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(スノー化する社会)

 私たちはその瞬間を永遠にとどめ置くために写真を撮る。旅先の風景、皆で集まって撮る記念写真、友人同士や親子で一緒に画角に収まるポートレイト。写真は現実を保存する。このメディアが生まれてからというもの、人は刻一刻と変わりゆく自分の肖像を保存することに夢中だった。歴史を振り返りみれば肖像画は長いあいだ特権的な階級によって専有された絵画にすぎなかった。やがて眼球が持つメカニズムを応用したレンズを持ち、客観的光学世界を形成する写真は絵画を駆逐する。人々は今なお自分の姿に執着を持ち続け、渋谷へ繰り出してみれば自撮り――セルフ・ポートレイトをスマホで撮ることに夢中の女子高生をそこかしこに発見することができる(恐るべき彼女たちは前腕を等倍したくらいの棒をよく使用する)。

 しかし、セルフィーに夢中の女子高生たちはどうやら写真が担保するリアリズムから関心を失いつつあるようだ。彼女たちが今、自撮りにこぞって使用するアプリ――「スノー(SNOW)」において客観性や再現性は必ずしも優先されない。被写体の姿をありのままに映し出すことを拒絶する肖像写真――世界で2200万DLを記録する、この驚異的アプリケーションはポートレイトの歴史から逸脱しているように思える。スノーは近年加速度的進化を遂げている生体認証システムによって生み出されたアプリであり、起動するとすぐに人の顔を探し出す。カメラ・アイに顔が認識されると、猫や犬、うさぎといった動物への擬態や、一緒に画角に映った人物と顔を入れ替えるといったギミックを施した写真を撮影することができる。シワが目立たないように明度は自動的に調節され、被写体の黒目を拡大した肖像画が当然のように出力される。
 写真に対する操作そのものは広告写真や、かつて流行したプリクラ等にも看取することができるが、特筆すべきスノ―の新奇性はその「平面性」にこそある。例えば、うさぎの擬態加工は被写体の肖像写真に対して、あたかも書割りのような耳や鼻が付帯される(図1参照)。写真に施された平面的加工はいかにも虚飾めいており、その浮彫りの作為性は「現実らしさ」を頭から否定している。現実の再現たる写真は光学的表象ゆえに奥行が感じられるものだが、スノーの加工はその空間模倣を拒否した階層的二次元性が特徴だ。この平面性は、顔を漫画風に変換する加工においてその極に達するといえる(図2参照)。kaka

 射程を拡大してみれば、スノーの平面性にルネサンス以降の科学・合理的精神(それをモダニズムと呼ぶ人もいるだろう)からの逆行を看取することも可能かもしれない。カメラ・アイの発明に先行してルネサンス期に勃興した科学的精神は自然(現実)を精確に写し取る欲望に駆られていた。客観性を追求する過程のなかで写真は誕生し、現代にいたるまでその進歩は続いているように思える。スノーの技術的土台もまた基本的にはカメラ・アイによって捉えられた(疑似)空間の現前に依拠しているわけだが、それではなぜこの自撮りアプリはその合理的空間表象を裏切る平面的加工をその内に抱え込んでいるのだろうか。
 批評家のジョナサン・クレーリーは常識的前提を転覆し、視覚的近代は決して単線的進化を遂げておらず、その展開には二つのベクトルが存在することを『観察者の系譜』において説得的に指摘している。クレーリーはカメラ・オブスキュラに代表される客観(合理)的視覚モデルに対抗する、もう一つの視覚モデルを歴史上に措定したのだ。ステレオ・スコープに仮託されるその視覚モデルは、カメラ・アイが保証する光学世界とは異なり、「あらゆる外界からの指示対象から切り離された自律的な知覚をも包含するような視覚」を私たちにもたらした。換言すればカメラ/眼球の前にある自然(現実)を模倣することを放棄した、抽象的視覚といえるだろう。たとえば画家による主観的風景を表出した印象派絵画はまさしく時を同じくして生起した、この新たな視覚モデルの一つに位置づけられる。私たちの生きる現代においては、自然(現実)の再現前ではない視覚の代表例としてCGをすぐさま想起することが可能だろう。

