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再読『狂った一頁』

 批評文の条件とはあるテキストが自らを批評と規定していることではない。批評の領野は絶えずそのような「批評文」という括りから漏出している。なぜなら「批評というジャンルに積極的な定義は無」く、「それは哲学でもなく、エッセイでもなく、レビューでもなく、自己表現でもなく、価値判断でもなく……何かでは<ない>ものとして、否定的=消極的にしか定義されえない」1からだ。
 では、批評を批評たらしめているものとは何か。ここで批評の条件たるすべてを述べ尽くすことはできない。だが、少なくともその一つは対象への常識的理解を覆すことにあるのではないか。この条件をクリアするものを批評と呼ぶとき、批評はもはや批評文という形式に囚われない。ある作品が何がしかの対象に「批評的」に作動する、といった表現が可能になる。わたしたちは批評という棚指定に充足することなく、ある完結したテクストや映像が「批評的」に機能してしまうことにこそ刮目すべきではないのか。
 前置きが長くなった。わたしたちはここで小説でも「なく」、戯曲でもあるいは映画でも「ない」テキスト――川端康成による『狂った一頁』シナリオを再読することでその批評的価値を認めることになるだろう。そのときこの「批評文」はこの国のテクストにおいて発生している今日的事象を逆照射し、わたしたちはある「連続する問題」が歴史から迫り出してくる様を目撃する。

   

 あらゆる表現が時代に制約を受けるならば、20世紀前半において「映像」の誕生がもたらしたインパクトは決して看過することはできない。客観的光学世界において事物を捉えるカメラ・アイはわたしたちの知覚を変容させる。アンドレ・ジッドはカメラや蓄音機の勃興を眼前にして、早々に小説が担うべき役割の転換を悟った。「近年写真がある種の正確さにたいする関心から絵画を解放したと同じように、近き将来において、蓄音機が、今日の写実作家が得意にしている克明な会話などを小説から一掃してしまう日がくるに違いない。外部的な出来事、事件、外傷などは、映画の領分。小説はそれらを映画にまかすべきだ」2
 1899年に生まれた川端康成もまた、このようなテクノロジーがもたらす変容と共時的に活動した作家だった。映像がもたらす客観的表象に対して、小説における表現の独自性とは何なのか――川端を含む新感覚派は新たな「描写」でその時代的主題に即応していったように見える。川端はカメラによる対象の再現前とは異なる形での「描写」を生み出していった。たとえば、わたしたちは川端の以下の表現を映像(実写)的に思い浮かべることはほとんど不可能である。


頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。(『模型』)

夕方野を走って行く夕立の後足のように、私の視野の中に幻が何本も光っていました。(『青い海、黒い海』)

雄松の芽は鉛筆だった。槙の芽は蜻蛉の羽根のように飛んだ。(『春景色』)

 

  『模型』を例にとれば、「頭が澄んだ水のようになってしまったと私は感じた」という文であるなら、わたしたちはそのテクストをかろうじて理解することができる。『春景色』では「雄松の芽はまるで鉛筆のようだったと私は思った」という表現ならば、その情景を各々連想することができるだろう。しかし川端のこれらの表現では「~のように」という比喩や、「~と〇〇は思った」という記述が省略されており、字義通りに読んでしまうとそのテクストは情景を描き出すことがない。
 新感覚派はこのようなテクストゆえの表現可能性につとめて意識的だった。これら「奇怪な擬人化(および、その対となる擬物化)を誇示する喩法をはじめ、事物の矢継ぎ早な列挙、列挙における非連続的な飛躍、描写対象にまといつく遠近法の歪みや交錯、心理の断片化と唐突な内言」3とはまさしくテクストの領分というほかない。映像では汲み尽くすことのできない表現への到達。小説はカメラ・アイの誕生によって逆説的に自己規定を明確にしていったのではないか。

 一方で川端は先述したように活動した時代ゆえに映像との接近も含んでいる作家でもある。出世作『伊豆の踊子』を発表した直後、川端は新感覚派映画連盟の仲間とともに映画『狂った一頁』のシナリオ作成に取りかかる(その年――1926年は映画がパート・トーキー化し、ハリウッドがその勢力を拡大しようとしていた時期でもある)。小説で独自の表現を模索するなか、同時期の映画制作において川端は一体何を試みようとしていたのか。
  『狂った一頁』は女形の俳優として活躍していた衣笠貞之助がその監督を務め、横光利一が音頭を取って新感覚派映画連盟でそのシナリオを作成する。クレジットには川端康成のみが記載されているが、実態は数名による合作であるようだ。ある男が精神に異常をきたした妻を見守るために、家族に隠しつつ妻が入院している精神病院に小間使いとして働いている。舞台はほとんどこの精神病院で進行していく。娘が結婚の報告を母にするために病院を訪れる。娘の結婚のために良くないと考えた男は妻を病院から逃がさせようとするが、錯乱した男は病院の医師や狂人を殺す幻想を見るというのが作品の大筋である。上映時間は完全な状態でも70分ほどと決して長くはない。たびたび挿入される幻想のシークエンスを演出するためのオーバーラップの使用などによって、ドイツ表現主義の流れを汲んだわが国初の「前衛映画」であるとの呼び声高い作品だ。
 では川端は本作のシナリオ――小説でも映画でも「ない」テクストに一体どのような筆跡を残したのか。まず『狂った一頁』の冒頭のシークエンスを検討してみよう。このシークエンスでは主人公たる男が勤める精神病院の様子が素早いカット割で描かれていく。なかでも、ほとんど牢獄に近い病室で踊り狂う女を捉えたシークエンスは圧巻である。女の踊りと、病院の外に降りしきる雨、女の見ている幻想とそこに鳴り響く楽器の映像、多重露光で浮かび上がる音符型の稲妻――ショットは次から次へと高速でモンタージュされていく。
 ここで注目すべきは踊り狂う女を客観的に捉えたショットと、降りしきる雨を背景とした楽器演奏の映像のオーバーラップや女が幻視している舞台と思しきショットが並置されているということだ。つまり「部屋に楽器が鳴り響いている」もしくは「稲妻が楽音として聞こえる」と女が思っているという心理内描写がそのまま映像を通じて表象されている。女の幻想(主観)と、幻想を抱きながら踊る女の映像(客観)とが階層が分かたれることなく、等しく接合されているのである。一見違和感なく見過ごしてしまうこのシークエンスは、ショットごとに精査してみれば実のところほとんど縫合されていない。これらのシークエンスは「雷雨の音が楽音のように聴こえると女は思った」という場面を、「のように」「と女は思った」を排して映像化しているというわけだ。これは先述した比喩を排することで独自の表現を手に入れた新感覚派の描写と似てはいないか。

