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a 感情移入の大怪物

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 マンガを読むことはほとんど不可能な営為である。タブラ・ラサの読者としてマンガを眺めてみれば、実はなにひとつ有機的に結合することのない三層の要素――キャラクター(図像)、コマ構造、言葉がそこに見えてくる。その「白紙」の読者は、描かれたキャラクターの図像一つ一つを別の個体として認めることになるだろう。描線が同じでないのだから、あるコマに描かれたサミュエル・クリンゲラインと、その横のコマに描かれたサミュエル・クリンゲラインはまったく別人だとみなすほかない。またマンガに挿入されている言葉はただの「言葉」にすぎない。それがキャラクターにぷっくりとした切り口をむけた白い楕円の上に置かれていようと、どうしてキャラクターの発話として読み進める道理があるのか。かくしてキャラクターの連続性は失われ、そのばらばらに断絶された図像に内面などがあると信じることはもっとも野蛮な行為の一つに数えられる。視線を右上から左下に進めるというごく一時期の一部の地域でしか共有されていない「読み」の前提などタブラ・ラサの読者は知る由もない。下から上へ、あるいは左頁のコマしかながめないなどといった新しい「読み」の制度が開発されることとなる。

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 私たちはなぜマンガを読むことができるのだろうか。先述したようにその「読み」はどこまでも懐疑することが可能だろう。マンガの「読み」を支える「キャラクター」「コマ」「言葉」という三層の制度はそれほど普遍的なものではないからだ。しかし現実にはマンガの読者はその「読み」の自明性を疑うことなく、一つ一つは別の図像であるものに「キャラクター」として感情移入し、「コマ構造」を咀嚼した上で物語を追うことに没頭している。ためしに『週刊少年ジャンプ』を開いてみてもらいたい。現在もなお毎週240万部も刷られているマンガ雑誌の誌面では「友情・努力・勝利」を物語的主題として日夜バトルが繰り広げられていることだろう。そこに認められるのはそれぞれの作品に描かれているキャラクターへの感情移入/物語への没入によってマンガを楽しむという実に素朴な「読み」である。

 ここで問いを立て直す必要がある。ではなぜ、マンガにおける「読み」という制度の薄弱な自明性はほとんど疑われることがないのだろうか――。他のメディアへと目を移してみれば、たとえばマンガよりも歴史の浅い映画においてすら媒体の制度(映画とは何か)を問う傑出した作品は数多く残されている。ゴダールは映画に「自意識(批評性)」を持ち込むことによって、通常はあまり意識することのない媒体特有の制度――編集それ自体、もしくは音と映像の恣意的関係を問う作品を発表したのである。小説においてもメタフィクションやミステリーといった領域で同様の傑作は多く残されているし、絵画でもまた同じように媒体(キャンバス)に対して自己言及的(批評的)な名画は存在する。その一方でマンガという媒体において「キャラクター」「コマ」「言葉」によって構成された「読み」の制度を問う作品がないわけではないが、歴史に耐えうる/人口に膾炙した傑作はほとんど見当たらないように思える。マンガとは感情移入による「物語」への没入を読者によって強く要請され続けてきたメディアなのだろう。

 しかし、とここで言葉を接がなくてはならない。マンガは決して小説や映画と比して批評性を持たない素朴で貧しい表現として展開されてきたわけでは断じてない。それよりも、むしろマンガこそが媒体特有の「制度」を自壊させてしまう可能性をつねに孕んでいるという、きわめて批評的な表現形式であると言わざるをえない。換言すればマンガはその「読み」を突き詰めることによって「読み」それ自体が解体されてしまう性格をもつ倒錯的表現であり、それゆえにその制度をメタ的に問う必要がなかったにすぎないのだ。マンガは自己言及による批評性などではなく、凡庸な「読み」を徹底することによってこそ、その「読み」を自壊させるという逆説的可能性をつねに内包している。
 いささか議論を急ぎすぎた。ここで藤子・F・不二雄による短篇『老雄大いに語る』(1976年)をマンガにおける「読み」による「読み」の自己解体の例として取り上げながら、そのパラドックスの様相をみることにしよう。

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 『老雄大いに語る』は宇宙局長を務める一方で、家庭では妻からぞんざいな扱いをうけているサミュエル・クリンゲライン(以下、サム局長)が主人公として設定されている。サム局長は家庭においてほとんど発言権を与えられず、おしゃべりな妻にただ一方的に言いやられることを日々繰り返すありさまだ。やがてプルート13号に乗り込んで冥王星への有人探査にむかったサム局長は無事惑星への着陸を終え、地球への第一声を今まさに録音しようとしている。宇宙船のモニターには放送局の計らいで妻の肖像が映し出されており、サム局長はその“しゃべらない”妻に向って口を開いた――。

