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コキュートス、またはAR化する社会

私は私に裏切られている。言葉の逡巡。例えば大学の講義室だとか、講演会場の中での話。舌の先まで出掛かった言葉が、胃腸から伸びてきた一本の腕に引きずり戻されるかのような感覚。水中へ身を賭して飛び込むか飛び込まないか戸惑うこの瞬間に激しくなる動悸は、私だけに特異な持病なのだろうか。自らの欲望に従って限られた発言権を独占し、結果得られたものが賭け金を代償してくれたかどうか、暴風の如く一連のプロセスが過ぎた後もまだ心臓を痙攣させながら算盤を弾く私がいる。止めれば良いのに、とはよく考える。慣れないことを無理にして大恥を掻いた経験なんて一晩で語り切れないくらい経験したはずだ。それでも性格は変えられない。変わらない性格を尻目にして、理想的な振る舞い方のイメージだけが時間を経るにつれて私の中で肥大化していく。他者モーツァルトの才能を見極める目だけが暴走し、自らの破滅を回避し得なかったサリエルを思い出す。もっとも私の場合は、サリエルになれさえすればそれだけで御の字なのだが。理想は高くあるべきだ。海外と比べて日本の学生は大人しいと言われているが、教室の中で沈黙を守る彼らの多くは積極性が無いのではなく、求められる水準を満たし、新たに議論を創発するような発言ができないと自己検閲しているがためにそうした態度を取っているものだ。「subject」とは、「主体」であると同時に「従う」ことを存立要件とするものである、とは言うまでもなくポスト構造主義辺りの人間が耳に胼胝ができるほど論じてきたことだ。私も立派な「subject」の一人である。”他人のことをとやかく言う資格はない”。私のために、私は私を認めることが出来ない。ダンテ曰く、地獄の最深部にあるコキュートスでは、肉体を現世に残してきた罪人の魂が永遠に氷漬けにされているそうだ。彼らの罪状は「裏切」である。「裏切」が盗みや殺戮以上の罪として扱われる理由、それは後者が人間の「肉体」に対する暴力であるのに対し、前者は人間の「魂」を傷付ける行為だからだと言われている。パンのみで人が生きられるのであれば、生とはどれほど気楽なものだろうか。私は私に裏切られている。理想的な「私」を私は満たすことができず、私を放置したまま「私」だけが膨張していく。互いに認めることを許さない私と「私」が、背中合わせになって氷塊に押し込められている。お前はもう何も言うな、その幻聴から逃れられないでいる。これが私にだけ当てはまる話であるなら、この社会にも希望があると言えるだろう。
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今年2016年7月26日の早朝、神奈川県にある障碍者福祉施設で戦後日本における最大規模の殺人事件が起こったことは記憶に新しい。容疑者は犯行の約半年前に勤務中のトラブルから緊急措置入院を要請され、そこで「大麻精神病」「非社会性パーソナリティ障害」「妄想性障害」などの診断を受け、10日間の入院生活の後に退院したというが、ここから単純に「障碍者が障碍者を傷付けた事件だ」と早合点してはならない。「障碍」という概念は特定の問題を治療し得る対象として相対化させるために用いられるべきツールであり、その人のパーソナリティと切って離せないレッテルとして、つまり「障碍-者」として用いた途端に非人称的な差別構造を生じさせてしまう両義的な言葉である。彼のような人こそがそうした罠に最も陥ってはならないはずなのに、まんまとそこに引っ掛かってしまったことはこの事件の一つの悲劇的側面だろう。老いについて近年盛んに発言を繰り返す社会学者上野千鶴子は、この事件にあたって、老いを重ねることで自分もまた社会的重荷の立場にいずれ置かれることになるという事実を想像できなかったのだと、そして社会的弱者の生存が保証された超高齢化社会の到来を祝福できなかった若者だと論じている。彼がすでに「障碍」の診断を下されていたことを鑑みるなら、彼が行ったことは未来の自分の否定(たとえそれが無意識、無知ゆえにであったとしても、無視すなわち事実の否定であることに変わりがない)であるに留まらず、他者を介した現在の自分の間接的否定でさえある。では彼が依って立った基盤は何であったか。「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為」だと、2月に彼が衆院議長に渡そうとした手紙にはそう書かれていた。