言葉の力の恐ろしさ
1:自分の批評感
まず、批評に対しての自分の見解について書く事にする。
見解の前にその見解は間違いかどうか見比べるため広辞苑から批評についてを引用しよう
物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること。「作品を―する」「文芸―」
by広辞苑
そして自分の批評の定義は批評対象に対して褒めもすれば指摘もする事で精密的な評価をする事で、
いかに好きな、嫌いなアーティストの作品であろうとも平等な目線で見てするべき事である。
自分は批評という言葉を検索せず、自分の記憶、経験に勝手にしみ込んでいたものを自然に取り上げたのにもかかわらず、
ほぼ同一の志がみられる。
その志を元に今回批評再生塾一期を総括する題材として吉田雅史の論文を挙げていきたいと思います。
こちらの論文中に音楽に触れてる部分があり、それを中心に批評していきたいので、
まず音楽を評価する際に気にするべき点を上げていきたいと思います。
2:音楽とは?そして触れ方とは?
(1)音楽とは?
音楽の中には何がある?
という問いには基本、音、声、歌詞という物体が存在しており、
CD等のメディアでは音はメロディーラインとリズムというガイドラインで奏でるが、
声といえばメロディーラインとリズム、さらに歌詞というガイドラインに沿って複合的に奏でる。
それらをまとめあげて一つの塊としている物が音楽である。
だがライブでは挙げたガイドライン部分をぶち壊しにされる事がある、
音楽とは決められた事をし続ける奴隷ではないからだ。
(2)音楽にどう触れるか
先ほどあげた音楽の中にあるものに対してどこを気にかけて触れるか箇条書きでシンプルに下記に並べる。
1.音は音色、メロディーラインによるニュアンス。
2.声は声色、メロディーライン、歌詞による感情的ニュアンス
以上に気づく事ができれば音楽に対しての評価はたやすくできるのだ。
3:KOHHはリアルなのか?
吉田雅史の論文内でKOHHがいかに現代のリアルであり、天才的なラッパーなのかを熱く語られているが、
さて、それほど持ち上げる要素の持ち主なのかと箱を開けてみるが、なるほど、
これまでにヒップホップは長い言葉をリズムで叩き込みその中に韻を踏む洒落っ気漂うラップを入れていき、
その中には聞く者の心を撃ち込む共感という弾丸になる私的リアルの追求、深い物語性を入れ込むという固定概念から抜け出し、
今思ったことをその時その時に書いたようなシンプルな言語の羅列によって組まれた歌詞を高級感あふれる、
重低音の効いたロックなものからエレクトロによる暴力的な音使いによって引き立たて、
重いビートトラック音源と共に私的感情を叩き込みつつ淡々とラップをしていくスタイルは、
斬新な形ではないかと思う。
ここで吉田雅史の論文を引用しよう。
彼は、自身のフィルターを通して目の前の光景を言語化しているわけではない。彼はあくまでも、記録映画のための一台のカメラのように、彼の視線を、ただ貸し出しているのだ。そのリリックに彼の価値判断は含まれていない。そこに記録されているのは、物事の表層であり、記号である。しかし私たちが、そのカメラアイを自身の両眼に纏い、記録された表層の世界を見やるとき、そこにはKOHHから借り受けた直観の力が宿っている。レディメイドの刻印が押された世界。
by吉田雅史
確かにKOHHの歌詞には誰にでも、ましてや日本人のヤンチャな若者なら誰にだってわかる文字が並んでる、
それはヤンチャな若者なら共感できる精神的マジックな言葉になっている。
それ故にヤンチャな若者なら共感できるKOHHの声から出る感情が胸に響く、揺さぶられる、そんな人が都会でふらついてる。
そしてこれがヒップホップが提示するリアルの現代の姿、「ヤンチャ is リアル」だという事か、と思うわけです。
だが私はKOHHのヒップホップ性はこれいかにと思う、
まずは歌詞に関してシンプル性に対しては何も言いませんが、
語彙のなさはラップとしての深みを殺しているし、
言うなれば誰でも書けてしまう歌詞である。
特に言葉選びからみられる精神は、
「自分は今が生きがいだ、自分は後先を考えないのはかっこいい、自分は芸術性に満ち溢れてる、自分はファッション性ある、自分は金があり、セックスできれば最高」等々、
いかにもナルシスト的でそして動物性を思わせる視点である。
私は思うのです、この言葉選びは前頭葉しか使用していない反射的な単純さといかにも自己陶酔に溺れてしまっている感性だと。
そして、ほとんどが在り来たりな言葉で誰が聞いてもそれはそうだと思うだけの言語の幼稚さは聞いてるこちらは恥ずかしさに溢れてしまい、
今のヒップホップはこんなにも言語レベルの低い物だと思ってしまう。
これは単に共感の塊であり、リアルではない。
歌詞はナルシスト的な動物性思考の持ち主を揺さぶるものであり、
そんな思考ではない人には何一つとして心に突き刺さらないし意味もない、
何一つとして問題を提示しないあたりリアルを感じるのは無理がある。
そして、吉田雅史の論文にある「レディメイドの刻印が押された世界。」とかっこいい感じに書かれてありますが、
ここで言っているレディメイドとはKOHHのラップは共感のきっかけを作る、リアルの既製品で、
聴く人はその既製品に触れた事によって生まれる共感からリアルが複製されると言った所だろう。
だがこのレディメイドは根本的な視点から見ると、
KOHHのラップへのアタックポイントになるのだ。
つまりKOHHのヒップホップを一所懸命聞いた所でリアルを感じる事ができないのでは?