 ことほど左様に、現実をそのまま写し取ることを志向したカメラ・オブスキュラに代表される視覚モデルは、他方ステレオ・スコープに代表される現実らしさを欠いた視覚モデルとの緊張関係を絶えず強いられてきた。現実の客観的模写と、人の主観的な抽象世界の表出の双方が視覚のモダニズムの裡に存在するのである。それでは、スノー――この写真に似た「何か」を出力するアプリケーションはどのように位置づけることができるだろうか。客観的視覚モデルの土台=カメラ・アイのなかに、スノーはまったく自律的な「平面」を挿入しており、客観的視覚モデルと抽象的視覚モデルが同一写真上に存在する。この視覚的近代の二つのベクトル――主観的平面と、客観的空間の衝突がこのアプリケーションが出力するセルフ・ポートレイトの特徴なのだ。それはあたかも近代的真理の追求ではなく相対的価値体系を認めるに至ったポストモダン思想とも近似する傾向だ。さすれば昨年10月に公開されたばかりのこのアプリは私たちが生きる現代の想像力の写し絵といえようか。
 しかし、ここで快刀乱麻に事象を分析してしまう批評が孕む暴力性から私たちは距離を取らなければならない。忌避され、機能しない批評はつねに歴史的に思考することを怠っている。安易に「スノー化する社会」などといった、個別具体のイシューから抽象的社会反映論への跳躍をひとまず禁じてみる必要がありそうだ。私たちはこれから凡そ130年前まで歴史を遡行することで、スノーの位置する視覚的現代の実相を検討していくことになる。

   

 写真の誕生は1839年に遡るが、その技術が私たちの国において知られるようになったのは江戸末期から明治時代にかけてである。絵画にみられる当時の日本人の視覚モデルは、ジャポニスムとして西欧でもてはされたように実に「平面的」であった。正確にいえば線遠近法はこの国の絵画においても導入されてはいたものの、緻密さに欠け、こと人体/顔貌描写においては古くからの大和絵と同じ水準で描かれており立体感を持ちえなかった。やがて客観的光学世界を形成する写真が伝来することで、この国における肖像画は二つの視覚モデルの混淆をその内に抱え込むようになっていく。
 横山松三郎は日本写真史の黎明期にその名を刻む、パイオニア的写真師だった。この男は伝統的平面性と、輸入された客観的空間性が混じり合いはじめたこの国において、現代人の目からみれば奇怪としかいえない絵/写真を発表し始める。写真油絵の誕生だ(図3参照)。%e7%84%a1333
 写真油絵とは何か。当時の技術書に記された製法によると、写真油絵をつくるにはまず洗ったガラス板に和紙と、転写したい写真を蝋と水を使って張り合わせる。乾燥させたのちに写真の印画紙を乳剤だけを残すように削り取り、油で保護定着させる。そして、透明になったそれを裏から油絵具で着色することによって写真油絵は制作される。この制作工程が明らかにしているのは、写真油絵は客観的光学世界の道理に適った基盤を持ちながら、その上に油絵具によって「平面」的に糊塗されていた、ということである。ここに私たちが看取するのは土台となる客観的(疑似)空間と、自律的平面の混淆という、きわめてスノー的事態だ。写真を基とした「現実らしさ」の裡に、油絵具による抽象表現が塗り重ねられている。クレーリーが措定した視覚的近代化のモデルの二つのベクトルは維新期の日本において、すでに混淆された表現を生み出すに至っていた。写真油絵とスノーはその130年ほどの時の懸隔を超え、直線で結ぶことのできる表現なのである。

