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ロジカル・カオス

「生がどのように構築されるかは、目下のところ、確信(Überzeugug※)の力よりもはるかに、諸事実の力にかかっている。」(W・ベンヤミン「一方通行路」)

「右目を瞑れば、残った左目に『     』※2は映った。」(高橋源一郎『虹の彼方に』

「しかもこれらの事実たるや、いままでほとんどいかなる時にも、いかなる場所でも、確信の根拠になったことのないような事実なのだ。」(ベンヤミン、同書)

「アルトーが臨終のまぎわに口にくわえたスリッパは、果たしてどのような最後の科白であったのか、」(土方巽「アルトーのスリッパ 」)

「こうした状況のもとでは、真の文学活動は、文学の枠内におのが場を求めるわけにはいかない――文学の枠内にとどまっていることは、むしろ文学活動の不毛さの現われとして、ごく普通に見られるものだ。」(ベンヤミン、同書)

「つまりなめくじのごときもののむらがるカオス」(吉岡実 「或る世界」 )

「文学の有意義な働きは、行為と執筆が厳密に後退するときにのみ成立しうる。」(ベンヤミン、同書)

「「スペインから立ち上がる父なる埃よ」で始まる詩について考えてみよう。」( アガンベン『瀆神』 )

「この働きが、現在活動しているさまざまな共同体に影響を与えるためには、書物というものがもつ、要求水準の高そうな、普遍指向のポーズよりも、一見安っぽい形式のほうが適当であって、」(ベンヤミン、同書)

「「王国」の第一行はまだみえていない。」(吉増剛造 『新選・吉増剛造詩集』 )

「そうした形式を、ビラ、パンフレット、雑誌記事やポスターのかたちで、作りあげてゆくことが必要となる。」(ベンヤミン、同書)

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「これは、いわゆるイメージ・フックである。」(戸田ツトム『断層図鑑』)無数にバリエーションがあるのではあるまいかと思しき明朝体で、その本の表題は縦書きでこう記されている。「『断層図鑑』」と。一線一線の細さ太さが強調される書体で本文が印字され、その背景には「ノイズ」となって文字の認識を妨げる大量の染みが配置されている。「本書はある体系を目指して造られたものではない。」(戸田、同書)「テクストが主体である場面もあれば、図像、あるいはデザインがテクストである場合もある。」(戸田、同書)著者の企図は、「構造をつぶさに捕獲しながら変換し、装置化する作業である」(戸田、同書)が、こうして組み上がる装置とは「ノイズによるところのノイズの発生装置」(戸田、同書)に過ぎないことを自ら結論付けている。アンチ-体系、アンチ-論理という思想はそれ自体が目的化するリスクを孕んでいる。体系や論理がいかに有効な方法として人間に供してきたか、それを取り逃してはならない。「飛躍して、私なりの感想を呟くなら”霊感(インスピレーション)ほどあてにならぬものはない”ということだ。霊感は、瞬間の不毛を逆説的に証明する。人生にたった一度しかおとずれぬのかも知れないという想いに対して、一度もめぐりあわずに死ぬ、と木霊がかえってくる。」(吉増剛造、前掲書)そして、「「ことば」は「ここ」や「いま」という個別にとどまることができず、常に「普遍」へと向かう運動を起動する」(大黒岳彦『<メディア>の哲学』)。霊感の対極に位置する概念が、特定の入力を受けて決まった数字を返す「論理」であるとすれば、この言葉を残した詩人は「論理的」に詩を書いているのか。

「日本語に見切りをつけて
透明山に登れ
そこで
一回転すれば狂人だ」(吉増剛造、前掲書)

「狂人」が出されるからといって非論理的だと言うことはできない。「論理的な詩」とは何かをここで導出することはできない。であるならば、「わたしはまず論理的に、カオスから始めよう。それがもっとも自然である」 (クレー『造形思考』 )。カオスとコスモスは対極にあるようで硬貨の表裏の存在である。「単純な規則から複雑な変動が生まれるのがカオスの特長であり」、「簡単な規則と不規則な変動(ゆらぎ)の組み合わせがカオスを生む。」(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ai/hukuza06.html)「結晶の成長にあたっては極めて“結晶的でない”もうひとつ別の作用が必要なのである。」(同URL)単純な秩序の重なりから秩序を推測できない複雑な形が生み出されることは基礎科学の知見が明らかにしたところだ。論理的であることとカオス(無秩序)であることとは背反しないどころか、後者は前者を条件にしてさえいる。ゆえに、くだんの詩人は霊感以上に論理を、論理的「狂人」を志向しているのだと言えよう。「古典的な解釈学的循環(悪しき循環)の考え方は、全体に即して部分を解釈する際に、逆に部分の理解が全体の理解を規定するという事実を認めて、そこに循環を見るものである」( 佐々木健一『美学辞典』 )が、詩という無秩序装置の諸部品は、意味を持つから機能するのでも機能するから意味を持つのでもなく、意味即機能だと言う他ない。詩の分析において「大事なのは差異だけ、あるいは(タイプライターの用語でいえば)ひとつのシステムを形成する個々の要素のあいだの余白だけだ。この事実だけでもう、ラカンにあっては、「サンボリックな世界は機械の世界だ」といわれることになる」(F・キットラー『グラモフォン、フィルム、タイプライター』)。

さて、機械でもない、体系でもない「断片、断想のまま、手放」(戸田、前掲書)された書物『断層図鑑』の戦略は、論理を志向する詩人とは対極に位置するように思われる。むしろ、中心の無い迷宮としての都市の中で断片的な文学、すなわち言葉を採集したW・ベンヤミンに近似する。「生がどのように構築されるかは、目下のところ、確信(Überzeugug)の力よりもはるかに、諸事実の力にかかっている」(ベンヤミン、前掲書)。しかし伝統的な文学研究に風穴を開けようとするベンヤミンは、「人間の活動を、見るというカテゴリーの支配下で理解した西洋哲学の企図の持つ弱点のすべてを受け継いでいる」(G・ドゥボール『スペクタクルの社会』)。「分離されたものを一つに結び合わせるが、分離されたままのものとして結び合わせる」ものとして、スペクタクルと都市の文学とはアナロジックな関係にある。都市に「解釈学的循環」は起こらない。「貼り紙禁止!」「改装のため閉店!」「セルフサービス・レストラン〈アウゲイアース〉」(ベンヤミン、前掲書)というそれ自体でロジカルに完結した言葉が指し示す意味は、それぞれに分離されたまま全体において星座を形成することもない。

文字数:2695

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