という問題提示が見えているわけです。
レディメイド、WikiPediaから引用すると、
芸術上の概念としてのレディ・メイドは1915年、マルセル・デュシャンによって生み出された。当初の目的とは違った使われ方をされた既製品、つまり芸術作品として展示された既製品をさしている。
byWikiPedia
とある、重要なのは芸術家マルセル・デュシャンがどう、このレディ・メイドを生み出したのかというと、
既製品、このときは便器を複数の美術館に展示し、美術館への展示をアートだと定義するが、
そんなに便器を見た所でなんの意味があるのか?そこにアートが存在するのか?
という問題点を提示している。
つまりKOHHのラップは美術館に展示された便器と同じでヒップホップとして単純な言葉をラップとして出す事によってこれはリアルだろ?と定義しつつも、
言葉自体は在り来たりな既製品のような複製可能な言葉だらけでどう聞いても何一つとしてリアルを感じないラップであるという事になる。
吉田雅史曰く「悲哀と独歩」がKOHHにあると言うが、
ラップ、そしてトラックからもその悲哀を何一つとして感じない。
独歩という点ではリアルから外れた勝手な偽装リアルの構築を行い、一人酔いしれてどこかへ行ってしまってるという部分からして当てはまるだろう。
悲哀がない、というのもTHEブルーハーブを聞いてみるとわかるようにトラックは悲哀に満ちた音、メロディーラインによるラップの悲哀さの増強を狙った挙動をしている、それによりラップの描くリアルが一層心へ染み込んでいく事が一度聞けばわかる事だ。
KOHHはこのアーティストとは真逆で自分のかっこよさに惚れ込みすぎて溺れてしまってるようなナルシズムプンプンのドロドロとした音、メロディーを放つトラックとなり、悲哀といってもKOHHの視点からしての不愉快感に対してのエゴ的な悲哀くらいであろう、
それは真の悲哀ではない、単なるダダこねの披露に過ぎない、それがリアルなのか?いや、リアルではない。
それに比べて私が挙げたアーティストはラップから浮かび上がある誰もが人生を生きているうちに感じるあらゆる視点の悲哀その物を共感を超え、精神に訴えかけて響かすリアルを感じる、これこそが「リアル」なのではなかろうか。
4:吉田雅史の行った技から感じられる批評再生塾一期の終着点
いかにKOHHがリアルではないという事をわかった所で、
言葉のマジシャン吉田雅史の言葉の恐ろしき技がひしひしと伝わるだろう。
KOHHの何でもないラップもどきをあれほど着飾らせる事で、
KOHHの口から溢れる何でもない言葉がまるで悟りの上で練り出された言葉かのような天才さを帯びさせる巧みな技術を感じる。
それはとても脅威であり作品に対しての自分なりの視点を嬲り殺してくるような暴力性が有る。
私でもKOHHに対して「よく考えて」聞けばそれほど深みのある物なのかなと思わせてしまうほどの言葉の濃霧を生み出して惑わしてしまうのだ。
この、「よく考えて」というのは自分の思考だよりの考えではなく吉田雅史の論文によりKOHHをきらびやかに飾った批評を見た上で作られたイメージだよりに基づいた考えになるのだ。
それにより自分からリアル感が奪われてしまう恐ろしき洗脳なのだ。
ここから批評再生塾一期の運営について考えると、
初期授業の佐々木敦塾長の批評感についてのレクチャーを踏まえて吉田雅史の論文を見ると、
塾長の影響を受けてか批判、指摘をせず、どういう物なのかを綴る事に重点を置く事で褒め倒しに走っている事が目に付く、
これは塾長のスタイルを間違った形で受け継いだのだと見受けられる。
と言うのも多彩な切り口で褒めを行ってるだけで、
KOHH個人に対しての○○について○○であるによる掘り下げが少ないからだ。
この結果からして批評再生塾一期は佐々木敦式批評家を生成する形ではあったが失敗に終わったのだ。
つまり批評の再生というより褒め上手を作り上げ、褒め上手再生塾というレッテルを貼られるベクトルへと進んでしまったのだ。
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