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モンタージュ・この映画的なるもの 『イレブン・ミニッツ』論

 

 
  『アラビアのロレンス』には映画史上に残る非凡なモンタージュがある。作品序盤にアラビアへの派遣を命じられた英情報将校であるロレンスは、そっと息を吹きかけて持っていたマッチの灯を消す。そして直後のショットには広大な中東の砂漠が夜明けによって真紅に染まる情景が接合されるのである。そのモンタージュの鮮やかさは後年、多くの批評家に称賛されることとなった。同作の編集を担当したアン・コーツは次のように語っている。「当時はフィルムの接合で2つの場面をつないだの。映写室で見たときはその美しさに息をのんだわ」

 
 午後5時より11分間に起こる出来事を何度も時間を遡行しながら描く群像劇――イエジー・スコリモフスキによる新作『イレブン・ミニッツ』(2015年)を要約すればそのような作品といえるだろう。作中時間は何度も巻き戻され、11人の登場人物(と1匹の犬)による視点から物語は錯綜しつつ紡がれていく。結婚相手の浮気を疑って外出先まで探しにいく男、貧困街の妊婦をレスキューしにいく救急医の女性、休憩時間に恋人とポルノをみる高層ビルの窓清掃員、バイクで目的地へと急ぐ薬物中毒の配達人……。11人の物語はそれぞれ有機的に結合することなく、分断されたまま進行する。時間軸の遡行と脈絡のない展開に作品の筋を追うことは難しく、恋人同士の自撮りによるスマートフォンのビデオ映像、監視カメラやバイクに取り付けられた小型カメラの使用など次々に押し寄せてくる映像・音響・物語についていくだけでも息切れしそうになるほどだ。
 『イレブン・ミニッツ』のこのような結構は、デジタル撮影という環境によって可能となった部分が大きい。たとえば時間軸の複雑な遡行にかんしてはハロゲン化銀結晶という物体であるフィルムと異なり、データにすぎないデジタル・シネマは素材を切断・混交しようとも、そのデータが劣化することがない。モンタージュの試行錯誤は一瞬にして行われ、その結果が気に入らなければすぐに元の状態に完全に戻すことができるのだ。
 かつて批評家であるレフ・マノヴィッチはデジタル・シネマ(ニューメディア)の特質として構成要素が個別の単位に分解できるという「モジュール性」をあげた。独立したピクセルの集合体であるデジタル・シネマは、そのモジュール性によって自由自在に時間軸を切断・混交するモンタージュを可能にしたのである。
 モジュール性による『イレブン・ミニッツ』の特異な結構はその他の点にも看取することができる。本作は入れかわり立ちかわり焦点となる人物が変化していき、各人のプロットもまた細断されて並列上に展開していく。特徴的といえるのは一人一人のシークエンスには追跡・窃盗・逃走・駆引など感情移入を惹起するような物語が駆動しているのにもかかわらず、それぞれを結びつける有機的プロットは存在しないということである。換言すれば佳境まで『イレブン・ミニッツ』は11人の独立した物語を並置する必然性を欠いており、そこに描かれる人物は他の誰でもよいという感覚を観客に強く抱かせる。あたかもモジュールのようにこの映画は11つの「部品」に分解できるようですらある。

 
 映画はカメラで撮影した素材だけでは「映画」にならず、編集というこのメディアの本質的工程を通過する必要がある。編集――それはかつてフィルムを切断し、異なるフィルムと文字どおり結びつけることだった。
 『アラビアのロレンス』の編集を担当したアン・コーツのエピソードには二つの重大な示唆がふくまれる。一つは素材であるフィルムとは物質であり、一度ハサミを入れてしまえば完全には同じ状態に戻すことができないこと。もう一つは1秒間24コマから構成される長大なフィルムをどこで切断し、なにと接合するかという選択には無限に等しい可能性があり、また作家たちも事後的にしかその結果を把握できないということである。
 原理的にかんがえてみれば1分間の映像をつくる背景には240日分にも相当する編集のバリエーションが存在する。わたしたちが観ている「映画」とは作家たちの偶然ともいえるような決断のもとに成立しているのだ。たまたま選びとられたにすぎないコマの配列が、接合された後には必然としか思えない表現を生みだす。映画の編集にはつねに切断という不可逆性への跳躍、そしてその偶発的な美しさが存在するといっていい。

 
 ここまでみてきたように『イレブン・ミニッツ』はモジュール性という「デジタル・シネマ」的特質を備えている作品だ。そして、本作は終幕においてその極点ともいうべきイメージを提出する。映画はあるきっかけから発生した広場での爆発という表象によってクライマックスをむかえることになる。やがて爆発の黒煙を映し出すスクリーンからフレームは徐々に引きはじめて、突如街に張り巡らせた監視カメラからの映像と思しき画質に変容する。そして上下左右にまた別のフレームがあらわれ、同様に監視カメラによって捉えられた街の映像がピクセル上に並置されていくのである。画面自体はドリーを止めることなく引いていき、監視カメラの映像群は無限に増殖していく。ついにラストショットと思われた黒煙で埋め尽くされた広場の映像は、スクリーンのごくごく一部を構成するピクセルのように「黒い点」として配置されるにすぎない。
 最後には画面は無数の映像によって敷き詰められることになり、テレビの砂嵐のように「視えない」一つの映像になっていく。それはスクリーンに映ったものは実は分解してしまえばピクセルというデータにすぎないというデジタル・シネマの結構(モジュール性)を自己言及する終幕だといえるだろう。

