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「平面」批評宣言

 序
 ゴジラが再びこの国に姿を現したとき、その巨軀があたかも書割りのごとく表象されていたことを記憶しているだろうか。第4形態へと進化したゴジラは鎌倉の水平線をかぎるように再び日本へと襲来する。この再上陸のシークエンスは従来のシリーズと異なり、『シン・ゴジラ』(2016年、庵野秀明総監督)特有の遠景で捉えられたゴジラのショットが印象的だ。同作はある特質ゆえにゴジラを遠景で捉えたショット、もしくはその逆に近景で捉えたショットが頻出しており、冒頭に述べた“書割っぽさ”もまた同様の理由に起因する。その特質とは『シン・ゴジラ』において彼の怪物は全編に渡ってフルCGで描出されているということだ。
 同作でのゴジラは現実空間に痕跡(指標性)を持たないため、その相貌はスクリーンという平面の上にしか存在しない*1。『ゴジラ』(1954年、本多猪四郎監督。以後、ファースト「ゴジラ」と表記)であれば、セットにその身を置いた100キロ近い「ギニョール」に身を包む中島春雄がフィルムという支持体に記録されていたのだが、同作のゴジラは鎌倉の海岸線を捉えた遠景ショットにデジタル上で加工・付着された平面的存在にすぎない。空気遠近法によってゴジラの姿形はカメラ・アイで捉えられた鎌倉の風景――(疑似)空間にあたかも実在するかのようにコンポジットされているが、観る者にとってその虚構性は明らかである。
 わたしたちは極めて体感的にしかその虚構=平面性を感得できないが、たとえば実際の生物の表皮(肌理)はその乱数的な凹凸によって実に複雑な光の反射を相互に繰り返す。現在の技術的水準ではその光の乱反射(生物の質感)までを十全に再現するシュミレーションは難しく、精巧なわたしたちの視覚は無意識のうちに生理的違和を覚えてしまう。誤解のないように直ちに言い添えておけば、わたしはここでアクターが操る「着ぐるみ」のゴジラに現実性(リアリティ)があったと主張したいわけではない。ここで問題としているのはスクリーンに映るゴジラが現実に存在したか(指標性を伴ってカメラに記録されたか)という水準の議論である。つまり現実性の問題ではなく、ゴジラが現実空間に実在したか/平面に描かれたものであるかという存在論的問いだ。じっさい、ファースト「ゴジラ」にはギニョール(着ぐるみ)という現実的な対象――痕跡はあるものの、特撮セットおよびその圧縮された映像に虚構性は孕まれざるをえない。換言すれば『シン・ゴジラ』における虚構性はゴジラの平面性に位置しており、それは従来のシリーズとは別種の虚構性だということである。

 では、なぜ特撮セットを用いて描かれてきた「ゴジラ」は『シン・ゴジラ』において平面へとその存在を逃げおおせたのか――(庵野は予算をかけて制作した特撮用のゴジラのギニョールを一瞥で不採用を決定している)。議論の一部を先取りすれば、そこには日本を襲った震災という「経験」をいかにして表現――時と空間の懸隔を超えた他者に共有――するのかという命題が含まれているのではないだろうか。そして、管見によればその命題は時を同じくして現れたいくつかの作品にも「平面」の問題系として刻銘されている。『シン・ゴジラ』と同年に公開されヒットを記録したアニメ映画作品『君の名は。』(2016年、新海誠監督)と『この世界の片隅に』(2016年、片淵須直監督)はともに自然災害や戦争を描き、その作品によって社会を襲った「災禍」を再演した作品であることを看過してはいけない。そしてこれらの作品もまた「平面」の問題を複数の水準で孕んでいるのだ。
 しかし、2016年における「平面」と災禍の問題系を考える際に忘れてはならないのは、一方で同年は反-平面の時代と形容すべき趨勢がコンテンツを中心に巻き起こっていたということである。PlayStation®VRやOculus Riftなど仮想現実(VR)を愉しむためのハードウェアが続々と一般発売され、またスマホアプリ『Pokémon GO』の世界的な流行も記憶に新しい。VRやAR(拡張現実)はまさしく空間(反-平面)を媒介する技術である。また、猪子寿之率いるチームラボは昨夏にお台場で『DMM.プラネッツ Art by teamLab』を実施し多数の観客を動員したほか、世界的な評価を次々と確立していった*2。美術館における鑑賞が絵画や彫刻を一点から眺めたりするスタティック(受動的)な経験だとしたら、チームラボ作品の鑑賞はきわめてダイナミック(能動的)な体験である。展示されるデジタルインスタレ―ションは鑑賞者からの介入によって積極的に変化し続けていくことで、その鑑賞体験は空間への没入を強く要請する。チームラボの展示とはまさしく「空間」の芸術といえるだろう。

