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音楽の効力

・大衆文化により立体感と確立された歌と音楽のヒエラルキーと言葉の影響力

今まで音楽は言葉に支配されがちではないかと思う、

というのも、ポピュラーミュージックを一度聞けばわかるようにほぼ百パーセント近く歌がついてくる。

音楽に歌がついてくるということは言葉が音楽の上に重ねってくるという事、

これにより音楽の上に言葉のレイヤーが重なるというイメージになる。

そういう音楽がポピュラーミュージックとして扱われるため、

音楽といえば、歌がついてくる事が当たり前と思う人がいるだろうし、

歌がない音楽は聞けたものではないとあくびをかいて言う人もいるだろう。

この体系が確立してしまったため音楽は言葉に支配されてしまった。

そのおかげで音楽は歌無しではその存在の強度を高める事ができなくなった。

すなわち音楽は歌なしでは大衆への存在の立体感を与えることができなくなってしまったのだ。

音楽の立体感というのは端的に言えば音楽から感じる感情の揺さぶりのベクトルである。

大衆では言葉と言うフィルターを通してでしか音楽を最後まで聞けない耳になってしまっている人が多く存在しているに違いない。

それは前述通り「ポピュラーミュージックを一度聞けばわかるようにほぼ百パーセント近く歌がついてくる」が何よりの証拠である。

そうなってしまっているのは言うまでもなく需要があるからである。

その需要により一昔流行っていたピンクフロイドのAtom Heart Motherなどのプログレロックなどはあまり歌わずむしろ演奏が主役のような音楽は大衆の前からは一気に廃れて行ってしまった。

言葉は音楽の自由を蝕む可能性を秘めた秩序になりえる存在である事を忘れてはならない。

・言葉により沈む音楽

なぜ歌がある事によって多くの需要を獲得し、大衆へ音楽の存在の立体感を与えることができるのか論じてみようと思う。

歌が付いてる事によって音楽が伝えようとしている事が必ずしも誰にでも伝わるわけではない。

その歌の歌詞の言葉選びが難解なもの、意味が抽象的なものとなっていた場合はもまた聞く人を選ぶものとなる。

僕はこのような歌詞を音楽任せの歌詞としている。

逆に意味が分かりやすく伝わりやすい歌詞を意味任せの歌詞としている。

前者は歌詞の意味が分かるのは難しいが音楽に乗せることによって、

歌詞の雰囲気が伝わりより味わい深い音楽へと変貌を遂げることができる。

このような手法が見られる曲はP-MODELのBIGFOOTである。

この曲の歌詞を見てみよう。

-STEP TO STACK-

また遠くまで

機能美の陽が降る前に

-STEP TO STACK-

TO STOP TO STOCK

貨車は虚無キミへとSPEED BY SPEED

聴こえてる 憩える声「SPEED 倍 SPEED」

今 キミへと

BIG BIG BIG BIG BIG BIG FOOT

いかがだろうか、

この歌詞だけではどのような情景を思い描いているのか想像つくのは難しいと思う。

だが実際の曲と歌声を合わせてこの歌詞を眺めると歌詞だけを見る以上の歌詞が表現しようとしている幻想的な情景が見えてくる。

力強い連打の如く弾く電子音、大きな足で歩いてくるような壮大なドラム音、

迫力がありどこか聖なるものを感じるコーラスボイスに化けた電子音、

そして歪んだシンセサイザー。

そこから織りなす、まるで何かの神話的世界へと引き込まれ叩きつけられるようなそんな感覚を覚える。

まるで躍動感溢れる貨車が誰かを助けるため走り続けている、

背後には大きな足が音を立てて迫ってきている。

聖なるコーラス音により追いかけてくる者は神で裁きを下すために迫ってきているものと思わせる迫力を感じる。

そしてそんな鬼畜な情景を哀れに思うかのように歪んだ嘆きを思わせるシンセサイザー。

選ばれた音色とメロディーとリズムにより抽象的な歌詞の表現がより鮮明に感じることができる。

だが歌詞が抽象的だからこそ可能なものになり、そうであるからこそ想像により生まれる物語の臨場感という物が存在するのだ。

この言葉と音楽により互いに良い部分を伸ばす相乗効果を生み出すことが可能な関係性になれるのが、音楽任せの歌詞でありこれこそが音楽における理想的な言葉の形だ。

だが大衆の目からしたらこの音楽と言葉の関係は受け入れられづらい、

その証拠としてP-MODELは80年代から90年代は盛り上がりを見せていた頃なのだがその頃の世代の人にP-MODELの事を聞いてみたが知らないと言われる事が多い。

