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思考の生理学

「忘れられたものが私たちの崩れ落ちた外被の塵埃と混和しているということ、このことこそが、おそらくは、あの<秘密>なのだろう。忘れられたものはこの秘密から養分を得て生き存えているのである。」(W・ベンヤミン『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』より「字習い積み木箱」、1938年)

大切なものほど、大切だからこそ逆説的に忘れたりする。憶えているだろうか? 子どもの頃、擦りむいた膝を中心に世界がぼろぼろと崩れ落ちていくかのように、泣き声をあげる他に何も手段を持たなかった時の、幼い絶望を。それを忘却し、一つ一つの痛みに免疫を付けていくことを時に人は「強くなる」と呼ぶ。あるいは逆に、何でもないものこそが逆に記憶に焼き付けられることもある。ヴィデオ・ゲームに興じていると隣の部屋のテレビから耳に流れてきた歌謡曲、大阪のある駅で毎朝電車の到着を知らせていた英語のアナウンス、物心もつかない頃、夢の中か現実かのどこかで視た梟(そのためか、私は未だに梟の写真やオブジェに強く気を惹かれる)などが私にとっての其れだ。数年前に付き合った彼女の顔はおぼろげにしか思い出せないのに、立って歩くのもままならない時期に視た梟のイメージは今も明瞭に引き出すことができる。言うまでもなく私にとって大事な記憶は前者である筈、なのだが。

致死性家族制不眠症という病気がある。その名の通り、睡眠障害を誘発し死に至らせる遺伝性の病気である。この病気を発症すると約一年で衰弱昏睡に陥ると言われるが、ここで強調したいことは人間にとっての睡眠の必要不可欠性である。神経科学者ラッセル・フォスターはTED Global 2013の講演にて、睡眠が人間にとって欠かせない最も説得力のある理由として、「脳の情報処理と記憶定着」の役割があることを指摘している。脳の容量は無限ではない。それゆえ何かを憶えるためには、例えば睡眠によって情報を整理し、別の何かを忘れなければならない。アメリカのラジオパーソナリティ、ピーター・トリップは、チャリティー企画として、放送局を巻き込んだ201時間の連続覚醒記録に挑戦した。彼は数日しない間に幻覚を発症し、医者から貰い受けた薬に助けられつつ挑戦は成功に終わるが、その後も彼の精神には後遺症が残ってしまい、DJに復帰することが出来なくなったことは睡眠にまつわる有名な話である(ちなみに、彼の記録はその6年後に一人の高校生に破られる。若い記録樹立者はその後も健康な生活を送ることが出来たらしいが、リスクがあることに変わりはないので徹夜はしないに越したことはない)。情報は整理され、記憶は定着されなければならない。そのために人は睡眠を取らなければならない。

以上は特段珍しい話ではない。ここで重要なことは、我々の記憶の保存容量には限界があり、その資源をやり繰りするために睡眠が大きな役割を持ち、記憶の整理を行っているということだ。私が高校生だった頃から院生になった今に至るまで、「知識」との取り組みにあたって時折指南書にしている外山滋比古『思考の整理学』にも、記憶の整理における睡眠の重要性が記述されている。

「昔の人は、自然に従った生活をしていたから、神の与え給うた忘却作用である睡眠だけで、充分、頭の掃除ができた。」(外山滋比古『思考の整理学』、1983年)

先進国が足並み揃えて第三産業に舵を振り切った第3次産業革命以来、頭脳労働を欠かせずにいる現代人が如何にして効率良く頭脳リソースを分配するか。この書は学者、研究者に留まらず、石油危機以降の産官学すべてが頭脳労働へと差し向けられる不眠の時代を背景にして世に送り出された。知識を忘れてはいけないと常套句を唱えるのではなく、忘れてしまうのだから、むしろ忘れることによってこそ、有用性の高い情報が集積されるのだと外山は言う。殊に人文科学のバイブル、「古典」が形成される機構の解説は、書き手たちにとって厳しい現実を突きつけている。

「忘却の濾過槽をくぐっているうちに、どこかへ消えてなくなってしまうものがおびただしい。ほとんどがそういう運命にある。きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。」(外山)

私に身近な例を持ち出すなら、研究者でもない人間がメディア論を知ろうとする時、彼が最初に手に取るものはフリードリヒ・キットラーでもノルベルト・ボルツでも北田暁大でもなく、マーシャル・マクルーハンか或いは吉見俊哉であろう。学者が揃って「古典」と呼ぶものには「当たり」が多い。好んで「外れ」を引きたがる者はそれほどいるまい。「時の試練」が担保する価値がある。外山は一般的な「自然の古典化」との対照として、「人為による古典化作用」を提示している。というのも、前者は幾十年も掛けて行われるものであり、せいぜい百年でしかない人間の生を度外視しているからである。「人為による古典化作用」とは何か? 「忘却」である。

「とくに努力しなければ古典化には三十年も五十年もかかる。その時間を短縮するには、忘却を促進すればよい道理である。」(外山)

学校の教室で生徒たちに知識の詰め込みが要求される昨今、「忘却」という運動が持つ機能を指摘するこの書は教育制度に対する鋭いクリティシズムを演じている(時に、この本が「記憶」のエキスパート集団である東京大学で最も読まれる一冊である、という事実が意味するものは何なのか?)。だがしかし、外山は「忘却」の有用性を示唆する一方で、「忘却できなさ」という不動の事実があることに無頓着である。この点については、ジョナサン・クレーリーが引用するエマニュエル・レヴィナスによる不眠の議論が詳しい。

