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批評と幽霊

 奇妙な妄念に憑かれている。かつての祖母の葬式の追想。親族が一同に会して、その死を悼んでいる。両親も数年ぶりに会う従姉も、みな顔を伏せたまま押し黙っている。幼い頃だったので事情をのみ込めず、顔を上げて周囲を窺っていた。視線はやがて深く刻まれた皺とともに微笑む顔へと吸い込まれていく。棺の上に配された写真は静かにわたしを見つめ返している。もし、そのとき祖母の遺影が動いたとしたら――。

   

 死はつねに予兆としてわたしたちの前に現れる。神を信じていないのなら、死の先に世界は存在しない。死はまったく不可逆的であるから、死の渦中といった事態はありえず、それを語る言葉を誰も持ち合わせていない。死は自らにとって唯一のものであり、わたしたちは誰かの死を死ぬことはできない。当然のことだ。

 アンディ・ウォーホルは、コマーシャル・アーティストから純粋な芸術家への転身となる個展を1962年7月に開いている。睡眠薬の多量服用によるマリリン・モンローの自殺が報じられたのは、8月――個展の直後のことだった。ウォーホルは死報を受け、モンローを題材とした一連の「マリリン」シリーズを制作し始めている。その端緒として同年に制作された『マリリン・ディプティック』は、ウォーホルの代表作として人口に膾炙した傑作の一つだ。
 美学者・青山昌文は『マリリン・ディプティック』に、ウォーホルの作家的主題たる死の影が色濃く反映されていることを強調する。通説上では「マリリン」の連作を皮切りに、ウォーホルは「死と惨禍(death and disaster)」シリーズと呼ばれる作品群を発表し始めていく。自動車事故、自殺の現場や死刑執行用の電気椅子等の写真を使用したそれらの作品群は、作家の発言を引くまでもなく死を主題として制作されたように思える。

Marilyn Diptych 1962 Andy Warhol 1928-1987 Purchased 1980 http://www.tate.org.uk/art/work/T03093
Marilyn Diptych 1962 Andy Warhol 1928-1987 Purchased 1980 http://www.tate.org.uk/art/work/T03093

 しかし、マリリンの自殺直後という制作時期や、後の「死と惨禍」シリーズの起点といった背景はすべて『マリリン・ディプティック』という作品外の要素でしかない。いわばそれらの通説は視る者が絵に投影する「物語」に過ぎず、『マリリン・ディプティック』はそのような言説の規定する価値から絶えず剰余しているのではないか。
 ウォーホルはシルクスクリリーンという技法によって作品を量産した作家だ。この技法は作家独自のオリジナルではなく、ウォーホルは「マリリン」シリーズの制作直前からこの技法を用い始めている。シルクスクリーンとは、まず引き伸ばした写真を感光乳剤を塗ったシルクに焼き付ける。それをカンヴァスに当てながらインクを刷ることで、感光していない部分だけに着色され、写真のイメージを転写するという工程を踏んで制作された。『マリリン・ディプティック』もまた、映画広告に使用されたマリリンの肖像写真を50回転写することで成立しており、それによる複数性が同作における死のイメージからの逸脱を誘引している。

 シルクスクリーンは完全に同一のイメージを複製する技法ではないことに着目したい。批評家ハル・フォスターがつとに指摘しているように、転写された写真図像は絶えず偶発的な「丁合のズレ、イメージに入った筋状のムラ」*1によって完全なるコピーにならず、複数化している。ウォーホルは偶発性を意図的に取り込むことによって、同一性を欠いたマリリンの図像群を生み出したというわけだ。
 批評家ロラン・バルトはかつて、写真のエイドス(本性)は死であると論じた*2。写真は映る人物を瞬間において客体化し、切断された「完全なるイメージ」をその光学原理のなかに保存する。生から切断されたイメージである写真はまた、静止性と唯一性によって死の連想に適している。この点で棺に納められた亡骸以上に、遺影は死という意味を一義的に仮託されたイメージといっていい(バルトは一義的なイメージとしてポルノ写真を挙げている。そう、遺影とポルノ写真は実によく似ている)。
 しかし、先述のように計50回に渡って転写された「マリリン」は、一つ一つの「ムラ」も相俟って複数性を獲得している。遺影が死のイメージたりえる条件が、図像が一つしかないこと(唯一性)と動かないこと(静止性)であるなら、『マリリン・ディプティック』はそのイメージの差異と反復において死の唯一性を克服しているように思える。

