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怖い目

 吉祥寺の街を歩いていると、よく楳図かずお(敬称略)に出会う。いつもTVで目にしている通りの赤白のボーダー服を着ているものだから、周辺の住民は離れていても楳図の存在を察知することができる。頁を開いてもウォーリー以外載っていない『ウォーリーをさがせ!』はきっと退屈であるように、向こうから楳図が歩いてきても思いがけず芸能人とすれ違ったときの驚きや喜びはない(補足しておけば筆者は漫画家としての楳図が日本屈指のクリエイターであることを信じてやまない)。
 吉祥寺でこれまで何度も楳図かずおと遭遇しているのだが、どういうわけか赤白のボーダーを着ていない楳図と最近すれ違ったことがあった。南町の決して広くはない裏道で対向から楳図(と思しき人物)が歩いてきた。そのときの楳図は鈍色の上着を着ており、私は前から歩いてくるとても痩せたこの男性が「楳図かずお」であるのか判別がつかずにいた。歩を進めて3mほどの距離に近づいてくると顔もはっきりと分かり、私はその男性が「楳図かずお」であることを認める。だが、次の瞬間である。私がTVの中の「楳図かずお」との一致に安堵しながら歩いていると、すれ違いざまに楳図は顔をくるっとこちらのほうへと向けたのだ。思わず声が出そうになった。楳図は苛立ちを湛えた目で私をまっすぐと見据えていた。私は、戦慄した。すれ違う瞬間であったから、それは時間にして一秒に満たない出来事だったのに私の心は恐怖で埋め尽くされた。目の前にある楳図かずおの苛立ちは、一方的に視線を投げかけられる不快を私によく理解させてくれたといっていい。そして、一般人にとって芸能人に見つめられることがどれだけ恐ろしいことなのか、このとき私はまざまざと知ったのだ。

 私たちは街で著名人を見かけると、あたかも見知った人に会ったかのように錯覚してしまう。そしてTVや雑誌で見たままのイメージを相手に勝手に投影しては、勝手に一喜一憂する。電波にのせて柔和なイメージをこれでもかと振り撒いている好感度ランキング常連のタレントをたまたま飲食店でみかけたとき、その態度が横柄だったりすると私たちは多少なりとも裏切られた気分になる。その一方で「I’ll be your nightmare」「Die motherfucker」とハードコア・ロックバンドでシャウトし、後にドラッグで逮捕される凶悪な俳優がロケーション撮影の開始を待つ間、実に思慮深げな好青年として佇んでいると評価を2ポイント上げてしまう。若くして引退したアイドルがウェイターをしながらその可憐な笑顔では隠し切れないほどあからさまに勤務中にスマホをいじっていれば、そうそう気軽に「ガンバレ乙女(笑)」などと口ずさむことはできない。
 勝手気ままな視線を投げかけられる芸能人の胸中は察するだけでも心苦しいものがあるが、それでも一般人はあたかも炬燵に入りながらTVを眺めるようにぬくぬくと彼らを見つめてしまう。私が吉祥寺で楳図かずおに苛立った視線を向けられたときに、(誠に勝手だが)感じた恐怖はここに原因があるように思う。私たちは(大阪人を除いて)街に芸能人の姿を見かけようと、それが撮影でもない限り話しかけようとはしない。そして少し離れたところから彼らを眺める。その視線の一方性はTVのなかにいる芸能人と、TVの前にいる私たちの関係と等しい(と勝手に一般人が思っている)。だから芸能人に見つめられること――それも苛立ちという感情を伴って――には、一方的に「見る」というTVの前の特権が剥奪され、芸能人に「見られる」側になることへの恐怖がある。あの日、私は楳図かずおに顔を向けられて、自分自身が見つめられる当事者になってしまったことがどうしようもなく恐ろしかったのだ。

 楳図かずおの漫画が怖いのは「恐怖している人が描かれている」からだとよく言われる。たしかに楳図漫画と聞いて連想されるのは、恐怖に歪んで叫ぶ独特のタッチで描かれたキャラクターの顔ではないだろうか(思い返せば絶筆から7年ほどたって新宿LUMINEがなぜか楳図に依頼した秋のセール用ポスターもこのモチーフだった)。反対に恐怖の対象として思い浮かべることのできる楳図作品の幽霊や怪物は意外に思えるほど少ない。楳図漫画のトレードマークともいうべきこの「恐怖で歪んだ顔」は、読者である私たちを怖がらせる導線の上に実に周到に配置されている。楳図は作中人物が恐怖を感じる、まさにその瞬間を描くとき、きわめて細かくコマを割る。1秒間の出来事が数ページに及ぶこともざらだ。丁寧に恐怖を煽り、いざ恐怖の対象が現れる瞬間になると映画のカットバックのように視点が変わり、恐怖するキャラクターの顔が大コマで緻密な集中線とともに描かれるというわけだ。
 例えば『目』という短編では貞淑な女が過去に一度だけ働いた不貞を隠しながら生きてきたが、その最期に夫からそのことを知っていたと告げられる。女の顔は慟哭で歪み、あまりの恐怖にそのまま絶命してしまう。『目』においては恐怖の対象は女の心の裡にだけあり、私たちは女の歪んだ顔を見てはじめて恐怖する。枚挙にいとまがない楳図漫画の「恐怖に歪んだ顔」は、その演出とタッチ双方の効果によって読後も残像のように読者の心に強烈に残るのだ。
 漫画にどれだけ凶暴な幽霊や怪物が描かれていたとしても、それは虚構のなかにしか存在しないわけで、それを読む私たちが直接怖い思いをすることはない。しかし、私たちは主人公に感情移入しながら漫画を読んでいるため、いわば自らの分身というべきキャラクターが危機的状況にあっては読者でさえも恐ろしく感じる。楳図漫画のように周到にコマ割りをされ、恐怖する人物の顔がこれでもか! とド迫力で描かれれば、その効果は倍増する。この「恐怖している人が描かれているから怖い」という楳図的演出は、専門知にたよれば「鏡像効果」というホラーの定石であるようだが、そんな言葉で説明されなくても私たちはそれを身体的に直感している。普段の生活で考えてみても、たしかにおばけ屋敷やホラー映画でも傍にいる人が怖がっていればいるほど恐ろしい。いかにも恐怖が増幅される感じがする(肝だめしを思い出してみれば、ペアになった女子が袖を引っ張る度に恐怖の対象がそこかしこに現れる気がしたでしょう?)。井戸から這い上がってくる貞子だって、その映像だけでは現代のタイムライン上にあっては動物画像以上の耳目を集められるほどのインパクトを備えていないだろう。感情移入先の主人公である真田広之の目玉がこぼれ落ちそうになるくらいの迫真の演技がセットだからこそ、『リング』は怖い映画なのだといえる。

