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Re:Waltz with Bashir

 人はなにもかもを記憶しようとしても、結局はほとんどすべてのことを忘れ去ってしまうものだ。忘却とは生理的に要請された処世術の一つだろう。いつまでも記憶していることはわたしたちが覚えていたいと願ったことのほんの一部にすぎない。それなら「思い出す」とは一体どのような行為なのだろう。明白な記憶に残らず、しかし、それでいて時間が経つとある輪郭を伴ってわたしたちの脳裏に還ってくるもの。それは意識下にあった記憶ときけば、あなたはなんだか頷けるような気がしてくる。でも、そこで思い出されたものとは本当にあのときの記憶なのだろうか。誰も強く頷いてくれる人なんかいない。わたしたちはあまりに多くのことを忘れてしまうから、不安になってカメラを構えるのかもしれない。カメラが捉えたものはその瞬間その場にあった現実をきっと正確に写し取っているに違いないはずだから――。

   

 あなたはわたしを思い出そうとしている。あなたが十九歳の頃に経験した、もう三〇年ほど前の記憶。遠くに忘れ去ろうとした、あの一九八二年のレバノンの暑くて乾いた夏の記憶。

 わたしを思い出すためにあなたは長い時間をかけて多くの人に会った。同じ連隊だった兵士や現地にいたジャーナリスト、臨床心理学者。あなたは彼らに会うことで消失していたわたしの一部を再認することができた。最初に思い出したのは、そう、あれはパレスチナ・ゲリラによって殺害された仲間をヘリポートまで運ぶ任務の記憶。敵の姿もないのに戦車に乗りながら暗がりに向かってただただ一九八二年の銃を連射して進んだ記憶。でも、それはわたしの一部に過ぎません。あなたはイスラエル軍による一九八二年のレバノン侵攻のすべてを――なかでもサブラ・シャティーラの虐殺の記憶を思い出そうと強く願っている。それなのに、あのときの記憶だけがすっぽりと抜け落ちているようにあなたには思える。あの夏、ベイルートにいた人々へさらに取材を続けてあなたは思い出したことやインタビューの過程を一つのアニメーションとして制作することに決めました。それは『戦場でワルツを』と題された、わたしという記憶の肖像。

 あなたは誠実な人だとわたしは思う。アニメーションという虚構の形式をとりながら、それでいて実際に話を聞いた人々の声をそのまま作品に使用したのだから。多くのイスラエル兵はインタビューに小さく呟くように応えて、あの出来事を振り返る。彼らの生身の声はあの夏のレバノン侵攻が本当に存在したのだという事実を観客にたしかに伝えることでしょう。

 ただ、あなたはごく一般的なドキュメンタリーを制作したわけではなかった。この作品にはわたしが聞いたこともない声で話す二人の男がいる。ボアズ・レイン=バスキーラとカルミ・クナアン。このドキュメンタリーに登場するみんなと違って、抑揚の効いた洗練された声を持つ男たち。つまりあなたはあの夏、レバノンにいなかった架空の兵士の語りをさも事実であるかのように作品に挿入したというわけです。批評家たちはこの作為にはじまり、時間軸を混交させた物語の語り口や白昼夢のごとき超現実的演出を非難したと聞きます。リベラリストたちからはレバノン侵攻がイスラエル軍の視点によってのみしか描かれていないことも批判の対象となったことでしょう。それでも、わたしにはあなたを責めるつもりはありません。このアニメーションはあなたがあの出来事と真摯に向き合いたいという動機によってつくられたことが、わたしには痛いほど伝わってくるから。そもそも記憶とはその人の奥深くに内在しているものだから、国際政治における「レバノン侵攻」の客観的考察を期待することなどできないのです。むしろわたしにはアニメーションによる超現実的演出によってあの夏の「事実」を正確に再現することを放棄したからこそ、あの「出来事」の記憶を観客にたしかに伝えているように思えるのです。いささか逆説的なもの言いかもしれません。でも、人は積み重なった事実の上にただ生きているわけではありません。人は生起した事実を知覚し、抽象化し、記憶する。そして記憶において時間軸は混濁し、現実と夢想の境界線はときに曖昧となるでしょう。あなたがこの作品で描いてみせたのはレバノン侵攻という「事実」ではなく、それを体験した個人にとっての「出来事」の相貌だったのです。だからわたしはわたしの肖像にあなたがいくつかの虚飾を加えたことを責めるつもりはありません。それは事実から逸脱した「嘘」なんかではなくて、記憶を失うほどの衝撃を負った「出来事」を証言するためのなにより誠実な作為でした。

