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テクノロジー・オタク・カリフォルニア

 世界を激変させる方法が、ひとつだけある。
 テクノロジーだ。
 テクノロジーは簡単に国境の壁を越え、既存の法や価値観を無効化し、より自由で便利な社会をつくっていく。
 ……
 僕は未来を信じている。
 将来について不安を抱いたり、将来を悲観したことは一度としてない。
 それは僕がテクノロジーの力を信じているからだ。
                                 ――堀江貴文『ゼロ』

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 1990年代を通じて人気を拡張し続けたライトノベルは、その市場規模において純文学に代表される既存の「文学」を脅かしていた。この小説群はそれまでと決定的に異なる想像力によって描かれていた点に新奇性がある。批評家・東浩紀はかつて自然主義文学が「近代的な自然(大きな物語)」を前提として成立していたのに対し、ライトノベルの台頭はポストモダン化に曝された現代日本の小説が別種の「人工環境≒データベース」に頼り始めたことが背景にあると分析した。
 ライトノベルは二次創作に象徴される作中人物(キャラクター)の自律が特徴であり、これらの小説は物語の媒体というよりもキャラクターの媒体と呼ぶにふさわしいのかもしれない。二次創作やメディアミックスによって、ある作品に登場したキャラクターは一つの作品世界にとどまらず、容易に別の作品世界へと投げ込まれていく。ここで発生しているのは、キャラクターの「自律化と共有財化」だ。個別の「物語よりもキャラクターのほうが基礎的な単位」として扱われ、作品と作品のあいだにはキャラクターのデータベース(人工環境)ともいうべき景色が拡がっている。物語の地位低下とともにキャラクターは自律化し、二次創作や個々の作品といった枠を超出して共有される、横断的=メタ物語的存在となるというわけだ。たとえキャラクターが一つの作品に描かれていても、その自律化によって読者(オタク)は他の作品における同一キャラクターの「生」を想起せざるをえない。
 もう一方にはテクノロジー(情報技術)の発展がもたらした、webというコミュニケーション志向メディアの誕生も昨今のライトノベルに大きく影を落としている。インターネットという双方向性を持つメディアは必然的にTVやラジオといった一方的なメディアとは異なり、コミュニケーションの場――環境を組織する。インターネットにおいてはコミュニケーションの結果として「物語」が生み出されるのであり、その「物語」は作家が生み出した単一の作品世界を持つそれとは異なる、メタ物語的想像力を帯びたものとして生成される(ニコニコ動画に投稿された「MAD」や初音ミクを想像してみればこの傾向はすぐに理解できるはずだ)。

 東は先述したキャラクターのデータベース消費と、webというコミュニケーション志向メディアの台頭という、二つの「人工環境」のなかから生み出されるコンテンツに「ゲーム的リアリズム」を看取した。ライトノベルにおいてキャラクターは単独の作品から自律して作品間を横断するメタ物語的存在と化し、「ひとつの始まりがあってひとつの終わりをもつしかない小説」と接点を持つと必然的に歪みが生じる。単一の物語を超出するように働くキャクターと、一つの物語内で要請される単一の「生」との歪み。東は決してメタ物語的想像力を手放しで称揚したわけではなく、この歪みにこそ着目して内省的に「人工環境の想像力」――ゲーム的リアリズムを唱えたことは重要なポイントだ。
 東浩紀はゲーム的リアリズムがいかにオタク系コンテンツ(ライトノベル)に看取されるかを分析した。しかし、この「人工環境の想像力」が、東が述べるように情報技術の進展およびポストモダンという時代状況の変化が要請したものであるならば、なぜその影響はオタク系コンテンツのみに看取されるのだろうか。
 問いを先取りするように東は『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』のなかで、いみじくも予見的に語っている。「今後のポストモダン化の進展のなかでライトノベル的手法が、オタクというサブカルチャーの集団からむしろ解放されていくかもしれない」
 この批評家はその卓見のうちに一つだけ見落としていたことがある――それは人工環境の想像力が「オタク系コンテンツ」という枠を超えて機能する事態が大洋の果てですでに進行していたということを。

