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ポストSF批評宣言

 

序論

批評とは「~についての言説」であり、故に現実に対して常に一歩遅れをとってしまう宿命にある。だが、日々進歩し続けるテクノロジーによってSF化しつつある現代社会において、そのような遅れに甘んじていていいものかと筆者は考える。加速し続ける現実を、遅れのなかで捉えられるのかと。ならば、むしろ現実の一歩先をいくような、未来予測的な批評を行うことが望ましいだろう。それは長い歴史の中で常に未来を語ってきたSFを批評することで成し遂げられるだろうが、いま現在SFが真摯に語られているかというと、残念ながらそうではないと言わざるを得ないだろう。
よってここにポストSF批評宣言を行う。なぜ頭に「ポスト」がつくかというと、SFそれ自体がある種パターン化してしまいもはや未来を描くことが難しくなった現代において、その次の段階へ新しい語り口を獲得する必要があるからである。それはまさにSFに追いつきつつある現実との関係性のなかで考察される必要がある。

 

1.柴田勝家『ニルヤの島』

生体受像の技術により生活のすべてを記録しいつでも己の人生を叙述できるようになった人類は、宗教や死後の世界という概念を否定していた。なぜなら、人は死んだら言葉になるからだ。柴田勝家『ニルヤの島』(2014年)では、ライフログの実現に伴って死後の世界が否定された世界が描かれる。
この光景は今現在の社会の有り様の似姿に過ぎない。人々はSNSを用いて己の人生をリアルタイムで言語化し続けている。といっても、そこで紡がれる言葉は量的にも質的にもライフログと呼べる代物では到底ない。思ったことをすべてSNSに書き綴る者は極まれだろう。だがここで問題なのは人が死んだとき、インターネット上にアカウントが残るという点である。人はそこに故人の残像を幻視しはしないだろうか?人が死ぬとき言葉になる。アカウントがインターネット上に残り、いまここから永遠にどこへも旅立たない。恐らく百年後には、インターネットには生者のアカウントよりも死者のアカウントの数の方が勝るだろう。そうなったとき、現実の墓地とインターネットのアカウントの果たしてどちらにより死の現実味があるのだろうか。もしも後者により死の現実を感じるようになったとき、死後の世界はインターネットと同一視される可能性があるだろう。『ニルヤの島』では物語の終盤で、主人公たちは死者の集まるというニルヤの島へと旅立つが、彼らは旅立った時点で既に死んでおり、「そこ」はそれぞれのライフログが時系列も視点もバラバラに入り乱れるまさしくインターネット的な時空間であった。
人は死んだら言葉になる。だがそれはインターネットの登場以前もずっと、固有名のゴーストという形で実現されてきたはずだ。人の死後、実体を失い一人歩きする名前。最も原初的な形で自走するテクノロジー。しかし、インターネットが登場しSNSが普及した今では、実体を失った固有名はアカウントと婚姻を成すこととなったのだ。アカウントとはもう一つの実体であり、すなわちそれは本質的に屍体である。
では、死者と生者を分けるものはなにか?SNS上では死者も生者も共にアカウントを通じて他者に認識される。ここではアカウントの最新更新日付のみが死者と生者の境目を類推可能にさせるのだ。

