批評再生について
1.
株式会社ゲンロン主催の佐々木敦・東浩紀による批評再生塾第一期(2015年6月~2016年3月)は必ずしも成功した(=優れたテクスト/書き手を世に送り出した)とは言えないだろう。初代総代(=総合優勝者)の吉田雅史は最終課題『漏出するリアル 〜KOHHのオントロジー〜』で、(かなり強引な要約になるが)日本語ヒップホップにおける「リアル」をKOHHが更新しているのだと述べているが、多少なりとも日本語ヒップホップを聴いたことのある者であれば失笑ものの過大評価に感じることであろう。そもそも、吉田の述べるヒップホップが伝統的に描いてきた「リアル」に対するカウンターは、(少なくとも日本においては)THA BLUE HERBという特権的な固有名があらかたやり尽くしてしまっており、それ以降「リアル」の更新は見受けにくいというのが実状だろう。THA BLUE HERB(とりわけMCのILL-BOSSTINO)とは現在の批評界でいうところの東浩紀のような存在であり、渋谷(業界の問題)・英語(言語の問題)・リアル(価値観の問題)の三つのレヴェルすべてに同時にカウンターを成功させた日本語ヒップホップの革新的な先駆者である。THA BLUE HERBとの比較そしてその理論的な乗り越えを抜きにKOHHを称揚する吉田の論調は、まるで東浩紀抜きで宇野常寛最強論を語っているかのような陳腐なものにみえた。(もし、日本語ヒップホップを良く知らない、THA BLUE HERBを聴いたことのない読者がいるならば、まずは本稿の末尾に添付した音楽を聴いてみて欲しい。KOHHがいかに陳腐か、また、昨今流行のフリースタイルダンジョンのように元気のいい兄ちゃんが一生懸命喚いているものだけがヒップホップではないということが分かるはずだ。ヒップホップに馴染みのない読者にも伝わりやすい曲選を重視したため、DJ KRUSHとILL-BOSSTINO(当時はBOSS THE MC)のコラボ曲『Candle Chant ( A Tribute )』を選んだ。また、「リアル」な日本語ラップの例として続けて一曲添付したので興味のある方はそちらも確認をお願いしたい)(※1)
端的に言ってここでは批評が批評対象から離れ、それそのものが目的化してしまっているような感じがあるが(※2)、この傾向は吉田の(批評再生塾における)どのテクストにも、そして批評再生塾第一期生全体に通低している問題のように思える。それは塾生個々の資質や、その複合としての批評再生塾生一般に問題があるのではなく、むしろ批評再生塾というメディア環境そのものに問題があるのだ。
批評再生塾の授業風景は(非優秀者にとっては)教室空間でありながらも、優秀者がプロの批評家と壇上で議論する擬似的な論壇でもあり、中継によってネット空間(の読者)との接続も果たしている奇妙な空間である。そこでは、①批評家を育成する塾=教室である②批評家になれる=抜擢される可能性のあるオーディションである③課題投稿はサイト上に投稿後即一般公開されるためブログ感覚を伴い(事実、課題投稿後はすぐさまtwitterで告知を行うのが常だ)、授業は一部ニコ動で公開されているなど、ネット空間とのリアルタイムな親和性が非常に高い環境である④批評再生の使命=物語を負わされている、以上の四つの要素が複合的に作用しあい独特の「熱気」を生じさせている。順を追って説明しよう。まず①の教室空間が形成されることで外部との切断が生じ、②で総合優勝=デビューという究極のゴールが設定されることでそちらへと……塾生同士の内輪の泥沼の競争へと方向性が定義付けられ=部活化し(より外部との切断が生じる)、なおかつ④で教室空間のなかで増幅された批評再生への使命感は強烈な動機付けとなる一方で、批評を再生したい=広めたいという欲望は批評というコンテンツジャンルの領域を過剰に意識させ、更にその領域の外部との切断が加速する。こうして、批評再生塾は内輪化が進み、そこで営まれる批評は外部=批評対象=現実から距離を隔たれてしまうのだ。(回を追うごとに提出者が減っていき、最終的には41人中14人しか提出していなかったのは、果たして本プログラムが過酷過ぎたことのみが原因だろうか。そこに教室的な排他作用はなかったか。)
③は一見、外部性を確保する装置たりえるように見えるが、実際はその更に外部にいるまだ見ぬ読者(非読者)をより不可視化し、現在の読者の存在感をばかり増幅させる装置として機能している。例え投稿した文章に実際に「いいね」があまりつかなくとも、いま投稿した文章がリアルタイムで誰かに見られている可能性をこそ投稿者に強く予感させるのがSNSのメディアとしての特性だからだ。まとめよう。教室空間と擬似的な論壇は、ネット空間における課題投稿=ツイートと読者からの(無)反応を中間項として挟みながら接続されることで、教室という私(たち)の世界と擬似的な論壇という超越項が接近し、その接近が想定される読者の存在感によって保障されてしまう。塾生の視点でみたとき、そこでは批評が盛り上がっているように、批評が再生しつつあるるかのようにみえてしまう。
主任講師の佐々木敦も第二期の開講の言葉で、第一期を振り返って「「批評」は着々と、その「再生」のためのポテンシャルを充填しつつある、そう思えたのだ。」と述べているが、上記のような構造によって錯覚を起こしただけではないだろうか。相変わらず多くの人にとって批評は読まれてはいない。
ならば、批評再生はいかに可能か。また、批評再生とはどういうことか。そして、「「批評」は役に立つ」(※3)とはどういうことか。批評再生塾は塾でありオーディションでもあると同時に、批評再生を志す若者の集まる場でもある。批評再生塾の真価を問うためには、個々の塾生の質を問うよりも、批評再生という物語の是非を問うべきだろう。
2.
