もう一度腹を立てる
適切な瞬間に、適切に腹を立てることができない。後になって先の自分が腹を立てていたと思い至って、悔し紛れに何か書いても、書くことで、私はどんどん語り落としてしまう。それを前提に、先日腹が立ったことについて書く。
長くつきあった恋人と別れ、私は「アラサー」で、今後は仕事が忙しくなることが決まっていた。「だから、卵子凍結しようかと思って」友人とのドライブ中、私は気軽な思いつきのように言ったが、実のところ卵子凍結については以前から検討していて、どの病院で会社帰りにカウンセリングが受けられるのか、その時既に知っていた。しかしハンドルを握る友人は、「何言ってんの」と言った。「カネマスさんはアーティストなのに、卵子凍結とか考えちゃダメでしょ」。私はその瞬間には、どのように言い返すべきか分からなかった。
卵子凍結そのものについては今回問題としない。問題は「アーティストなのに」の部分で、①何故友人は私を「アーティスト」とみなしているのか、②何故「アーティスト」は卵子凍結をしてはいけないのか、分からなくて言い返せなかったのだな、と思い至ったのはレンタカーを返却し、友人と別れた後だった。
まず問題①について。私は会社員である。家賃生活費その他を、賃金から支払っている。休暇を利用し、年に数回小劇場の舞台に立つが、プロ/アマで言えば、アマである。もし私が「プロ」を名乗るとしたら、不遇の(売れない・評価されない)プロだということになる。それに耐えられないので、アマの自称に留まっているとも言える。とはいえ私は、多くの時間を演劇に費やしてきた。稽古時間を労働にあてればより多くの収入を得られるにも関わらず。つまり、私は、演劇をやればやるほど金銭的機会を失う。それでも私は「アーティスト」だろうか。むしろ消費者なんじゃないかと思う。もしくは、私は私が演劇を続けるために私自身を助成し続ける永久機関だ。それでもアーティストだろうか。私は私がアーティストであるかどうかの判断を、お金の問題に寄せて考えすぎているのだろうか。
もう少しお金の問題について考える。件の友人は、私を彼の友人知人に紹介する時に、「アーティストの(もしくは俳優の、もしくは演劇をやっている)カネマスさん」と言う。友人は、アートを良いものだと思っている。私の出演する舞台を、いつも見に来てくれる。友人の態度は、「カネマスさんが出ているから、観る」という、発表会鑑賞の態度には留まらない。友人の意識は、「カネマスさんはアーティストであり、アートは良いものであり、アーティストの活動を支えたいので、お金を払って観る」というものに近い。友人が「アート」に課金(もしくは贈与)する限り、私は彼にとって「アーティスト」だ。そう考えるとやはり、友人の前で「アラサーOL」ぶった私が悪かったのだろうか。
では仮に私を「アーティスト」だとして、何故アーティストは卵子凍結を検討してはいけないのだろうか。「卵子凍結」だからいけなかったのだろうか。「婚活パーティーに参加しようと思う」でもNGだったと思う。「遠距離介護に備えている」だったらどうだろう。「永久脱毛を検討している」くらいならOKだろうか。
おそらく友人には、アーティストには、その他のものは犠牲にして、アート的なものに献身すべきだという考えがある。そしておそらく「卵子凍結」には「お金をかけて」「本来“自然にまかせるべき”ことを操作して子供をもとうとしている」というイメージをもっている。「お金」も「家族計画」も、アーティストが望むべきではないものだ。アーティストは「お金」や「家族」「計画」と切り離されていてほしいという願望は、友人の中に確かにあったと思う。でも卵子凍結くらいさせてくれよ、アートとは全く関係のない仕事で、私が稼いだ金をつかって。