 しかし、わたしたちはここで一つの問いを持たなければならない。果たして『イレブン・ミニッツ』のラストショットは本作のデジタル・シネマ的「モジュール性」を暗に示してみせただけのものであったのだろうか。議論を急げば、この砂嵐が象徴するものは「モジュール」ではなく「データベース」である。この「データベース」の表象によって『イレブン・ミニッツ』はまったく新たなデジタル・シネマ的相貌を伴ってわたしたちの前に現れることになるのだ。そして、スコリモフスキはこの「データベース」のなかに「黒い点」を配することで映画というメディアにおける本質を指示せしめたのではないか――。

 
 フィルムは物質であるがゆえに時間性をもつメディアである。上映時間1秒に相当するフィルムには24コマの静止画が順列している。その再生には映写機にかけ頭から順繰りにスクリーンへと投影させる必要がある。編集/モンタージュをする際にもフィルムにハサミを入れ、次のショットとなるフィルムを接合する。たえずその物質性によって支えられ、順繰りに再生や編集を行わなければならないがゆえにフィルムは時間性を持つメディアなのだ。
 一方でデジタル・シネマはフィルムという支持体を必要としない。映像はすべて非物質であるデータで処理されるために、その編集にも時間性は介在しない。フィルムが順列的にコマを連ねるハロゲン化合物であるのに対して、データはあらゆるコマを並列的(空間的!)に一つのディスプレイに表示することができる。iTunesやkindleのライブラリ画面を想起してみればわかるように、その並列/空間とはわたしたちが「データベース」としてふだん慣れ親しんでいるものと近しい。

 
 『イレブン・ミニッツ』の最後のシークエンスに立ち戻りたい。さまざまな映像がピクセル上に並ぶさまをドリーで捉えたショットは視覚化された「データベース」像と近似する。この並列/空間的に配された映像群とはすべてのコマの接合可能性の表象であり、すなわちデジタル・シネマの編集工程(ディスプレイ)を象徴するかのようだ。

 繰り返しになるが、60秒の映像を作成するにも約8カ月分に相当するバリエーションが存在するのであり、砂嵐によって示されたデータベース下の氾濫する無数の映像群とは逆説的に選択不可能性を意味することになる。かつてフィルムにおけるモンタージュが不可逆性への偶発的跳躍をもたらしたのに対して、データベースはあまりに膨大な可能性の現前によって作家に跳躍を逡巡させることがあるのだ。 デジタル・シネマにおいて、作家は見る前に跳べない。

 では『イレブン・ミニッツ』の最後のショットが可視化されたデータベース下での映画編集の寓意であるのなら、本作の物語的帰結となった広場での爆発――「黒い点」は一体いかなる意味をもってわたしたちの前に立ち上がってくるのだろうか。
 ここで最終的には「黒い点」となる広場での爆発にいたるシークエンスをふりかえってみよう。上映時間を11分残して『イレブン・ミニッツ』のプロットは妻の浮気を疑う男の行動によって急速に一点へと収束しはじめる。女優である妻と映画監督とのホテルでの面会の場に表れた男は、つかみかかる勢いのまま足を滑らせて二人を窓から突き落としてしまう。プロデューサーは窓を清掃する作中人物を巻き込みながら落下していく。たまたま通りかかったバスと救急車は横転し、傍を通っていたバイクが巻き込まれる。地表に落下した清掃員が持っていたバーナーが引火し、広場は爆発の黒煙で覆われていく――。
 いわば分断されていた11人の物語を急速に一点へと収束させるシークエンスだが、着目すべきは契機となる男の行動は、ほとんど偶発的に発生しているということである。妻を抱える映画監督につかみかかるはずが、男は泡で足を滑らしてしまい(このとき、男は跳んでいる!)妻もろとも窓の外へと突き落としてしまう。たまたま足を滑らせたことを端緒にそれまで分断されていた各プロットが強引に一点へと収斂していくストーリーは「ご都合主義」的展開として批判者たちの恰好のスケープゴートともなった。

 しかし、スコリモフスキはこの偶発的展開を庶幾したことによって映画における編集(モンタージュ)という行為の本質を指し示してみせたといっていい。この作家は本作についてインタビューで「心から信じられる話(必然)になるか、逆にまったく信じられない話(偶然)になれば心強い」と語っているが、その発言には二重の趣意がともなう。『イレブン・ミニッツ』は偶然であることを強調するストーリーを選択したことによって、映画における編集/モンタージュが孕んでいる偶発性への跳躍を明示せしめたのだ。そして『アラビアのロレンス』を観ればわかるように、その偶然が跳躍後には必然としか思えない表現となるのが「映画」なのである。つまり、男がたまたま足を滑らせ(て跳ぶ)ことによって11人の物語が急速に収束するという偶然のほうがスコリモフスキにとっては「映画」的なのだ。それゆえ、この「映画」的広場の爆発はデジタル・シネマの「データベース」的表象であるラストカットにあらがうように最後まで「黒い点」として画面に残り続けることになる。

 「跳躍」によって発生した「黒い点」によってこそ『イレブン・ミニッツ』はデジタル・シネマにおける選択不可能性を乗り越えて映画たりえた。無機的プロットによってただモジュール的に並置されていた70分間の映像こそが「映画」としては視えない代物なのであり、男が足を滑らせてから砂嵐にいたるまでの11分間こそがスコリモフスキにとっては「映画」に他ならなかった。では、わたしたちはその偶発性への跳躍が起こるまでの70分間、スクリーンに一体「なに」を観ていたのだろうか――。

※参考文献ほか
レフ・マノヴィッチ著・堀潤之訳『ニューメディアの言語』(2013年)みすず書房
クリス・ケニーリー監督『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』(2012年)

◆対象作品における時間軸の遡行と混交を擬態

文字数:4818

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