まず、そもそも批評とはなにかを整理しておく必要があるだろう。広義の意味でいえば「~についての言説」であるが、それは「内の言葉」と「外の言葉」に二分され、狭義の/本来の批評とは「外の言葉」のことであると、批評再生塾主任講師・佐々木敦は言う(※1)。ある事象と、それに対する内側の言説と、それらの消費者が一つの領域を形づくるとき、批評とはその外からやってくる言説なのだ。故に、批評に不可欠な特徴として、①「外部性」=対象領域の外部に立つこと②「言説の更新性」=対象に新しい視点を導入すること③「越境性」=異なる領域を横断すること、の三点がしばしば挙げられる。つまり、「〝臨界=危機的(クリティカル)な思考〟としてそれは機能する」。(大澤聡『批評メディア論』)
では批評再生が謳われるところで問題とされる批評の危機とはなんだろうか。ここでは簡単に、社会が「島宇宙化」(社会に広く共有される価値観が薄れ、それぞれの人が所属する小さな共同体の中だけで通用する狭い価値観に基づいて行動し、それらたくさんある価値観同士の交流がなく、社会がバラバラになってしまった状態)したため、①それぞれの島宇宙の「内の言葉」が(主にネット上に)氾濫していて、「外の言葉」としての批評は効力を失っている(=越境不可能性)②多種多様なコンテンツ群のなかで、相対的に批評が求められていない③社会が複雑になりすぎて、島宇宙の全体を見渡すことが困難になり、そもそも批評を行うことが難しい、というような危機的状況に陥っていると定義しておくに留める。つまり、批評それそのものが「島宇宙」の島のひとつに成り果て、他の島へと移動=越境することが困難になっており、同時に自分の島=価値観の共同体に閉じこもった人々にとっては(他の島への連絡を可能にする乗り物にせよ、他の島そのものにせよ)批評とはその島を脅かす外部の異物に過ぎず、批評の発する「外の言葉」は受け入れられることがない状況というようなイメージを持って頂ければ分かりやすいだろうか。批評の再生とはこの越境性の回復のことを指すのだと、本稿では一応定義づけておく。
メタとして機能するはずの批評もまた、島宇宙の島のひとつになってしまったのは二つの理由があるだろう。一つめは東浩紀のいう「ポストモダンの乖離的な生」が原因であり、いまやどの島にいる人々も、他の島々をメタ的に俯瞰した結果として、自己の所属する島=価値観を決定しているからだ。つまり、従来の社会であれば知識人/非知識人という単純な二項対立を前提とした知識人から非知識人へのメタ的で一方向的な視線によって批評の領域を画定できたが、現在の社会では批評の領域外=他の島々にいる人々もまた、批評という島そのものを値踏みし取捨選択しているのだ。例えば知的水準の高いビジネスマンなどでも、批評や学術や文学などの領域に関心を増やさない層は一定数存在するし、この割合は年々増してきているのではないだろうか。二つ目は大澤聡『批評メディア論』で、「あらゆる言説は商品として流通」し、「問題はテーマの質ではな」く「係争中の最新の批評課題がそこにある、という端的な事実そのもの」であり、「課題や論争がたえず創造され続けなければならなくなる」と、「~についての言説」であるはずの批評が自身そのものを目的化してきた歴史が語られるように、単純に批評が意味内容を求められず動物的に消費されるだけのあまり意味のないものと化しているからではないだろうか。いや、それは少々言い過ぎか?だが批評を読まない人にとっては、それもまた真実だろう。また、批評読者/関係者にとっても(意味内容に関わらず)批評そのものを消費している感じがあるのではないか。そして、批評読者/関係者が批評が役にたっていると実感する場合、それはおおむね自分自身の問題解決や批評読者/関係者間のコミュニケーションにおいてではなかろうか。そこに批評である必要性はあるのか。代替可能な項である限り、批評それ自体が役にたっているとは言えないだろう。
ならば、批評はいかに役立てることができるか。それは誰かの役に立つことでしか証明できないであろう。そしてその誰かとは、批評を読まない他の島々の誰かのことである。批評再生を掲げるとき、拡げるべきは批評の読書コミュニティではなく、島間におけるテクストに拠らない対話の場をこそ拡げていくべきなのだ。
批評再生塾第一期では、批評が再生しつつあるという錯覚がそのメディア環境によって創出された。だが、真の批評再生を目指すのであれば、その外側にいる批評を読まない読者たちに向けて役立てるような、そういう語義矛盾をやってのけるために現実という中間項を駆動させられるような、意味のあるテクストの創出が第二期以降の批評再生塾には求められる。
※1
DJ KRUSH fest BOSS THE MC(THA BLUE HERB) 『Candle Chant ( A Tribute )』
Michita Feat. Meiso 『ソラニシラレヌ』
※2
むしろ、吉田は意図的に読者=ゲンロンコンテンツの消費者/関係者に対して、ヒップホップとはなにかというところを本当のところではローカライズせずに、「なにか良く分からないけど凄そう」な武器=ヒップホップを確保し続けている印象を受ける。
※3
佐々木敦 批評再生塾第二期開講の言葉http://school.genron.co.jp/critics/
文字数:4752