つまり彼の中では一連の行為は自分のために実行したわけではない。自分の行為が誰かの利益に繋がる、ゆえにその誰かは彼に感謝すべきであるという、他者のまなざしを騙る転倒した独我論である。目標は他者に資することではなく、他者に資することで自分の存在を価値化することであり、この存在の意味付け構造こそが問題になるべき点である。「優生思想」であるか否かは副次的な問題に過ぎないし、そもそもの「優生思想」とはこのネオリベラリズム社会・日本において誰しもが分有しつつも取り扱いあぐねる普遍的な困難のことだ。存在価値を巡って、”偶然”選ばれたのが「優生思想」であるに過ぎない。それにしてもしかし、彼の選択が彼の中で持つ意義は、絶望の円環を描き一つの完成に至っている。彼は、彼を含む「障碍を持つ人間」の社会的な生を抹殺した、つまり殺人と同時に自殺に踏み込んだわけだが、彼の自殺もまた即刻にして彼の中における彼の存在価値の付加に連鎖する。自分が処刑される直前にユダヤ教徒に改宗すればユダヤ人をまた一人多く殺せるということか(アイヒマンにまつわる真偽が不確かな逸話)。彼は自覚が無いだけで、ダブルスタンダードにより自分を特別視する不正義は犯していない。彼の正義が彼を自殺に導いた。それ以外の道は無かったのか。
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物事の源泉を辿っても終着点は見えない。私の記憶は、コロコロと音が鳴る玩具に触れたこと、ショッピングセンターの託児所に預けられていた時に、『ドラえもん』のガキ大将ジャイアンの如く厳めしい表情の別の子ども(「別の赤ちゃん」と呼べば良いのか? その頃は他者をどういうものとして見ていたか、今も昔も定かではない)に積み木のブロックで頭を殴られたこと――これ以上の過去は記憶として再構築することが能わず、透明な歴史としてもはや触れることができなくなった。私にとって他者とは自分を害する敵に他ならなかった、と極論することは出来ないが、周りの子以上に人見知りが深く長く続いたことから過去を思い返すと、諸悪の根源ジャイアンこそが私の人生を穴だらけにしたのではあるまいかと、悔しさとも怒りとも虚しさとも取れる感情に困惑する。残念なことに、遺伝子1%環境99%の人生で双方の歪みを以って形成された私の幼年期は、近現代社会科学によれば「ハビトゥス(習慣)」という形で一生引きずらなくてはならないものらしい。つくづく科学とは役に立たないものだ。私にも「青春を返せ裁判」を起こす権利はあるのではないか。もっとも、相手がいなければまた勝ち取った賠償金を使って精子から人生をやり直せるわけでもないが。私自身、新社会人として来たる仕事生活から目を逸らし、楽しかった過去の学生時代を無限に回想する女の子に対して遠回しに悪態をついたものだったが、その自分が過去のことで延々と愚を痴れることになるとは想像力の足りなさを痛感させられる。学歴など関係ない、実存は本質に先立つだなんてことは東大卒、パリ高等師範学校卒が言うからこそ有難みを持つ言葉だ。能力のある人だけが能力の有効性を否定できるという、一周回ったエリート主義である。過去など関係ない、そう言える地点まで私が辿り着けるかどうかは分からない。私の中における「他者」のポジショニングチェンジが行われていれば――。実力主義者として生きるには、二十年掛けて私が獲得してきた人格・能力はあまりに頼りない。だからと言って私が(少なくとも表向きには)実力主義者であろうとするのは周辺環境がそう強いるからではなく、愚か者なりに限界を見定める義務があるとの倫理的要請を信仰しているからだ。この性向が「権威主義的パーソナリティ」と呼ばれるものと中らずと雖も遠からずの関係にある予感だけは薄々感じている。
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「オルタナ右翼(Alt-Right、以下AR)」と呼ばれる人たちがいる。アメリカ合衆国次期大統領選で、我々の「常識」からすると「異常」な暴言を吐いていながら、2016年11月現在なおも政敵ヒラリーと拮抗を続ける共和党代表ドナルド・トランプの台頭に合わせて私はこの言葉を耳にした。このARたちが批判の対象としているのが、リベラルの欺瞞性に他ならない。啓蒙と寛容を淵源とし、「フィール・グッド・ステイト」(ヒラリー)を標榜するリベラルは、平等や自由を保証していながらも、末つ方は能力の高い集団がそうでない人々を外部に追いやり、貴族主義ではなく資本主義に基づくヒエラルキーを形成するものでしかない、と。