  「平面」の芸術と「空間」の芸術。2016年の日本におけるサブカルチャーは二つの相異なる想像力がそれぞれ耳目を集めていたといえないだろうか。ここで本論は前者――平面の芸術が『シン・ゴジラ』を中心に『君の名は。』『この世界の片隅に』といった作品群がいずれも自然災害や戦争といった経験――「災禍」を再演しているという事実から思索を始めることにしたい。なぜ、それらの「平面」は災禍を描き出すことになったのか。この命題は必然的に「平面」とは何かという問いに行き当たることになるだろう。しかし、本論の「平面」へのアプローチはこれまでの批評が用いてきたものとはいささか異なるものになるはずだ。平面――それをスクリーンの表面ととるならば直ちに蓮實重彦による『表層批評宣言』が連想されることだろう。あるいはクレメント・グリーンバーグによる絵画に対するモダニズム(メディウム・スペシフィティ)の議論から導出された「平面性」を想起するかもしれない*3
 しかし、本論で展開する「平面」批評はそれら内在的なアプローチ(フォーマリズム批評)とは決定的に態度を異にしている。また平面性(flat)はポストモダン思想と連関することで時に非-歴史性を強調するような議論も存在する。しかし、本論は「平面」を内在的にだけ扱わず、また「平面」をこそ歴史的に――ときに日本近代の始源まで遡行しながら思考することになる。

 アニマティックと「ゴジラの命題」
  『シン・ゴジラ』においてゴジラの相貌は全編においてCGによって描き出されることとなった。ファースト『ゴジラ』からシリーズにおいてギニョール(着ぐるみ)という実体をカメラに捉えられてきた(指標性を持つ)怪物は、同作において完全にその存在を平面のなかへと隠すことになる。『シン・ゴジラ』においてこの怪物は現実空間に痕跡(指標性)を持たず、かつその動作をすべてあらかじめ「アニマティック(animatic)」によって規定されているのだ。ここで『シン・ゴジラ』において中核的な制作手法であり、かつその平面性を担保した技術「アニマティック」について概観しておこう。
 アニマティックとは大まかに表現すれば、CGによるデジタル絵コンテともいうべき制作技術である(日本では「プリヴィズ(Pre-Visualization)」と呼称されることが多い)。アニメにおける絵コンテが実際の作品の画角・レイヤー(位置関係)・図像を大まかに画定しているように、アニマティックもまた映像作品の「下書き」ともいうべき重要な工程となる。通常の映画にもコンテは使用されるが、コンテとアニマティックの最大の違いはそれが実際の映像と置換できるかどうか、という点に尽きる。コンテはあくまで二次元のスケッチでしかないが、アニマティックは三次元をシュミレーションした仮想空間の上で映像を「下書き」する。『シン・ゴジラ』では撮影の前にすべてのショットをアニマティックで描いており、撮影はアングルから人物の動きまですべてが「下書き」であるアニマティックに沿って実施された。ここまで読めば一目瞭然だろうが、この制作手法はアニマティックの語源とおり、きわめて「アニメ」的なのである。アニメーションは作画においてスクリーンの全てを作り手に統制されており(すべての細部に神を宿す)、アニマティックはその力学を実写映画において応用することを可能にしたのだ。
 またアニマティックは三次元をシュミレートした仮想空間を用意するが、そこにはカメラ・アイの設定(被写界深度、採光量など)さえ内包されている。つまりアニマティックは客観的光学空間をシュミレーションしており、その上にゴジラや実際の風景などがデジタル的に描出/付与されていく。アニマティックは現在、CGを使用しない作品がほぼ無いと言われ、また支持体もフィルムからデジタルへ完全に移行しているハリウッドにおいて一般的な制作手法となっている。特にCGを多用するSFやコミックを原作に持つ作品などはアニマティックでロボットやモンスター、ヒーローをデジタル上で彫像し、撮影事前にシュミレーションすることは工程の要点となるからだ(ちなみに『シン・ゴジラ』は長編映画としては全編に渡ってアニマティックを導入して制作する国内初の試みになる)。
 ことほど左様に『シン・ゴジラ』はあたかも「アニメ」のようにシュミレーション上でゴジラを動かし、あらかじめ周囲の都市や戦闘機などをCGで「平面」の上に再現した後に実写で撮影されていったのである(都市景観や戦闘機は実際のモデル/データをシュミレーション上に落とし込んでアニマティックを制作した)。この平面上のゴジラは先述のように現実空間に痕跡を持たない。それゆえにVFXゆえの平面性を持つと同時に、これまでのシリーズでは描きえなかった豊穣な「細部」を獲得することになる。たとえば『シン・ゴジラ』において最も抜本的な形態の変更だった尾の表象(先端には第二の顔までもが刻印されており、単独で画面を覆いつくすに足る存在感を獲得している)、第2形態から第3形態への進化に際しての頭部の表象、線状火炎を吐き出すときの分裂する開口部など、いずれもこれまでゴジラシリーズを支えてきた「ギニョール」では描き得なかった表情といえるだろう。ゴジラはアニマティックによって「原形質性」を獲得したのだ4。

