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ショッピングモール再考

テン年代の謂わば「真の自由」や「管理社会」の形成は、グーグルやフェイスブックなどと根底的な関係を持つことはない。今言えることは、屈曲したそれらの概念が途方もなく結び目と襞を世界中に作り続けているということだけだ。私たちが今最も熱中しているゲームとは掌に収まる液晶の上で呟きのように生々流転するプログラムであり、権力論は手垢にまみれた玩具のように私たちの好奇心をもはや刺激することはない。ゲームの規則は変わる。それゆえに、東日本大震災以来消息を絶った「アーキテクチャ論」、そして震災を経てなお命脈を保ち続ける「ショッピングモール」を、そしてそれらを説いた『思想地図』の現代の姿を問い直すことは決して意味のないことでもなかろう。

iBookは電脳空間という月面の不動産業。電子書籍と称されるものを買うときに本当に買っているものは、文字通りシリコン基板上の住所(アドレス)でしかなく、そしてそこへアクセスするためにiOSという車を買い、定期的に車検に出し続けなくてはならない。すなわち、電子書籍とは選ばれた者だけがアクセスできるショッピングモールの謂である。そしてここで早合点してはいけない。アーキテクチャは常に両義的である。アクセス回路を創り出したということは、ある条件下ではアクセスの自由を提供し、別の条件下では不自由を提供する。「人々に不自由感を与えることなく設計者の思い通りに人々を操作する統治技術」(鈴木謙介「設計される意欲――自発性を引き出すアーキテクチャ」『思想地図vol.3』、2009年)としてアーキテクチャを呼ぶならば、電子書籍はアーキテクチャと呼ぶに相応しい。そしてそのアーキテクチャに栄養を与えるのが、エンジニアであり出版社であり消費者である。

匿名化という信仰について手短に確認しておこう。一般的な理解ではプロバイダーによって私たちはネットの海を泳ぐことが出来るとされている。ただ、その時に私たちもIPアドレスを技術者にプロバイドしていることを忘れるべきではない。インターネットに対してプライベートな秘め事を行なっている時、同じ地球上の誰かと私の隠し事を共有していることを自覚しつつも、彼がそれを公にしないという無根拠な信条を抱かざるを得ないまま諸々の検索ワードは打ち込まれるのである。我々はその約束を信じる主体として語らざるを得ず、スキャンダルを暴露するウィキリークスの位相に立って発言することは出来ないでいる。力なき者が圧倒的な有力者と渡り合える、それが批評の力だと言うならば、批評が想定すべき主体は「ハッカーの倫理を手放していない本物のハッカー」(不可視委員会『われわれの友へ』、2016)ではなく「約束を信じる主体」なのだろう。この国で芽を出した批評は自己組織化の方へなびいた。”革命的”を志向する「不可視委員会」の方法論が総てではない。「匿名を約束された主体」であるということがネットのアーキテクチャを支える。

ショッピングモールは道路と遊歩道、すなわち社会工学と人間工学のタンデムによって、散在するモーテル、ホットドッグダイナー、マクドナルドを廃墟化すべく最大の機能を果たす。これをそのままiPhoneのデザインに重ねて見るのは暴論でもあるまい。つまり、コミュニケーション学(社会工学)とインターフェース学(人間工学)の結晶としてのスマートフォンである。

ショッピング・モール理論が活かされた例がゲンロンカフェそのものだと言えないか。日常化した祝祭空間。ゲイテッドでありながらも公共性は担保される。『アーキテクチャの生態系』が示したように「祭り」と「疑似同期性」がモニタの上で成立する。リアルとネットの両経路からアクセスできる点も特徴である。

言うまでもなく、資本主義/共産主義の図式を脱構築することこそはマルクス主義が今なおも残す課題である。汎ショッピングモール論を唱えることは汎資本主義とは違う。ショッピングモール機械の盗用、そこから言論が編み出されている現代がある。読者を生産するというゲンロンのあり方は徹底的に正しい。ただし、ショッピングモール・モデルの応用としてだが。

現状の「ショッピングモール」肯定以外になおも考えることがあるならば、それは批評の主体についてではないだろうか。コンテンツを作る側でも消費する側でもなく、消費することで作り上げる共犯者としての「オオカミ少年」になる。遍在するショッピングモールアーキテクチャの別の使い方を探る――。

 

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