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経済体制・法制度・政府といった社会を構成する制度は人間が生み出したひとつの技術であるにすぎない。それらは完全な自然状態から発生したものではない以上、一つの人工物(テクノロジー)とみなすほかない。社会制度や体制を人間による構築物とみなすとき、その思想を突き詰めた先に見えてくるのはそれら人工構築物=プログラムの操作可能性という地平だ。
 webがもたらした情報社会という環境は、社会制度をテクノロジーでもって操作/更新することを現実に可能にした。情報技術(テクノロジー)の革新的成長は、社会という「人工環境」をテクノロジーによって永久的に改良し続ける思想を胚胎する。情報技術の本質には拡張可能性および双方向性があり、その加速度的進化はムーアの法則によってきわめて楽観的かつ啓発的に保証されている。この思想は主にカリフォルニア――情報技術の集積によって制度更新(イノベーション)を頻発した地域で強く信奉されることとなる(この国に根づくプラグマティズムの伝統もまた、この思想/運動を邁進させた思想的背景だろう)。日本における「人工環境の想像力」がライトノベルにおけるゲーム的リアリズムだとするなら、合衆国における「人工環境の想像力」の別名はカリフォルニア・イデオロギーと呼ばれる。
 東浩紀がweb(コミュニケーション志向メディア)によってもたらされた想像力を「オタク系コンテンツ」という領野にのみ見出したのだとしたら、かの合衆国では「制度」においてその想像力は駆使されたといっていい。このもう一つの「人工環境の想像力」の震源にはあるヴィジョナリーな思想家――アラン・ケイが生み出した「ダイナブック」構想がある。

 アラン・ケイは軍事用に開発され、ただの計算機でしかなかった情報技術(コンピュータ)の概念を一変させた。彼の構想したコンピュータ――「ダイナブック」はケイの表現を借りるならば「メタ・メディア」という特質によって、それまでのいかなるメディアとも異なる機能を備えていた。メタ・メディアとは、あらゆるメディア(絵画、写真、計算機、手紙、音楽…)の機能を持ち、それらを拡張していくことのできる存在を指す。この「メタ・メディア」というテクノロジーにおいて重要なことは、あらゆる機能(ソフト)を次々と追加できるという永久的拡張可能性と、そのスケーラビリティがユーザーによって開発されていくという双方向性である。ケイはただのツールでしかなかったコンピュータを、プログラムを自生し、ユーザー間で更新していくという「メディアにとってのメディア(人工環境)」として再定義したといえるだろう。
  「ダイナブック」構想においてコンピュータはユーザーたちが機能を追加することができ、永久に拡張し続けるという場――環境であった。ケイの構想はスティーブ・ジョブズをはじめシリコンバレーで継承され、人工環境の想像力の震源地たる同地では新たなテクノロジーが今なお量産される。いまや情報技術はもはやソフトウェアだけの水準になく、自動運転車やIoTによるセンサリング社会が近づきつつある現代においてはハードウェアをもその手中に収め、一つの現実的「環境」とさえなりつつあるのだ。

 人工環境の想像力は合衆国においては、日本で東が論じたような「オタク系コンテンツ」ではなく「制度」そのものに対して働いてきたといえるだろう。では、社会制度そのものをテクノロジーで変革していくこの想像力は物語を必要としないのだろうか。
 答えは否、である。カリフォルニアに位置し、その土地近接性からデジタル撮影/編集において情報技術の進展と密接な関係性を持つハリウッドは、このもう一つの「人工環境の想像力」にふさわしい物語――『アバター』(2009年)を産み落とすことになる。

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バーチャル・カメラ・システム、モーションキャプチャ……最先端の映像テクノロジーを駆使した『アバター』は全編を3Dカメラによって撮影したことで観客に文字通り「人工環境」としての映像世界を提示することに成功した。同作にはカリフォルニアを中心に拡張し続けて来たテクノロジーの数々が集積している。なかでも特筆すべき技術革新だったのは「サイマルカム」の導入だ。サイマルカムでは実写カメラにCG画像を送ることで即時的に合成を行い、撮影を行いながら同時にCGで描かれたキャラクターがモニターに現れる。つまり生身の俳優とCGキャラクターがその場をともにして演技したかのようなショットを撮影することができるのである。わたしたちは『アバター』で新たな視覚体験を経験することになった。情報技術のとどまることを知らない発展の先に、カリフォルニアの「人工環境の想像力」が到達した一つの地点といっていいだろう。