 しかし、この類似は至極当然のことでもある。映像とはつまるところ客観的表象がそのメディウム・スペシフィティなのであり、あらゆる映像表現はたえず「三人称」的である。映像には「~のように思った」というレイヤー(≒一人称)が原則的には存在しないのだから、女の幻想はその他の客観(≒三人称)ショットと等置されるほかない。
 ここに一つの問いが立ち上がる。新感覚派が創出した「描写」とは小説においてこそ成立する特異で純粋な表現ではなかったのか。それは映像との差別化という要請から生成されたものではないのだろうか。川端が関与した映像作品において新感覚派の文体が獲得したのと同水準の表現が成立しているのであれば、その見立ては破綻を免れない。
 では問いにより正確に答えるために川端のシナリオに立ち入って検討してみよう。『狂った一頁』で川端は女が幻視の裡に踊り狂う冒頭のシークエンスをどのように表現しているのか。

〇牢格子の中で、踊子が、踊り狂つてゐる。

〇外の雨。

〇踊子。

〇外の雨に稲妻形の音符がダブル。

〇踊子。

〇雨の中に、太鼓、その他いろんな楽器が鳴る。

〇踊子、踊り疲れてばつたり倒れる。

〇足指から血が出ている。

〇雨の中の楽器。

〇倒れた踊子、耳を澄まし、起上つてまた踊る。

ショットの分節を意図して記されたと思われる〇印毎によって、女を客観的に捉えるショット(≒三人称)と女の幻想(≒一人称)が並置されている。シナリオでも「のように」や「と女は思った」という記述は省略されており、人称転換点は行間に消失していることが分かる。これ以外の箇所でも『狂った一頁』は唐突に個人の妄想を描く場面が挿入されるが、それがあらかじめ幻想であることは予告されず、さも通常の客観的な語りと地続きであるかのように表象される。映像はつまるところフィルムに焼付いた光学現象でしかないので「のように思った」という心理内の思索や幻視も客観的に表象するほかない。シナリオでも「と男は思った」などの記述を省略している川端はそのことを体感的に理解していたのではないか。

  『狂った一頁』シナリオにおける川端の身振りを振り返るとき、その小説での文体は逆光で照らし出されることになる。川端の極端な擬人化や直喩という「描写」はつまるところ主観と客観をめぐる「人称」の問題に収斂する。そして、この「人称」の問題は映像がもたらすインパクトと密接な関係性があったのだ。そして、新感覚派の生みだした描写が映像の出現というインパクトを眼前にした「人称」移動の表現であるとするならば、いま現代の作家たちが憑りつかれたように試みている人称移動小説とはどのような相貌をともなってわたしたちの前に現れるだろうか。三人称と一人称の間を往還する青木淳悟、岡田利規。「わたし」が増殖し続ける山下澄人。
 小説でも映画でもない批評的テクスト――『狂った一頁』シナリオに現代的事象はすでに予告されていたのかもしれない。移人称小説は現代特有の傾向ではなく、前世紀から続く「映像以後」の世界を捉えるための試みの一つと言えるのではないか。つまるところカメラ・アイの誕生からわたしたちはずっと同じパラダイムの中にいる可能性がある。

   

  『狂った一頁』結末部において男はある幻想に囚われる。妻を逃すこともできなかった男は精神病院の患者たちに次々と能面を被せていく(ここでもそのシークエンスが客観的ショットなのか、男の幻想なのかは明らかにされない)。患者たちは個々の表情を隠蔽され、画面には等しく能面の顔貌が並んでいく。男も最後には能面を自ら被ることで、画面に映る誰もが増殖された「わたし」へと変貌する。問題は、やはり連続している。

注記

1横山宏介「批評をポジティブに捉えるための5(+n)冊」『ヱクリヲvol.4』所収、2016年
2アンドレ・ジッド、山内義雄訳『贋金つかい』新潮社、1969年
3渡部直己『小説技術史』新潮社、2015年

文字数:4507

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