ここで別の友人達のことも考える。稽古だ、打ち合わせだと忙しくしていたら、「カネマスさんはそうやって、いつまで文化未満の人達とつるんでいるの」と言われたことがある。また別の友人に、「早く、私と仕事できるステージにまで上がっておいでよ」と言われたこともある。この友人達はそれぞれ大手出版社、大手広告会社に勤務しており、つまり「文化のエリート」である。彼等にとって私は「アーティスト」ではなく、「文化未満」の多趣味なOLである。彼らは「カネマスさんがでているから」という理由では舞台を見にこない。「マームとジプシー」ならば観に行くであろう。「マームとジプシー」は既に「ブルータス」に載っているからだ。彼等にとって、「アーティスト」であるには一定のレベルが必要で、そのレベルは社会的認知に裏打ちされている。私もマームとジプシーは好んで観るが、彼等だけがアーティストだとは思わない。
大道芸を見ていると、ジャグリングや曲芸をやる芸人が観客に、「もっとすごいもの見たいですか!」と声をかける場面がある。観客は、拍手や投げ銭の投入でそれに応じる。その場面において、「すごいもの」と「もっとすごいもの(=より課金すべき芸)」は明確になっている。
勿論そうでない場合もある。先日新宿三井ビルの広場で、ギリヤーク尼ケ崎の街頭公演を観た。86歳のギリヤークが震えながら踊ると、色とりどりの紙に包まれた「おひねり」が宙を舞い、地面に散らばり、ギリヤークは散らばったおひねりのなかで仰向けに倒れ、溺れるように手足をばたつかせた。それは大道芸というよりも、祭事という印象に近かった。「アート」への課金(もしくは贈与)は、すべからくそのように行われてほしいと思う。「芸」と、「もっとすごい芸」を切り分けるように、「文化未満」と「文化」に線をひくことは、「文化」を細らせる。するとやはり、私はアーティストを自称するべきだろうか。しかしブルータスに載っていない不遇のアーティストは、「お金や家族計画には無縁でも良い」という態度を求められる。
前述の、長くつきあった(そして別れた)恋人は、周囲からアーティストとみなされており、本人もそれを自覚していた。交際の晩期、「貴方にはお金が無いから別れたい」という意味の事を、私は彼に何度も言った。別れてから随分時間がたった後、これはつい先日のことだが、彼から連絡があった。彼はこのような意味の事を言った。
カネマスさんは、僕のことを、お金が無い「ような」人間だと思いこんで、「ような」の部分に含まれる、本来僕に属さないものを、僕に当てはめるので嫌だった、「ような」の部分でばかり、批判されるので嫌だった。
なるほどなあ、と私は思った。私は、(もしかしたら)お金が無いことなら、批判しても良いと思っていた(のかもしれない)。「貴方の人間性が嫌だ」や「もう愛していない」に比べ、「貴方にはお金が無い」は、貴方はアーティストだから、アーティストとして認められているから、アーティストであることと抱合せの、お金が無いことが原因で私達が別れるのなら、それは私達のどちらも悪くないよね、しょうがないよね、と考えたかった(のかもしれない)。私は関係の破綻を以下の言葉で誤魔化したかった(のかもしれない)、「彼にはお金がないから結婚できない、仕方ない、彼はアーティストだから」。しかしもう、当時の考えは、自分自身でも分からない。何故元恋人は、今になって意見を伝えてきたのか。自分が腹をたてていたことに、後になってから気がついたのか。
私はあれこれと理屈をつけて、過去の気持ちに近づこうとする。恋人にお金がなくて嫌だった。卵子凍結なんてするべきでないと言われた。文化未満とみなされた。私は書くことで、過去の苛立ちに接近する。眼の前の苛立ちはもはや以前の苛立ちではない。私が考えたことは全て間違っているかもしれない。卵子凍結の彼は「落ち込んでないで創作しろ」と励ますつもりだったかもしれない。「文化未満」の友人も、ブルータスに乗っていないアートを発見するかもしれない。そもそも、彼らは私の創作への中途半派な態度に苛立っていただけかもしれない。物事を正確に捉えるための機会は既に失われてしまった、しかし私はくりかえし腹をたてて、書く。眼の前の苛立ちを、すぐに打ち返す日がくるだろうか。
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