 しかし、このアニマティックによって彫塑されたゴジラは先述のように観る者に生理的違和を感じさせる存在でもある。たとえば特撮セットのなかにギニョール(中島春雄)という現実的対象を持ち、撮影していたファースト『ゴジラ』はその存在を客観世界のなかに置いていた。つまりファースト『ゴジラ』の映像はすべてインデックス性を持つ現実の再現前である(もちろん当時の技術である光学合成によって発光や爆発といったゴジラ以外の映像への「加工」は施されてはいる)。
一方で『シン・ゴジラ』は通常のシークエンスは指標性を持つ実写映像で展開されつつも、ゴジラの登場する場面ではその現実的光学空間のうちに、CGで描出された怪物が現れることとなる。ここでゴジラは周囲の実写映像(カメラ・アイで捉えらえた現実空間)との間に微妙なズレを持って立ち現れることに注目したい。先述したように生物の質感を生む光の細かな乱反射は現在のVFX技術でシュミレーションできず、ゴジラは虚構性を露呈しつつ画面に表出される。
 かつて斎藤環は「表象コンテクスト」という表現で、実写/アニメにおけるリアリズムの差異を論じたことがあるが、ここではそれを議論の導きの糸としてみたい。たとえばアニメにおけるロトスコープは現実における人間の動態をそのままアニメにトレースする技術として開発されたが、その動きは決してアニメーションにおいて「リアル」なものとして受容されなかった6。アニメ―ションにはアニメーションにおけるリアリズム(表象コンテクスト)があるのであり、そこでは現実よりも誇張された動態こそが「自然」なのである。『シン・ゴジラ』における虚構性の露呈は、このロトスコープにおいて起こった事態とちょうど表裏の関係にある。つまり実写映像で示された鎌倉や東京の都市景観――客観的光学空間の表象コンテクストにおいて、ゴジラという存在は「ズレ」ているのだ。この平面性に虚構性の現前にこそ、同作の真価があるのではないか。じっさい同作においてゴジラは「現実らしさ」を徹底的に志向してはいない。総監督の庵野秀明は制作中に絶えず「プリヴィズ(アニマティック)どおりに」という指示を再三出していたという7。

 ゴジラはなぜ指標性を持つギニョールという対象を捨て、平面へとその存在を逃げおおせたのか。議論を急げば、そこには震災という経験を共有するという不可能性への試みが起因となることが明らかになるはずだ。そして、虚構的平面によってこそ現実の経験を共有すること――本論はそれを「ゴジラの命題」と呼ぶことにする。この「ゴジラの命題」を解くにあたって、同じく平面の問題系に貫かれた二作品――『この世界の片隅に』、そして『君の名は。』を検討することにしよう。
『この世界の片隅に』、そして『君の名は。』における「平面」 に続く)

◇註
1 批評家ロザリンド・クラウスは哲学者C・S・パースの記号論を参照して、独自の指標論を展開している。パースは記号を類似記号(イコン)、指標記号(インデックス)、一般記号(シンボル)に分類する。指標記号(インデックス)は物理的な結びつきに基づく記号であり、たとえば写真は対象の類像(イコン)でありながら、同時にフィルムの感光という物理的結びつきを持つので指標(インデックス)でもある。
2 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第17回「光と音楽の一体化で、〈身体的な知〉を開拓したい」http://wakusei2nd.com/series/%E7%8C%AA%E5%AD%90%E5%AF%BF%E4%B9%8B%E3%81%AE%E3%80%88%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%82%92%E5%89%8D%E3%81%AB%E9%80%B2%E3%82%81%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%89%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E3%80%8C%E5%85%89%E3%81%A8%E9%9F%B3/
3 美術批評家クレメント・グリーンバーグはモダニズムとして諸芸術の純粋化の過程を見出した。アートはそれぞれの領野で非本質的な要素を排除し、その媒体独自の表現(メディウム・スペシフィティ)を獲得するという見立てである。絵画においては平面性、そして視覚芸術という二点が本質的な要素であるとされた。
4 正確にいえば本編撮影の時点ではすべてのアニマティック(プリヴィズ)制作は終了しておらず、撮影が開始されるなか残存部分のアニマティックを制作していた。
5 映像作家エイゼンシュテインはアニメーションにおける輪郭線を自由自在に伸縮させるキャラクターの特質を「原形質性」と呼んだ。アニメーションはドローイングによってその形状を柔らかく変化させることが可能になる。
6 ロトスコープはフライシャー兄弟によって特許を取得された制作手法である。実写映像をベースにしてアニメーション映像を作り上げていく。
7 庵野秀明編集『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』(2016年)グラウンド・ワークス

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