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無意味批評宣言

1.お詫び
別にそれほど書くことはない、
私は、ある問題意識を持ったとしてもそれを言葉にすることができないし、
言葉にできたとしても、単なる馬鹿が書くヘイト文にしかならない、
つまりはロジックとレトリックが欠けてしまってるのが目立つ文でしかない。
そんなものを書いているようではこの批評再生塾の一生徒としてとても恥ずかしい存在としてなってしまった事を深くお詫び申し上げる。
同時並行で新芸術校での活動を重視し、
批評再生塾も何とか通うことができるだろうと軽率な考えで始めてしまったのはとても申し訳なく思う。

2.何か問題を挙げる
音楽ネタで問題を示唆しようと思ったが、
これと言って読書をしたわけでもなければ、
問題と思われる音楽の研究を入念にしたわけでもないし、
そこからの発展で現代社会にこのような問題があって最終的には人類滅亡にまで至るだろうなど、
胡散臭いノストラダムスの予言めいたことでも試みようと思ったが、
そもそも私にはそんな批評を書くほどのキャパシティーと意識の高さを持ち合わせているのかというとそれは否定せざるを得ない。
なんせ、いままでゲーム三昧の日々を暮らし、批評のことなどそっちのけでいた。
目の前の楽しみを優先し、批評という戦いに目をそむき、如何に今を楽しみで埋め尽くすかで日々を過ごした。
そもそも読書が嫌いで小説なんかノリに乗らないと何一つとして読む気にならない、
批評文なんて椹木野衣さんのシミュレーショニズムをやっとこすっとこ読み終えて力尽きた。
あとは東浩紀さんの弱いつながりも何とか読み終えた。
これは第三回の型をインストールせよに応えようとなんとか読んで書いて見ましたが、
全然似てないと本人のツイートで一閃を食らった。
音楽批評的なものを一度だけあげたが、
これが今見返しても恥ずかしい代物で周りの生徒とは悪い意味で比べ物にならない物になってしまっている。
ここで挙げといてですがあまり読んでほしくないものである。
あまりにも私が怠惰に溢れて行動へとうまくシフトすることができないのはある意味で何かしらの病気なのではないかと常々思う。
私は心の中で何かしようと決めるがなかなか物理上ではその決心を実行に移すタイミングがつかめず過ぎ去っていってしまいあきらめてしまい「まあいっか」の文字の反復で自己を慰める性質が根本にまとわりつき、人生の可能性を根絶やしにしていく人生を送って行くのだ。
これを私はまあいっかシンドロームと名付けよう。
全てはこの原理により、
小中高の勉強をさぼり続け、まあいっかまあいっか、とゲームに没頭し続ける。
なんせすべてがつまらない、こんな勉強をして何になる、ゲームのほうが楽しいではないか、
私にはゲームをやり続けることでしか人生の充実を実感できないのだ。
まあいっかシンドロームの産物、当時(2013年3月)で言えばゲーム脳というゲームは脳に悪影響を与えるという話題で持ちきりであったがまさにその通りのことが私の脳みそをパラダイスワールドへ引き込み、現実へと帰ることができなかったのだ。
そのおかげで私は人とあまり話さないので人見知りがすごく会話もへたくそ、運動神経はあると思うが体を動かすのは面倒なことだと投げてきた結果太ってしまい見た目は醜くなりファッションにしても何が自分に似合うのかなどまったくわからずどうでもよいと変なユニクロTシャツを着てしまう始末。
しかも学生時代に勉強したことなど全て抹消されましたので端的に言えば知力の劣る原始人と化してしまっている。
いくらゲーム内で知力を高めようとも現実の私の知力はみるみる消えていったのは皮肉な話だ。
つまり私はあまりにもゲームという幻想に侵されてしまい人として持つべき常識や行動力、コミュニケーション能力を待たざる者として完成していってしまったのである。
そんな私でもある一つの特技がある、それはプログラムを組むことである。
これに関してはゲーム感覚で行うことができ、おかげで職に就くことができている。
人とのコミュニケーションは業務で交わさざるを得ない会話ならなんとかどもりながらも行うことができるが、
その他業務以外の雑談はからっきしできないわけだ。
これは人生をうまい事発展させることは不可能なのである、
例え、職場に女性がいたとしても雑談を交わす気力もないしむしろ私の見た目の醜さから過度な気遣いの末「こんな不細工に話しかけられたくないだろ」と、
思考が回り声をかけずに終わるのだ。
だがSNSの場では引っかかる発言があれば誰彼構わず声をかけることができる、
自分の顔、声、容姿がばれない世界であれば何も気にせずコミュニケーションをとることができる。
ここまでつづればわかるだろう、
私はヴァーチャルでは自由だが、現実では自由ではない。
ヴァーチャルに縛られてしまい現実に生きることが困難となってしまってるといえるだろう。
今までこのような問題を個人の問題として抱いてきたが、
SNSを通して私に似ている現実を自由に生きれずに苦しんでいる人たちがいて、
大体が精神病を患っている、大半は統合失調症、発達障害等だ。
私はそんな精神病をあまり知らない状態で、精神病に対して興味を持ち躁鬱テストを行ってみた、
行ったテストは下記のURL先のテストである。
http://souutubyouki.com/access.html
私は、このBDIテストの結果で中程度の鬱レベルと診断され、専門家の治療が必要とまで言われた、
どうやら自殺をしたい人のようだ。
このつながりから私は私のような人間が複数存在し、
そこから人の文明はまだ破滅を迎えるまで、強いてい言えば隕石の衝突、地球が寿命を迎えるまではまだ遠いだろう、
その執行猶予の中で人は無尽蔵に増え続けるわけだが、
人が増えるたびに文明は高度になっていきVR技術が進化していきヴァーチャル世界がより強度を増していくだろう。
それにより人はヴァーチャル世界により魅力に感じていき現実に対しての無関心さもより強度を増すだろうし、
現在よりも現実を見た時の落差は計り知れないものとなり、自殺率、精神病に苦しむ人間はふえるだろう。
そして人類は世界破滅よりも前に人類は滅亡していく問題が挙げられる。
私はこの問題を人類無能化問題として提示しよと思う、
そしてこの問題を避けるためには今後の文化はどうあるべきかをシミュレート案を出し、
そのシミュレートは可能なのか議論し、
私たち人類はヴァーチャルに食われることから避けることができるか論じていきたいと思う。