 では、抽象的視覚モデルと客観的視覚モデルの混淆が決して私たちがいま生きている現代特有の事象ではないのなら、もはや「スノー化する社会」などといった、このアプリに時代の傾向を仮託するアナロジーは成立しないのだろうか。しかし、私たちはここで歴史が孕む単純化を警戒する必要がある。明治維新期と現代日本における視覚性の布置がそもそも大きく異なっている以上、写真油絵とスノーに通底する視覚モデルの混淆の内実は、それぞれの時代の趨勢とともに理解しなくてはならない。江戸末期から明治時代において、日本人の視覚モデルは浮世絵などから明らかなように実に平面=抽象的であり、写真油絵の多次元性は日本人の視覚における抽象から客観を志向する流れのうちにその価値を評価する必要がある。その一方で、現代のようなカメラ・アイ――客観的視覚モデルが支配的な時代におけるスノーの多次元的表象は、客観から抽象へ向かう趨勢として理解するべきだろう。つまるところスノーの新奇性は主観と客観の混淆にあるのではない。主観=抽象化にむかうべクトルこそが、スノーが現代に生まれた剝目すべき特異性なのだ。

   

 私たちはスノーを使用して抽象化した自画像を自らの手でせっせと量産している。この抽象化というベクトルは、実はスノーにおいて機能する顔認証システムの構造にも深く根ざしているものだ。このアプリケーションにおいてカメラ・アイは人の顔を識別するにあたって、顔貌をパーツごとに分解して理解する。機械の視線はそのレンズに捉えたデジタル映像のうちに、例えば「口」のパターンを発見する。その次に「鼻」や「目」といったパーツをビットのなかに確認することで最終的に人の顔を認知するというわけだ。分解された顔貌をそれぞれの階層で断片ごとに認識することで、スノーなどの顔認証システムは機能している。換言すれば、他人と自我を区別するアイデンティティたる「顔」は今や、部分でしか判別されず顔全体の固有名を剥奪され抽象化しているのだ。このテクノロジーはSNSはじめ肖像写真を歴史上ありえないデータ量で保存・分析するようになった時代において重要度を増していく存在であるといっていい(Microsoftはすでに顔認証によってPCのパスコードを解除する機能を実装している)。

 抽象化の傾向は私たちがスノーで肖像画を撮り始めた現代において、その他にもにわかに生活空間を侵し始めている。スノー化する社会はweb上で加速度的に進行し、あらゆる箇所にセンサーが内蔵されるモノのインターネット(IoT)時代の前夜にあたる今、不可避の現実として像を結びつつある。空調や冷蔵庫といったデバイスのみならず、発話や表情といった生活行動もいずれデータ(記号)化していく。定量化された自己を持つ私たちは、あらゆる測定基準において分離した被験体となりつつあるのだ。
 哲学者のジル・ドゥルーズは現代を管理型社会と規定したうえで、そこに生きる人々を分割不可能な個人(individus)ではなく、分割されて性質を変化させた「可分性(dividuels)」と評した。スマートウォッチに起床時間や移動距離が記録され、職場では検索や使用したアプリケーションにデータが残る。レンタルしたDVDやDLした音楽もまたアカウントの記録として貯蔵されていく。つまるところ様々なシーンにおいてデータ=記号として採録される私(たち)は、一つの統一的人格ではなくバラバラに分断された存在でしかありえない。ECサイトのアルゴリズムは人の趣味嗜好といった人格などを検討するわけがなく、ただ単にトリュフォーとロメールを好んで見るアカウントはゴダールも観るという統計学的傾向からレコメンドしているにすぎない。そしてそれらサービスからまた別のサービスに移行してしまえば、あなたは全くの別人として記録されることになる。ゴダールをTSUTAYAで借りながらYouTubeでなかやまきんに君の新ネタを繰り返し再生する、趣味のアヴァンギャルド性をいくらあなたがアイデンティティとして誇ろうとしても、この抽象化する社会においてはそれらは単なる分断された記号にすぎない。

 スノーがつくり出す、加工され抽象化する肖像画とは今この世界を生きる私たちの似姿ではないだろうか。そして、そのイメージもまた記号化され、アルゴリズムで解析されていくのである。抽象化する社会において、私たちは分断され多次元化する自己イメージを自ら率先して作り出している――。

◆参考文献
岡塚章子、我妻直美編集『浮世絵から写真へ:視覚の文明開化』(2015年)青幻舎
ジョナサン・クレーリー著、遠藤知巳訳『観察者の系譜:視覚空間の変容とモダニティ』(2005年)以文社
ジル・ドゥルーズ著、宮林寛訳『記号と事件:1972‐1990年の対話』(2007年)河出書房新社

文字数:5165

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