 藤子によるこの短編はごく通常の「読み」をすれば、サム局長が日頃抱えた妻への並々ならぬ鬱憤をモニターに映った妻の肖像にたいして爆発させようとしているプロットとして捉えることができるだろう。妻に理不尽な理由で怒鳴りとばされるサム局長の姿は私たちの感情移入をいやおうなく誘引する。しかし『老雄大いに語る』はそのようなマンガにおける「読み」を徹底することで、「読み」そのものを自ら解体してしまう契機を含んでいる作品なのである。

 この「読み」の自壊とはマンガにおける制度の一つである「キャラクター」の持つ特質――記号的身体性によって引き起こされるものと措定することができる。たとえば私たちは別々のコマに描かれた図像を一つの容姿/形態であるとみなすとき、そこに連続性・同一性のある「人格・のようなもの」を認めている。それは発話をあらわす吹き出しや、思考を可視化した内語といった表象によって「内面」を与えられたキャラクターとして扱われることになる。キャラクターは連続性のある人格(のようなもの)を持っているがゆえに、必然的に私たちの感情移入を惹起する存在といえよう。だが、映画のスクリーンに映し出された人物と違ってキャラクターとは記号的身体を持った、ただの図像に過ぎない。ただの図像――「インクのしみ」であるがゆえにキャラクターはリアリティの水準から容易に逸脱し、作品世界から遊離した二次創作や「読み」による「読み」の自己解体を可能にするのである。

 ここで話を『老雄大いに語る』に戻そう。本作においてキャラクターの記号的身体性はいかにして「読み」による「読み」の自己解体を発生させているのだろうか。
 冥王星からサム局長がメッセージを収録しようとする目の前のモニターには地球に残された妻の肖像が映し出されている。『老雄大いに語る』の最後の頁はまさにサム局長が日ごろの妻への鬱憤をはらそうとしている場面で締めくくられる。ここで私たちは作品に没入しつつも、ある誤読に陥っていることに気がつかなければならない。モニターに映し出されている妻の肖像は、それ以前のページに描かれた実際の妻の図像と何一つ変わるところがない。いや、正確に述べればすべての妻の図像は一つとして同じものはない。しかしマンガにおけるキャラクターへの感情移入はこの差異にたいして私たちを盲目にさせ、それら別々の図像を連続性のある一人の妻として認識させることになる。それではなぜ、同じ水準の描線で捉えられたモニターにおける妻の肖像はただの映像に過ぎず、「妻」として認めないといった判断をくだすのか。

 ここにマンガにおける「読み」による「読み」の自己解体は位置している。キャラクターへの感情移入によってマンガをより正確に/より没入的に読みさえすれば地球にいる妻と、宇宙船のモニターに映った妻の双方の図像は完全に同一であり、それらを別のものとして読むことは不可能であるということになる。このときサム局長の妻はその記号化された身体性によって作品世界のリアリティから逸脱し、宇宙船においてサム局長と相対することになるのだ。つまり、サム局長は孤独のうちにモニターに映っただけの妻の肖像にたいして鬱憤を晴らしているのではない。これまでは二言以上話すことができなかった妻を“目の前にして”今まさに語ろうとしている瞬間にこの短編は幕を閉じるのである。このキャラクターへの超・感情移入的「読み」は冥王星探査の成功とともに長年の妻へのわだかまりの溶解という通常の「読み」にはない大きな物語的展開をともなった結末を用意することになる。

 かつて東浩紀は「僕たちは、人間とキャラクターを、知覚的には区別できるが、感情的には区別できない」と語った。『老雄大いに語る』において発生していることは作品設定に準じた登場人物(妻)がキャラクターの記号的身体性によって、その作品世界のリアリティを逸脱した「読み」に拓かれるという事態である。これこそがただの「インクのしみ」でしかないキャラクターへの感情移入の過剰によって発生した「読み」による「読み」の自己解体の実相なのだ。

 ある高名な映画学者はかつて、映画の観客がスクリーンを見つめ続けて物語に没入している様を捉えて<感情移入の化け物>と称した。しかし、マンガの読者という存在は映画における感情移入の閾を越えた没入へと誘われることがあることをここまでで確認した。ゆえに、その呼称はマンガの読者へと譲られるべきだろう。マンガという表現は単純にキャラクターに感情移入をして物語に没入すること――通常の「読み」が過剰に行われることによって、その「読み」自体が解体され、作品が全く別のものとして立ち上げる契機を含んでいるのだから。
 感情移入を惹起する「読み」がそのことによって「読み」自体を自壊させるというパラドックス。マンガを「読み」、そしてそのキャラクターに/物語に没入するとき、あなたはある<感情移入の大怪物>として多様な「読み」の前に拓かれることになる。だが、そのとき果たして私たちにマンガを「読む」ことは本当に可能なのか――。

〈参考文献〉
伊藤剛(2005年)『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版
三輪健太朗(2014年)『マンガと映画――コマと時間の理論』NTT出版

文字数:4208

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