 わたしはいま、あなたの友人であるオーリ・シヴァンの話を思い出しています。幼少時を捉えた一〇枚の写真のなかに、一枚だけ移動遊園地の背景を合成した偽物の写真を混ぜるという心理実験の話。八割の被験者は記憶にあるはずのない合成写真を疑うことなく「懐かしい」「覚えている」と言って眺め、残りの二割も問い直されると「思い出した」と答えたといいます。このエピソードが示しているのは記憶の改変がいともたやすく行われてしまうこと、ではありません。幼少期という過ぎ去った「出来事」――つまり抽象的であいまいな記憶の相貌に、「事実」の糊塗によって近づくことがあるということです。あるはずのない移動遊園地の記憶を「思い出す」とき、被験者はそこに行ったことがあるという思い違いの事実なんかではなく総体としての幼少期という「出来事」を思い出しているのではないでしょうか。それは嘘を経由することで「事実」との一致という浅薄な正誤を越えてより深く、その人のなかの幼少期という曖昧な「出来事」の姿に近づくという可能性です。

   

 あなたはわたし――一九八二年のレバノン侵攻の記憶をほとんどすべて思い出すことに成功したように思います。それもたんなる事実ではなくあのとき感じた痛みや恐怖をともに思い出すという形で。でも、あなたが最後まで思い出すことのできなかった「出来事」が一つだけあります。それはベイルート陥落後に起こった、サブラ・シャティーラの虐殺の記憶。その出来事をあなたも含め取材した兵士の誰もが憶えていなかったのです。

 しかし、とわたしはここで言葉を接がなくてはなりません。あなたはサブラ・シャティーラの虐殺というおぞましい「出来事」を、記憶障害によって深くその心に刻銘していたのではないですか。それは、誠実で真摯な生理的抵抗だった。あの「出来事」を受け止め、その衝撃ゆえにあなたはわたしを意識下に失うことを選んだのです。その記憶は決して思い出すことができなくても確かにあなたのなかにあった。記憶とはあなたが考えているような、誰かにコントロールされる所有物ではないことをはっきりと申し上げなくてはなりません。わたしはあなたの傍を一時も離れることはなかったのに、あなたは突然心を苦しみあの虐殺の記憶を思い出さなくてはいけないという強迫に支配されてしまった。そして、そのときあなたが取った行動にわたしは一つの哀しみを覚えずにはいられません。繰り返しますが、それはわたしの肖像に加えられたいくつかの虚飾についてでは決してありません。わたしが問題としていることはなにより批評家たちがサブラ・シャティーラの悲劇をとてもよく伝えていると称賛した箇所にこそ位置しているのです。

 わたしという記憶の肖像をすべてアニメーションで表現するということにあなたは躊躇があったのでしょう。描かれていることが虚実入り混じったフィクションではないのか、あるいは過剰に事件を深刻化しているのではないかといった愛国者からの批判が頭をよぎったはずです。そして、あなたはこの『戦場でワルツを』の終幕――サブラ・シャティーラの虐殺を突如として実写の映像で締めくくった。映し出されたのはパレスチナ難民キャンプで虐殺された無惨な死体の数々、そして訴えるように泣き叫ぶ人々。男性も女性も、そして子供までが殺され土煙にまみれて横になっている様をカメラはあますことなく映し出すこととなりました。何ら加工を施していない映像という「事実」性はたしかに強固なものでしょう。そう、サブラ・シャティーラの虐殺はたしかに起こりました。しかし、あなたはあの記憶を実写に置き換えることによって虐殺という「出来事」をあなた自身の外へと解離させて一つの「事実」にしてしまったのです。

 カメラは人間の視覚のようにその有用性によって知覚を制限する器官ではありません。人間は目の前にある世界のすべてを受け取ることはなく、取捨選択を行って縮減されたもの(必要なもの)だけを知覚します。その一方で、カメラの視線とはあますことなくすべてを受容する機械のそれなのです。その特性に支えられたカメラの客観性によってサブラ・シャティーラの虐殺という「事実」性は確かに担保されました。しかし、それはあのときその場にいたあなたの戸惑いや怒り、恐怖といった感情も含んだ記憶――あなたの意識下に消失し姿を見せなくなったわたしの姿形とは似て非なるものなのです。カメラの視線とは当時のあなたの視線とは異なり、少女の死体とその日の空の雲を等価なものとして捉える非中枢的な光の世界でしかないのです。そのような「事実」としてあの記憶を思い出すとき、あなたのなかからサブラ・シャティーラの虐殺という「出来事」は姿を消しました。あなたにとってこの映画とは、意識下にあったわたしという記憶を取り出し、客観的事実によって捏造するという倒錯的行為の記録でした。

 サブラ・シャティーラの虐殺を映像によって表象することであなたはあの忌まわしい「出来事」の他者となったのです。あなたはいま、かつて語ることのできなかったあの夏起こったことを誰かに話すことができるでしょう。この映画が世界に公開され、あの夏の事実は多くの人に伝わることでしょう。しかし、あの日あのときの記憶はあなたのなかで永遠に姿を見せることはなくなったのです。あなたはもうわたしの顔を思い出すこともできないでしょう。わたしはいま、あなたのなかでその形を完全に失おうとしているから――。

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