この事から歌と音楽のクロスオーバーをすることによって初めて生まれる世界に気づき入り込む事は難しく素晴らしさに気づきづらい音楽は、

一部のマニアに受けるが、大衆には空気扱いされてしまい目立たなくなってしまう非ポピュラーミュージックとして成り立ってしまうのだ。

後者は、

音楽の伝えたい事が明確に意味として成り立っている事から、

具体的に何を表現しているのか誰にでもわかりやすい形になる。

このような歌詞はポピュラーミュージックによくみられる型だ。

ここで星野源のSUNの歌詞を見て見よう

Baby 壊れそうな夜が明けて

空は晴れたよう

Ready 頬には小川が流れ

鳥は歌い

何か楽しいことが起きるような

幻想が弾ける

君の声を聞かせて

雲をよけ世界照らすような

君の声を聞かせて

遠い所も雨の中も

すべては思い通り

いかがだろうか、

この歌詞を見ただけでも、

一人の大切な人がいてその人はどんなつらい時でも励ましてくれるとても良い人で、

その人こそが僕にとって太陽、すなわちSUNなのだといともたやすくわかってしまう。

音楽を聞いてみても明るい日差しがこの歌を歌う星野源を照らしている印象を受ける。

その日差しはどこかで聞いたようなディスコの香りを漂わせながら明るい調子を変えずに星野源を引き立てるためエスコートしている。

そのためか星野源がとても人生を楽しんでいるかのようなイキイキと歌い上げている印象うける。

これを聞くことにより人生は悲しいことばかりではないのであろうと思わせる寸法であろう。

ここからわかるように音楽の立場を振り返ってみよう、

この曲での音楽は星野源を照らすための音楽であり、

ほかに何物でもない星野源専用の太陽なのだ。

星野源を明るく見せるために明るく爽やかにエスコートをこなし、

それでいて星野源の声が音楽の中に飲み込まれないように配慮し、

いかに星野源を際立てるかを考えつくして働いている執事、いや、奴隷の間違いだろう。

つまりわかりやすい歌詞を歌うことで音楽よりも言葉のほうが印象の強度が高まり、

その言葉を歌う星野源はまさに音楽を自分の印象強度より上に行かせぬように抑えるよう、うまい事抑えて強制して表現の幅を狭めて明るい調子で音楽を続けさせるのだ、まるで自分を良く見せるための道具に仕立て上げるかのように奴隷として音楽を働かせているのだ。

しかし歌詞としてわかりやすい形状の場合はリスナーは歌詞に耳を傾けてしまい音楽としての立場に耳を傾ける事が少なくなるが、星野源を良く見せる印象深いフレーズにのみ耳が向くような音楽構成となり、その体系が完成することにより星野源のSUNは星野源を中心に輝きを増すのである。

そして見事大ヒットシングルとして駆け上がったのだろう、そのSUNの卑しき輝きに誘われて。

この動向を見てわかる通りわかりやすい歌詞により音楽は言葉との絶大な上下関係が発生し、音楽は歌詞とそれを歌う歌手を引き立てる引き立て奴隷と化する言葉のエゴイズムワールドの奴隷と化するのだ。

そしてこのような形態になってしまっている曲はどれを聞いても同じような曲という印象を受けてしまうがそれは音楽を重視して聞くとそのようになるわけで歌詞に注目するように聞けば別の曲であることを判断することが可能になるのだろう。

それは歌が音楽で表現するはずの感情の揺さぶりを説明してしまっているのである。

つまりこの形態がポピュラーミュージックとして多くなってしまったのは大衆は歌による音楽の説明なしでは音楽が表現する物が何なのか想像しようとしない、最後まで聞く気にならないという人が多いからこの形態へとポピュラーミュージックは確立したのだ。

ポピュラーミュージックはその名のとおり大衆の受け入れにより作りあがっていくのだ。

歌詞という名の説明を追うだけで大衆は音楽を聞いたつもりになっている、

音楽はどれだけ歌詞、歌手を引き立てようともその存在を認められない、

ポピュラーミュージックを聞く人にこの曲のどこがいいのか問いかけてみよう、

きっと気に入ったとても分かりやすい歌詞を持ち上げてくるだろう。

この事実上音楽はポピュラーミュージックの世界では言葉がキングとなるディストピアに生ける奴隷として一生単なる引き立て役として一生を終えてしまうのだ。

その音楽ディストピアは今こうして批評を書いている間にも生まれているに違いない。

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