2.伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』

伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』(2012年)は、屍体の蘇生技術が確立され、屍者が世界の産業・文明を支える時代の物語だ。この物語の終盤では「屍者化は人間に寄生する菌株が作用した結果」と語られ、「人間の意思そのものが、菌株が作り出す幻想」と結論付けられる。
ここで描かれる屍体をSNSのアカウントのメタファーと捉えることは妥当だろう。なぜなら前述の通りアカウントとは本質的に屍体だからだ。そして、まさに『屍者の帝国』のように、アカウントはハッキングされることによって、他者により動かすことが可能になる。それは悪意ある第三者の手に寄らずとも、自らアカウントをbot化(予め定められた規則に従ってアカウントに自動発言させるサービス)することで達成される。bot化されたアカウントの持ち主が死んだとしても、アカウントは永遠に喋り続ける。その意味で我々はSNSにおいて生者と死者を見分ける手段を原理的に持ち得ない。
アカウントの屍体性を考える際にもう一つ重要な点が、Twitter等の匿名での利用が一般的なSNS(例えば実名での利用を前提としたFacebookを除いて)では、自虐的な発言が評価されやすい傾向にあるという点である。これは公の場で抑圧された者たちの叫びであり、彼らはSNSにログインするとき、実体を捨ててアカウントという屍体へ同一化を行うのだ。
また、SNS上での発言を繰り返すうちに、『屍者の帝国』と同じくアカウントという屍体を動かしている菌株の存在に気がつくだろう。それはキャラクターである。SNS上では複数のアカウントを使い分けることができるが、概ねそのどれもが意図せずともキャラクターを違えてしまうことになるのは、アカウントのキャラクターの方向付けは本人の意図だけでなく、他者からのフィードバックの影響を強く受けてしまうからだ。なぜなら、SNS上ではすべての他者の反応/無反応が可視化されてしまうからだ。
そして、SNSのアカウント同様、リアルの自分ですらもキャラクターという菌株に駆動され続ける、抑圧されて当たり障りのないことしか喋れない屍体であることに気が付くのだろうか。

3.伊藤計劃『ハーモニー』

医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢するユートピアを描いた伊藤計劃『ハーモニー』(2008年)は、最も洗練されたサイバーパンク小説である。ここではテクノロジーが人間の身体、精神、そして脳にまで浸透しており、物語の終盤では遂に人類はテクノロジーと全くの純粋な一致を遂げることになる。
主人公たちはそんな社会に絶望し、友人とともに自殺を図るが失敗する。この社会はジョージ・オーウェル『1984年』の現代版のようなもので、体内を巡る医療分子によって恒常的に人は医療的な監視を受けなければならない。まさに「ビッグブラザーはあなたを見ている」のだ。ここでは公の場で抑圧されたおのの受け皿となるSNSに該当するようなものはなく、主人公は螺旋監察官という特殊な職業に従事することで、社会から逃れて紛争地帯に赴き、そこで酒や煙草などの禁じられた不健康な嗜好品を嗜んでいる。が、それも物語の序盤で発覚してしまい謹慎という形で社会の中へ再び戻ることとなる。この社会では主人公のように特殊な抜け穴を見つける以外には、自殺以外に逃げ道がない。
『ニルヤの島』におけるライフログ生成と、『ハーモニー』における医療言語への変換は、どちらも自動的に言語へ変換されるという意味で全く等しいものである。ここで思い当たるのは、我々はSNSを通じてライフログを日々生成していると論じたが、それは『ハーモニー』における医療言語への変換のような半ば強制的なものではないのかということである。『ハーモニー』で描かれた社会は現代以上に心理的ストレスの強い社会だ。そして、ストレスは恒常的に医療言語へと変換されて、サーバーに送信されたのち適切なカウンセリングや薬が処方されることとなる。仮に、我々もまた職場などの公の場において受けたストレスに対して、自動的に/無意識的にSNSで投稿を行っているとしよう。それはアカウントに紐づいたキャラクターを通したある種類型的にデフォルメされた発言であり、フォロワーから同じく類型的な反応が返ってくる。類型的なコミュニケーションが繰り返される。それは似た者同士で寄り集まったそれぞれのクラスタごとの様式に沿って反復される類型であり、閉じた交換様式による相互承認行為である。互が互いにカウンセリングし合う。
『ハーモニー』の終盤では、人類は葛藤=意識を克服することで喪失し、ただただ機械的に生存することが可能になったユートピアが描かれる。これは、身体の医療言語化を全面的に受け入れたうえでの即時投薬によって可能になる。我々がSNSへの投稿に対してよりためらいなく、際限なく、つまり無意識的/自動的に行うようになるとき、社会のハーモニー化が進んでいると言わざるを得ないのではないだろうか。そこでは最早、どんな痛烈な叫びであっても適切なカウンセリングを受けるための無機質な医療言語に過ぎず、自殺を行い「年間自殺者数」という数値の一単位になることで、ゆるやかなアポカリプスを準備することでしか逃げ道はないだろう。いつか本当に人類が葛藤=意識を克服する日が来るまで。

 

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