 同時に『マリリン・ディプティック』は死の静止性をも超越している。50人の「マリリン」はその総体を一つの図像として認識することもできるが、わたしたちの視覚は否応なく一つ一つの「マリリン」へと反応していく。必然的に『マリリン・ディプティック』と相対した鑑賞者の目は、それぞれの動線を獲得する。微差を含む連続するイメージの表象として同作を捉えるとき、ウォーホルの作歴にまつわる通説は転覆を免れない。つまるところ同作は、この作家における「死と惨禍」シリーズの始点なのではない。『マリリン・ディプティック』はモンローの死の翌年からはじまって『スクリーン・テスト』『エンパイア』へといたる、ウォーホルの映画制作に通じる作品なのではないか。%e7%84%a1%e9%a1%8ckk
 ウォーホルによって制作された映画は、通常わたしたちが想像するような「劇映画」でなく、被写体をただ一つの画角で捉え続けるだけの映像である。フィルムという支持体を通じて記録された映像は同一の被写体を捉えつつも、当然ながら採光のゆらぎやノイズが――シルクスクリーンにおける「ムラ」のように――画面に入り込む。
 また、フィルムは分解すれば一秒間に順列された24のコマを射影しているにすぎず(ウォーホルは時間を引き延ばすように毎秒16コマで撮影しているが)、一つ一つのコマは静止した写真である。映画はフィルムの運動によって生のイメージを観る者に幻視させているにすぎない。そして、このフィルムにおけるコマの順列に、『マリリン・ディプティック』における複数化した「マリリン」のイメージが近似する。鑑賞者の視線移動によって獲得される時間性と運動性が、同作に映像のような生のイメージを付与しているのではないか。つまるところ「マリリン」は絵画のうちに静止しつつも、生きているように見える――。

   

 写真がそれ単体では本質的に死のイメージであるなら、そのことを映像(moving picture)のうちに指し示してみせた作品が存在する。『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年、北野武監督)である。
 同作は聾唖の青年がサーフィンを通じてひと夏に経験した恋愛や成長、そして、死を描いている。終幕において青年がサーフィンの練習に明け暮れる海に恋人がやってくるが、青年の姿はなく、浜辺にはサーフボードだけが残されていた。死を暗示するシークエンスでありながらも、同作は直接的に青年の死を描くことなく画面は暗転する。タイトルクレジットが閉幕後に映し出された後、青年とあの夏の記憶を象徴するような写真――その夏に出会った恋人、仲間、周囲の人々と青年が映っている――が画面に次々と挿入されていく。換言すれば、それまで映像という運動のもとに視てきた夏の情景が、静止画となって立ち現れてくるのである。
 これは映画(フィルム)とは分解してしまえば、コマという静止したイメージ群でしかないことを明示するエンドロールといえるだろう。青年の死によって映画という運動が終わり、静止した写真によってその死を表現する『あの夏、いちばん静かな海。』は、その結構のうちに鋭利なメディア批評を含んでいる。

 しかし、見方を変えれば同作は映画の常識的本質を表現するに留まっているともいえる。コマという写真における静止性を示すことで死を象徴することは実はたやすい。そうではなく本来、生の運動たる映像(運動)を通じて死を表現するといった非映画的事態にこそわたしたちは刮目するべきではないのか。それはウォーホルによる『マリリン・ディプティック』が、死のイメージたる写真を取り込みながらも生を獲得したのとちょうど反転している。わたしたちはここで、生きながらにして死んでいる――幽霊の表象を『ダゲレオタイプの女』(2016年、黒沢清監督)に看取することで、死への想像力にまた一歩近づくことになる。

 「フランス映画」であり、黒沢清による最新作でもある『ダゲレオタイプの女』は、その作題から明らかなように写真を主要なモチーフとして扱っている(ダゲレオタイプは写真史の最初期にその名を刻む装置だ)。
 物語を概観しよう。写真家ステファンは現代でもおよそ170年前の発明であるダゲレオタイプを使った撮影に頑迷にこだわり続けている。撮影助手として主人公たるジャンはステファンの家に通いつめるなか、ステファンの娘であり被写体(モデル)であるマリーと恋に落ちていく。やがて不慮の事故でマリーは階段から転落してしまう。マリーの死を思わせる同シークエンスから、ジャンは生きているのか死んでいるのか分からない恋人マリーと暮らしていく――。