3.エンターテイメントの原始化
現在エンターテイメントのベクトルは高度な映像技術によって、
拡張しつつある、
ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実、VR)、アグメンティッド・リアリティ(拡張現実、AR)、プロジェクションマッピング(建物など大きなものを象り映像化する奴)
上記三種がヴァーチャル世界をより強化していく物となる。
ヴァーチャル・リアリティ、
ゴーグル型の装置だったり、スマホを専用のゴーグルにセットしてスマホの傾きに反応するジャイロセンサーを利用して実現している物である。
簡易的にどういうものかというと、
コンピューターグラフィックによって作成された世界にまるで自分がそこにいるかのような感覚になる物だ。
現在ではそれをPSVR、やオキュラス等インターフェイスが生産され、それを利用したゲームが増えつつある、エースコンバットという戦闘機を操作するゲームがあるが、それにVRが導入され、まるで戦闘機に乗っているような感覚を体験することができる等が存在するし、様々なコンテンツ、自然災害シミュレーション等に使用されていっている。
だがまだその存在は完璧に確立していない。
完璧な確率をしたVRとなると脳の運動神経をつかさどる前頭葉の働きを判定して、
VR内を自由に駆け巡ることができ、その中で五感を感じることができている状態の事である。
まだそこまでは達してはいないがいつかたどり着く終着点であると思われる。
アグメンティッド・リアリティ、
まるで現実にコンピュータグラフィックで作成されたキャラクターやオブジェクトが存在する感覚になるものだ。
こちらもゲームで応用されている、ニンテンドー3DSのQRコードのようなものを読み取ると現実にエネミーが現れる映像が展開され、
ニンテンドー3DSについているカメラをあらゆる方向に向けると四方八方にエネミーが存在していることが確認され、それに向けてシューティングするような単純なゲームが存在する。
最近流行ったポケモンGOにもARが導入されており現実世界にポケモンが現れたような感覚を味わうことができる。
ARに関してもまだ完ぺきではない、
まだ多様性にかけているし、携帯性をもっと高めるべき、
コンタクトレンズ化、及び目と同化してしまっているレベルが相応しいだろう。
プロジェクションマッピング、
建物やあらゆるものを映像を移す画面として利用する手法で、
主に遊園地のイベントやアート、VJ(ヴィジュアルジョッカー)にも使われている。
遊園地に関しては城に向けて映像を映し、城がまるでいろいろな姿に変化していたりキャラクターがあらゆるところにふらふらしているような幻想的な世界が出来上がっている。
これの完璧の姿は書くまでもなく、
ホログラムである。
まるでそこに存在しているかのような映像で画面を必要としない立体に見える映像だ。
以上紹介とまだ完璧でないことを簡潔に並べてみた。
まだこのカルチャーは完璧でないという点においてまだ救いがある、
それは現実に対して欺瞞(ヴァーチャル)に満ちた世界でないからだ。
このチャンスを利用して、
如何にヴァーチャル展開が広まると欺瞞に満ち溢れ人として堕落していくか演説しまわりつつも、
サイバーテロをを平行に行い先ほど挙げた3種のヴァーチャリズムの開発を邪魔していき、
演説に共感を抱いた全国民を利用し、反ヴァーチャリズム団体を作成してバベルの塔ならぬ、
リアルの塔を構築し、そこではヴァーチャリズムに対しての憎悪を育み如何にこの現実が素晴らしきものなのかを教育し、
現実を充実して暮らせる人々でいっぱいにし、独立国リアルを立て、
ヴァーチャリズム文化が発達した他各国との現実とは如何に素晴らしいものかと、
ヴァーチャル文化の排除を要請しまわり、もしできないとなれば戦争を行う。
まるで人間(リアル国民)VSエイリアン(発展したヴァーチャルに溺れたその他国民)のような構図が成り立つ。
この戦争であらゆるヴァーチャルエンターテイメントを排除し、全世界のエンターテイメントの原始化を行うのだ。
だが、高等技術を持った人間とそれを捨てた人間との戦いというのはかなり不利な状態での戦闘となるだろう。
VRの発展により大量生産されたロボットをVRインターフェイスを通して操作してゲーム感覚で戦闘をすることができるであろう、
死んでもまた生き返る安心感で殺戮を繰り返すもの相手にVRインターフェイスを通さずに戦うリアル国民は一度でも死ねば次の命はない緊張感の中戦闘を繰り広げるのだから、
その精神的余裕のなさから生まれる余裕の差異によって敗北へと落ちていくしかないであろう。
まるで余裕のない日本が余裕のあるアメリカに負けた第二次世界大戦のように。