「わたしたちが住まう近代化された世界では、無用な暴力とそれによって生じる人間の苦痛がいたるところで目に見えるようになっている。この可視性は、まぶしい光となってあらゆるものと混じり合い、どんな充足感をもかき乱し、睡眠の安らかな無頓着さも妨げないではおかない。不眠症は寝ずの番の必要性、つまり世界にはびこっている恐怖や不正を見逃さないという要求と内応している。」(ジョナサン・クレーリー『24/7――眠らない社会』、訳:石谷治寛、2015年)

人間の身体は、脳幹から発せられる「寝ろ」という命令が視床を通り大脳新皮質へ届けられ、そこで外部からの刺戟がシャットダウンされ、睡眠に至ることが出来る。睡眠障害とは、このプロセル上に何らかの障害物があるということだ。外部からの刺戟の遮断できなさの原因の一つ、それが常に私たちを取り囲んでいる、レヴィナス言うところの「無用な暴力」である。それは「世界にはびこっている恐怖や不正を見逃さないという要求」という症状において顕現する。すなわち、忘却を通して私たちにとっての有用な知識が「古典」として集積することを主張する外山のヴィジョンに反し、現実に遍在するのは好き好んで遮断することの叶わない「無用な暴力」であり、それは私たちにとっての価値や意味とは無関係に、「記憶の飛蚊症」として沈殿し続ける(外山は現代と対照して昔の自然状態を美化しているが、果たしてその時代にどれだけ外的刺戟に悩まされない睡眠が本当に可能だったのかは疑問視すべき点である)。

「忘れられるのは、さほど価値のないことがらである。すくなくとも、本人が心の奥深いところでそう考えているものは忘れるともなく忘れる。」(外山、前掲書)

もう一つ、忘却作用プロセスをどれだけ生き延びたかによる価値の決定論は、人間の生理的な忘却に抗うことの無意味化という問題を孕む。忘却されない記憶の方が「心の奥深いところ」で重要性を持つのであれば、梟のイメージはかつての彼女の顔貌以上に私にとって重要だということを認めねばならず、そして私はそれを認めようとは断じて思わない。梟のイメージは、私の視界を蚊の如く飛びまわる影、すなわち飛蚊症である。忘却を生き延びることが意味や価値に繋がる必然性はない。忘却と記憶の逆説的な関係は、意味や価値を消し、忘却することによって忘却から守る戦略の中にも見出される。E・アラン・ポー『盗まれた手紙』のようなトリックを、ヴァルター・ベンヤミンの書物『パサージュ論』『1900年頃のベルリンの幼年時代』をジョルジュ・バタイユがナチスの目から隠す技巧の内にも確認することができる。

「隠すこと、忘れることによって、かえって本は失われずに未来に届けられる。特権的なかたちで一冊の書物を突出させて、たとえばガラスケースに陳列する、あるいは耐火金庫に保管・秘匿する、ということでかえって本の生命はうしなわれるのかもしれない…。」(今福龍太「身体としての書物」、http://www.cafecreole.net/onbooks/onbooks10.html、2007年)

記憶と忘却の関係は偶然性に委ねられている。今年2017年1月5日、出版社宝島社は新聞6紙に見開きを使った巨大な広告を掲載した。左半分には1941年12月8日の真珠湾攻撃、右半分には1945年8月6日の広島原爆投下の空撮写真が配され、下部には丸ゴシックで「忘却は、罪である。」の文字。制作は株式会社電通の古川裕也、磯島拓矢、窪田新そして橋本卓郎による。私たちはなぜ忘却するのか? 忘却したいからか、あるいは記憶の整理/生理のために忘却するからである。いやしくも「戦争」が忘却されるのであれば、「忘却するな」と唱えるのではなく、「何がそれを忘却させているのか」を案じることこそが、先ずもって取り組む謎ではあるまいか。

ここで私は電通が作った広告にケチをつけたいわけでも、外山滋比古のベストセラーに毒舌を振るいたいわけでもない。一つの思考実験として、生理的に忘却してしまうものの内に、「戦争」のような倫理的に物議をかもす記憶が含まれるのであれば、その記憶の重要性は、忘却の濾過槽をくぐり抜けた数が規定する「古典性」とは別の基準によって計測する必要があるのではないかと考えてみたいのだ。働きかけなければ消失する記憶。それを意識的に記憶に留めるということ、それは無用にも関わらず身体から切り離せず、視界に色眼鏡を被せてくる記憶を受け入れること、つまりは思考の整理を妨げる飛蚊症を発症することである。

 

<参考文献>

ジョナサン・クレーリー『24/7――眠らない社会』(訳:石谷治寛)、NTT出版、2015年

外山滋比古『思考の整理学』、ちくま書房、1983年

ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション3』(訳:浅井健二郎、久保哲司)、ちくま書房、1997年

今福龍太「身体としての書物」(http://www.cafecreole.net/onbooks/onbooks10.html、2017年1月19日回覧)

WAOサイエンスパーク「なぜ人は眠るのか、夢はなぜ見るのか。謎だらけの睡眠の正体に最新科学で迫る(金沢大学・櫻井武教授)2013/1/18」(http://s-park.wao.ne.jp/archives/597、2017年1月19日回覧)

難病情報センター「プリオン病(3)致死性家族性不眠症(FFI)」(http://www.nanbyou.or.jp/entry/51、2017年1月20日回覧)

 

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