によって外部の何かへの働きかけを読解しなければならない。常に違和感を感じさせる「MA$A$HI」のサンプリング的な収奪に満ちた言明には、コンスタティヴというよりパフォーマティヴな意味性を積極的に読み解く必要があるだろう。さながら、フリースタイルのラップバトルで己の有能さを誇示するMCのように、おまえはこのような横断的な引用ができるのかと、扇情的に読者を挑発しているのだ。また、ハイでもローなカルチャーでも、ラッパーでも哲学者でも併置させることによって読者の内部にある論理を撹乱しているのだ、とも言えよう。書かれたものの論理性を犠牲にしてでも、あえてそんな誇示と挑発を前面に出していくこと、それが限られた時間内で素早くリリックを放つフリースタイルラップのような、「MA$A$HI」の批評の書き方なのだろう。

ポール・ギルロイは、『ブラック・アトランティック』で、アフリカ、南北アメリカ、カリブ世界といった環大西洋世界における、西洋にいながら西洋ではないという二重意識を持ち、白人主体に進められてきた近代の支配的構造に抗う黒人のあり方を論じた。ブルースを始めとする黒人的な音楽もその世界の中で生まれ、花開いたが、ヒップホップもそうした黒人文化の土壌の上で生まれた。サンプリング的な収奪、というのは近代の論理性を捨象し、ばらばらにした上で収奪するというヒップホップの暴力性と遊戯性を馳せ持つのだが、そこには「ブラック・アトランティック」で描かれている黒人の近代に対する二重意識が垣間見れはしないだろうか。もちろん、ヒップホップをその出自とする「MA$A$HI」には、確かにそうした背景で生まれたヒップホップに取り憑かれている部分があるのは明白であろう。しかし、どこまでそのブラックネスを内面化したか、されていないのか、あるいはあくまで表面的な翻訳の手つきであったのだろうか。ここではそれらの問いの判断は、読者に任せたい。確かなことは、ヒップホップを愛し、アカデミズムの外部にいる吉田雅史の批評は、こうした思考を経ることにより、さらにパフォーマティヴな読解ができ、開かれた作品として完成するかもしれない、そんな可能性が期待できるということだ。

 

吉田雅史の文章には、二つの基軸があったが、そのうちの一つの基軸によって書かれた文章が、読者に独特な違和感を読者に与え、また瑕疵も多かった。しかし、その瑕疵にはサンプリング的な収奪性が見られ、そこにはコンスタティヴではなくパフォーマティヴな言明の読解は可能ではないか。言い換えると、吉田のやったことは、従来の批評文の慣習性や形式性を撹乱し、批評の本質とは何か、を問うことにその本質性があったのではないか、と問えないだろうか。そういう意味において、吉田の行為自体が、規模こそ違うが、昔に存在した、前衛対後衛アカデミズムという図式における前衛の役割を担っていたと言っていい。それは後衛の持つ意味内容を撹乱しつつ、再構築を求める、ある種の批評性を持ったパフォーマティヴな言明でもあった。

吉田雅史のコンスタティヴな言明の瑕疵を認識し、そこにサンプリングの的な収奪性を見て、パフォーマティヴな言明を読解する。さらに「MA$A$HI」にはさらに深い読解が可能なのかもしれない。その作品をさらに「完成」させるためには第2期の生徒達各々の真摯な批評と必須となるだろう。

 

私たちは吉田雅史の批評によって撹乱されたもの、もう一度その行為の意味を捉え、吉田雅史の批評を収奪し、新しい批評の地平へと進まねばならない。

 

 

 

 

<文献>

ヴァルター・ベンヤミン(訳:浅井健二郎)『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』ちくま学芸文庫、2001年

椹木野衣 『増補 シミュレーショニズム』ちくま学芸文庫、2015年

ポール・ギルロイ(訳:上野俊哉、毛利嘉考、鈴木慎一郎)『ブラック・アトランティック−近代と二重意識−』月曜社、2008年

 

 

 

 

 

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