 しかし、『アバター』はその作品設定に<1>で述べた東のいうゲーム的リアリズムが駆動していることを看過してはならない。同作には二つの「人工環境の想像力」――ゲーム的リアリズムとカリフォルニア・イデオロギーが相克しているのだ。
 あらすじを簡単に振り返っておこう。惑星パンドラには青く長大な身体を特徴とする原住民ナヴィ族が自然と共存しながら暮らしていた。彼らの生活の拠点である「ホームツリー」には「アンオブタニウム」という貴重な鉱石が眠っており、人類はエネルギー問題を解決しうるこの鉱石を狙っている。元海兵隊員のジェイクは指令によってナヴィ族の身体を模した「アバター」に意識を接続し、ナヴィ族と交流しながら説得工作を図る――。
同作において主人公のジェイクは意識を接続することで、まさしく「アバター」に憑依するわけであるが、この作品がほとんどCGによる加工を施されたデジタル映像で構成されているのと同じように、主人公自体がその精神をナヴィという仮構のうちに預けている。惑星世界も人工的被造物であれば、主人公であるジェイク自身(アバター)も人工的表象なのだ。
 このジェイクと「アバター」の関係性にわたしたちはゲームにおけるプレイヤーとキャラクターの関係性を想起せざるをえない。「アバター」が死んだとしてもジェイク自身は死ぬわけではない。ゲームをプレイするかのようにジェイクは「アバター」を操作し、CG技術によって造られた虚構世界を動き回っているように映る。これは自然主義的な「ひとつの始まりがあってひとつの終わりをもつしかない小説」とは全く異なる想像力であることは論を俟たない。「アバター」が死んでもジェイクの物語は終わらず、「アバター」の躍動の始点はジェイクにとっての生のはじまりではない。
 「生」の複数性を備えた『アバター』は一見すると、先述したように「ゲーム的リアリズム」をその結構とする作品のようにも思える。しかし、ここには決定的な差異があることをわたしたちは看過してはならない。東がゲーム的リアリズムの本質として見出していたのは、「もはや自分がキャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間でありたいと願ってしまう」実存的なジレンマである(この点で東は大塚英志の問いを最も強く継承した批評家の一人だ)。すなわち「生」の複数性のうちに、一つの「生」を引き受けることへの想像力を東はゲーム的リアリズムと呼んだのだ。この「実存」を巡って日本と合衆国、似て非なる二つの「人工環境の想像力」は完全に決裂する。

 『アバター』終盤のシークエンスでジェイクはナヴィ族の側に立ち、人類と戦うことになる。戦いはナヴィ族の勝利に終わり、人類は地球へと帰ることになるのだが、ここでジェイクは惑星パンドラに残る決断をする。もし、ジェイクが人間でありたいと願うならば「アバター」を捨て、一つの身体をもって一つの物語を引き受けなくてはならない。しかし、ジェイクは「生」の複数性を手放そうとせず、「アバター」という仮構の生を選択してパンドラで生きていこうとするのだ。
 『アバター』において看取されるのは人工環境への実存的懐疑の不在である。カリフォルニア・イデオロギーが啓発的で楽天的であるのと同様に、『アバター』はそのメタ物語的想像力を手放しで称揚している。「制度」を革新するこの啓発的想像力は、小説といった「虚構」に宿る内省的想像力を駆逐するのだろうか。東浩紀がかつて1995年以降のパラダイムを「現実の時代」と呼んだことを軽視することはできない。

◆参考文献
東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』講談社、2007年
池田純一著『デザインするテクノロジー――情報加速社会が挑発する創造性』青土社、2012年
レフ・マノヴィッチ著、大山真司訳「カルチュラル・ソフトウェアの発明」『アフター・テレヴィジョン・スタディーズ』所収、せりか書房、2014年
「Cinefex」2010年4月号、ボーンデジタル

文字数:5390

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