根拠のない理想を掲げるのではなく、資源の開発や、不法移民の強制退去、テロのリスクを縮減させる政策の方が明瞭かつ現実的であるとして、トランプ候補に一定の支持が集まる。特筆すべきはARに「性的少数者」が目立つという事実だ。そしてその中にはミソジニスティック(女性嫌悪)なゲイも含まれる。リベラルの掲げる「多様性」とはこうした存在を許容するのか――「多様性」とは「何でもあり」を翻訳したものに過ぎないと、例えばARの理を認める社会学者宮台真司はそう述べる。それが衝突しない限りにおいて、差別感情の存在を彼らは肯定する。私はどんな人種、生き方も許容できるだけの器を持ってない、と。宮台は映画『コングレス未来会議』で描かれる仮想現実のイメージや、ゲーム『ポケモンGO』的な拡張現実をして、技術によって「見たいものだけを見、見たくないものは見ない」時代の予兆であるとする。しかし既に、そうした仮想現実と現実のあわいに人は到達しているのではないか。
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ネット空間。SNS隆興の昨今はその様相を丁度変えてゆく途上ではあるが、私が十代の頃に経験した匿名空間としてのネットの側面は今日なお消滅することなくその片鱗を覗かせている。今年は特に、その名を冠した本が話題をさらったことから「ネット炎上」という言葉が広く人口に膾炙した年であるが、ネットを通じたコミュニケーションの手軽さが匿名性によって支えられており、「ネット炎上」が逆説的にインターネット・コミュニケーションの「快適さ」の証明になっていることは皮肉な話だろうか。「快適」故に大量の情報(文字通りのビッグ・データ)が日々生産され続けており、処理能力の低い我々人類のためにそれを整理するアーキテクチャGoogleのおかげで、短時間のうちに「見たい情報」に辿り着くことが可能となっている。NG設定を入力すれば、「見たくない情報」は二度と目の前に現れないよう個別対応すらしてくれる。ゲイ・カップルのツーショットも、女性蔑視なイラストも見ないでいられる社会は既に実現されている。Twitterのタイムラインなど、「見たい情報」だけを開示するアーキテクチャでなければ何と言えよう。もっとも人はTwitterのみにて生きるにあらず、多くは複数メディア間の往復において各々の「社会」像を形成しているわけではあるが。私が苦しまないためのたった一つの冴えたやり方、それは今の私の承認欲求を満たしてくれる人だけをフォローすれば良い。AR的方法はある意味で健康だと言える。溜まりに溜まった「本音」が一気に噴出する前に、少しずつ出して慣らしていくというやり方。相模原のような事件を防ぐための方途は、思想を共にするがしかし、決して過激な手段に訴えない共同体に彼を参入させることだったのではないか。こうした発想がARから学べることだと言える。注目すべきは、かつてリベラルな空気の温床であったシリコンバレーから急進的なテクノロジスト版オルタナ右翼が現われていること(宮台は彼らをネトウヨ的右翼と区別し「新反動主義」と分類する)である。制度による変革ではなく技術による変革を目指す彼らのスタンスは、まさしく彼らが開拓したネット空間で「臭い物に蓋をする」コミュニケーションが流通する、という形で見事に現実化されている。AR(オルタナ右翼)的な社会は政治家ではなく技術者によって、まさにAR(拡張現実)の開発と歩みを合わせるかのように展開の途上にある。
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さて、AR(オルタナ右翼/拡張現実)によって私の自意識もコキュートスの地獄から解放されれば良いものだが、どうやら私の承認欲求はそう簡単に満たせないものらしい。仮に私を認めてくれる人だけを視界の内に収めたところで、視界の外で誰かが私を嘲笑っているのではないかと、こうした不安を拭うことが出来ない。これもまた意識的に操作できない「ハビトゥス」だと言えようか。胸の苦しみが大き過ぎる時、一時的な麻酔でしかないがこう考えるようにしている。所詮愚民しかいないのだから、と。こうして矮小なる私の自尊心は健康を取り戻すわけだが、これはおそらく悪い方法でもあるまい。

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