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膨張する宇宙

 

今なお、宇宙を包含することばを探し求めている。見込みはないと思われるのだが。

(J・H・ボルヘス『王宮の寓話』)

 

いまこの瞬間にも、宇宙は膨張し続けている。宇宙とは言語空間だ。我々の宇宙=言語空間は長い歴史のなかで間延びされながら少しずつ崩れ落ち始めている。
例えば、「夢」という言葉の代わりに「やりがい」が、「希望」という言葉の代わりに「安定」という言葉が、「かわいい」という言葉の代わりに「女子力」という言葉が登場したように、言葉は乱用されて本来の機能を失いつつあり、それを補うように別の言葉が登場するも、それらは見せかけの機能しか持たず、言葉の世代交代に伴って、言葉の機能はどんどん縮小・劣化しつつある。

神林長平『言壺』(2011年)の「乱文」のパートによると、ヒトは言葉を手にしたことで、「他の生物が本能的に定められたただ一つの社会形態しか実現できないのに対して組み換えや変革の自由度を持った柔軟さを持ち、ゆえに他の生物種を圧倒する立場を得た」が、言葉が実現した社会とは「物理的生体レベルとは異なる仮想世界として存在し」、生物種は「個としてユニークである必要はなく、個性を持つのはかえって危険であ」るが、他の生物種と違い、ヒトは「自分は自分という強力な個性をもった」、「生物として不自然な状態」になった。ある人間の個性は別の人間の持つ個性の幻想性を暴露してしまうため、自己の個性という幻想を守るために、言葉の能力の限りを尽くして、他者の個性を破壊することに全精力を傾ける闘争が起こった。また、「言葉自体はつねに秩序を崩壊させる方向に作用するもの」で、「言葉自体がすでに、つねに自己を曖昧にしていく作用力を内包しており、かりに原初にはひとつの言葉しかなかったにせよ、だれもその言葉を使わないとしてもそれはつぎの瞬間には自己分裂を、自己のシステムのエントロピーを増大する方向へと進化を開始したに違いなく、ヒトがバベルの塔を造ろうが造るまいが言葉は無数の体系に分かれたことだろうし、一つの体系自体もつねに曖昧になっていく方向に進化するのはその作用力のためであり、その力はどんな手段をもってしても食い止められることはなく、ということはその作用による崩壊から逃れるためにはつねに恒常的なエネルギーの供給が必要なのだ、ヒトはそのため一瞬たりとも休めないのだが、それに必要なエネルギーはヒト一もしくは少数グループなどというレベルではまかないきれないのであり、大集団が総力を注いで言葉の自己崩壊を阻止していかねばならないというのに、(中略)ヒトは今回のネットワークによる闘争(※自己の個性という幻想を守るために、言葉の能力の限りを尽くして、他者の個性を破壊することに全精力を傾ける闘争)のために自己の操る個性の言葉を維持するだけで精一杯となり、もはや他者にはその言葉は通用せず、そのうえ言葉を支えるのに必要なエネルギーの閾値を割ってしまうのに及んで、言葉自体が自己崩壊を始め、自分の言葉自体が分からなくなっていったのだ」。

言語空間=宇宙の自己崩壊を止めるには、相応のエネルギーが必要だ。ボルヘスは『王宮の寓話』という詩のなかで、「今なお、宇宙を包含することばを探し求めている」と述べる。これは同作者による『バベルの図書館』に登場する、あらゆる書籍が納められた図書館=宇宙を、一冊で包含する書物のことだろう。そんなものが見つかるのか、まさしく「見込みはないと思われるのだが」、言語空間=宇宙の自己崩壊を食い止めるためにはその書物を探し続けるしかないであろうし、可能な文字列をすべて網羅すればすべての書物を再現できるという『バベルの図書館』のテーゼに倣えば、書き手と書き手の果てしない差異化のゲームを通してありとあらゆる文字列が産み出され続ければ、原理的にはいつかは宇宙を包含する一冊の書物が誕生するだろう。
詩人のシェリーは「過去・現在・未来のすべての詩編は、この世のすべての詩人によって書かれた一遍の無限詩の挿話ないし断片である」と語り、二階堂奥歯は『物語が語り手を作る』にて、これを主客逆転させると「一遍の無限詩は、自らを可能な限り分岐・増殖させるべくすべての詩人を使役する」となると語る。ここでいう無限詩が、宇宙を包含する一冊の書物のことだとすれば、我々はこの書物に使役されて、ナニカを書き続けているのだろう。いつか壊れかかった言語空間=宇宙を元通りに癒すために。

 

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