 注目したいのは同作のサスペンスを駆動する存在であり、生死の境界線でゆらぐマリー、ではない。ステファンが幻視する、マリーの前にかつて被写体としていた亡妻ドゥーニーズの表象だ。
作品中盤でステファンは長大な時間を要するダゲレオタイプの撮影のために、妻と娘双方に身体を固定化させるべく筋弛緩剤を投与していたことが明らかになる。銀板に像を直接射影するというダゲレオタイプの撮影は、長大な露光時間を必要とし、モデルの身体を長らく拘束する必要があるからだ(作中では磔のような拘束機具が印象的に描かれる)。写真が瞬間を切り取る死のメディアだというなら、その点でダゲレオタイプは被写体を長時間に渡って静止させ、死の擬態を強要する装置かもしれない。ステファンによる過酷な撮影を苦にしたのかドゥーニーズは自死した後、亡霊のようにステファンの前に現れる。撮影時に着ていた青いドレスに身を纏ったドゥーニーズは終盤ステファンに襲いかかることになるが、そのシークエンスを仔細に検討してみたい。

 裏庭に設置された植物園に死んだはずのドゥーニーズが忽然と現れる。その姿はダゲレオタイプでの撮影を思わせるように硬直している。そして作中でマリーに強要した――そして生前ドゥーニーズにも取らせていただろうと思われる、両手を掲げて強張った姿勢のまま、ドゥーニーズは飛び上がり、水平に浮遊移動してステファンに近づいていく。
 このドゥーニーズの運動はまったく映画的でない効果を含んでいる。浮遊したまま移動するドゥーニーズの身体そのものは完全に「静止」しているからである。死のメディアたる写真(静止画)が連続射影によって、映像という生たる運動を獲得するのに対し、ドゥーニーズは移動しつつもまったく「生きて」はいない。ドゥーニーズ自体はいかなる運動も示さない。その身体は写真によって生から切断された静止したイメージであり、浮遊するドゥーニーズの表象は「死の運動」と呼ぶにふさわしい。

 静止性をともなう「死の運動」は黒沢清がこれまで描いてきた、いくつかの幽霊に通底するものでもある。『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)における「フィロソフィカル・ゾンビ」、『叫』(2007年)における葉月里緒奈扮する亡霊の表象はすべて運動しているにも関わらず、それらが生のない者であることをその硬直し静止したイメージをもって強烈に印象づけてきたではないか。
 これら幽霊の表象は、例を挙げるならばジョージ・A・ロメロの描く「ゾンビ」とは一線を画している。ゾンビはその運動によって生を獲得した死体(living dead)であるのに対して、黒沢の捉える幽霊は静止性という死の裡に生きているのだ。

 辿ってきた理路をふりかえりみれば、生死の境界という間仕切りはその姿を消していく。ウォーホルの『マリリン・ディプティック』が静止のうちに生を幻視させるのなら、『ダゲレオタイプの女』におけるドゥーニーズ――黒沢清的幽霊は生の運動をもって死を表象する。幽霊とは生きたように死に、死んだように生きるという、決定不能性を抱える眩惑ではないのか。

   

 死はつねに予兆としてしか想像することができない。しかし、ここまでみてきたように静止した絵画(写真)が複数性によって死を超越する一方で、生たる運動を表象しながらも死を意味する映像がある。生死の狭間で立ち上がるイメージは、生者たるわたしたちとは異なるものによる死の表象である。それは決して不可視の予兆(monstrum)などではなく、しかし実体をともなった怪物(monster)でもない、「幽霊」という曖昧な相貌をともなって今、わたしの傍に立っている――。

◆注記
1 ハル・フォスター著、中野勉訳『第一ポップ時代――ハミルトン、リクテンスタイン、ウォーホール、リヒター、ルシェー、あるいはポップアートをめぐる五つのイメージ』(2014年)河出書房新社
2 ロラン・バルト著、花輪光訳『明るい部屋――写真についての覚書』(1997年)みすず書房

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