 楳図漫画の怖さを立ち入って分析したのは、それが吉祥寺で楳図かずおに見つめられたときに私が(勝手に)感じた恐怖と近いのではないかという仮説があるからだ。「恐怖している人が描かれているから怖い」のは、読者が漫画のフレームを越えて、そこで描かれる恐怖の当事者として引き付けられてしまうからに他ならない。TVのなかに見ていた芸能人に「生」で見つめられることは、自分が液晶画面の前の傍観者ではなく、当事者であることをまざまざと理解させられることである。私たちはそこでお茶の間の安寧から作用反作用の関係に強制的に引き摺りおろされて(勝手に)戸惑い、恐怖する。

 だが、吉祥寺南町での楳図かずおとの邂逅には話の続きがある。すれ違いざまに顔をこちらに向けた楳図を見て、私は戦慄とともにその場に立ち尽くしていた。吉祥寺の裏道で楳図と見つめ合った格好のまま、私は時が止まったかのようにすら思えた。恐ろしさのあまり、楳図から目を離すことができない。そのとき苛立ちの視線を投げかける楳図の目の奥には戸惑いに似た感情が湛えられていることに私は気付いた。そして次の瞬間、口角を下げながら楳図は絞るような声でこう言った。

  「怖い……」

 そのとき、私は私の正体を知った。

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 変貌そのものに対する恐怖、それは楳図かずおが描くホラーのもう一つの主題である。
 楳図作品はその価値観として、キャラクターの美醜がそのまま善悪の対比となっているケースがきわめて多い。美しい外見を持つものは正しく善意あふれる人物であり、見た目から醜いものは内面まで邪悪な異物として描かれるのだ。外見がキャラクターの性質を決定する楳図漫画の力学において病気や事故、呪いなどで顔が醜くなることは、すなわち悪への転落を象徴する(楳図は作中で「容姿は精神に支配される これが私の心理学の課題で学んだ研究結果だ」とまで言わせており、この因果関係は容易に反転する)。だから楳図の描く人物たちは皆、なによりも醜さを恐れる。
 短編『とりつかれた主役』では演劇部に所属する大人しい男子生徒がメイクアップによって人格が変容するさまを描いた作品だ。「メイク」や「面」といった装置は、外見と内面の一致をみる楳図的ホラーを起動させるスイッチのようなものだ。『地獄変』を演じるために女形のメイクを施された男子生徒は、その変貌した外見とおりの人格となって代打でありながら役を見事に演じきる。だが、男子生徒はふとしたきっかけから口が大きく裂けた鬼のメイクを顔に施されてしまう。変貌にともなって凶暴な人格となった男子生徒は思いを寄せる女子生徒へと襲いかかる。『面』や『うろこの顔』といった例をあげるまでもなく実に多くの楳図作品にはこの変貌の恐怖が描かれている。
 この変貌の恐怖は先に述べた「恐怖している人が描かれているから怖い」とは位相が異なっている。後者は恐ろしい対象を前にしたキャラクターが感じる恐怖だったが、前者は自らが恐ろしい対象へと変貌していくことへの恐怖である。『洗礼』など楳図漫画において醜悪な外形を持つ者は、その醜さから逃れようとするが結局はその醜さゆえに悲劇を迎えることになる。外見の崩壊が内面の破綻を意味する楳図世界では、変貌すること自体が堪えがたい恐怖そのものなのだ。

 吉祥寺で楳図かずおに見つめ返された私が感じた恐怖とは、自分がTVの前の特権を剥奪され、芸能人と同様に「見られる」当事者になってしまったことへの怖れではなかった。そもそも恐ろしさの正体と思えた楳図自体が、見ず知れずの何者かがじっと自分を見つめてくるということへの恐怖から私へと視線を投げかけていたのである。安穏と楳図へ視線を投げかけていた私は、見つめ返されることによって、自分が他人にとって恐怖を与える得体も知れない異物へと化していたことを知った。その恐ろしさはある日、鏡に映る姿が醜悪なものになっていたかのように、自分の存在が不快なものに変貌していたことを理解する恐怖と換言してもいい。それがあの日、吉祥寺南町で私が感じたことのすべてだった。

 街で芸能人(特に楳図かずお)を見かけても決して2秒以上見つめてはならない。楳図かずおに見つめ返されるとき、あなたはあなたの真の正体を知ることになる――。

 
※この文章には一部フィクションが含まれています

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