4.ヴァーチャル世界に溺れないよう予防線を引く
ヴァーチャルを消すことができないのであれば、
ヴァーチャルに溺れない心得を広めて行くしかないのである。
前述にあった、まあいっかシンドロームを如何にしてかき消すかである。
こちらに関しては宗教団体を立てるしかないわけである。
「まあいっか?本当にそれでいいのか?」をキャッチコピーにして、
不抜けた人間の精神を叩きなおすような団体になるだろう。
その団体のカリキュラムは、
現実が今存在していることに対して崇拝する。
現実に生きていることにありがたみを得るためにサバイバル生活をあらゆる場所で行う。
現実をもっと充実に生きるための思慮を与えるため講義を行う。
その講義内容は、
思慮深くなれば人との対立がうまくなるという観点から、
文学、哲学、精神分析学を主に学び。
如何にこれが人とのコミュニケーションに必要になっていくか、会話の演習を行っていき、
あらゆるシチュエーションに使いこなせるようにする。
現実に生きていることにありがたみを得るために豪勢な料理を食べる。
これぞ現実に生きることの醍醐味、団体内の人と団体特製クラブ内でのコミュニケーション自由時間(性行為も可!!)
等々現実に密接した生活を生きていることの喜びを感じながら崇拝していく未来輝かしい行動を行っていくのだ。
カリキュラム一つ一つお金がかかってしまうことが玉に瑕で、
これを行うには大いなるバックアップが必要であるが故、
スポンサーが必要なのである。
だがそれをクリアしてしまえば可能であろう。
まあいっかという発言は自分が現実に生きている実感がなく、現実に生きつつも心はヴァーチャルにとらわれてしまっているからでありそのヴァーチャルにとらわれているラインンを如何に切断していくかが大事でそれを可能にするのは昔ながらの知恵と原始的な生活による現実の体感、死と隣同士になる緊張感が必要なのである。
そういった面でこの団体活動は人間を人間としての本質を向上するのに良い団体なのだ。

5.要は飴と鞭
いくら目の前に現実を忘れることのできるヴァーチャル世界があるとしてもそこに依存しすぎると、
現実の生きづらさにだけ注目してしまい精神病へと陥る事になってしまう、
その生きづらさを軽減するするにはいかに生きることにエキサイティング性を見出すかだと思う。
なので、リアル教へ行くことによりすべてが解消する、
リアル教のカリキュラム、サバイバル遠征を行うことで精神的に病んでいる場合ではないと覚醒するだろう。
つまり、死を目の前にした人間は生き抜く必死さというのを本能的に発動させることによりまあいっかシンドロームを弾き飛ばし、
人は人としてたくましく生まれ変わるのだ。
そして、報酬として豪勢な料理が食べられる、これほど現実で喜びを受けることはないだろう。
つまりは飴と鞭で人はうまい事成長していくということだ。

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