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剥離――メディア時代の音楽論

1.

アウシュヴィッツ以後に詩を詠うことは野蛮だと、そう語ったのはテオドール・アドルノである。だが二十世紀最大の詩人の一人パウル・ツェランが現われたのは、まさに強制収容所という闇の奥からであった。この符号を単なる皮肉と笑い流すべきか。アドルノの人口に膾炙したかのテーゼの真意は、文化というものは詩を産み出すのと同様にアウシュヴィッツを産み出した、ゆえに詩を書くよりもあらゆる野蛮の元凶である文化を問い直す必要がある、だとして捉えられよう。では、ツェランは「野蛮」を回避できただろうか。否。むしろ野蛮を自ら引き受けること、「あけがたの黒いミルク」を脅迫的に唱え続けることでヒューマニティーを瓦解させる詩を書き上げた。野蛮な世界を嘆く詩人では決してない。世界の、詩の、そしてアウシュヴィッツの野蛮さと自らが相互浸透していたことを自覚した詩人である。詩の野蛮さとアウシュヴィッツの野蛮さは切り離せない。個としての人間とは切り離されてユダヤ人という記号だけが遊泳し、その記号を以って「殺すべき生き物」として個々を囲い込む。個としての人間とは切り離されて言葉という記号だけが遊泳し、その記号を以って「この詩は何を詠ったものか」と詩人を囲い込む。言葉があり、それを発した詩人がいるなら、その言葉の真意というものを詩人の能面の向こう側に求めてしまうものだ。しかしツェランの反復的な詩は何かを詠ったものではなく、それ自体で反復を脅迫する一つのアウシュヴィッツ機械なのだ。ようこそ、野蛮な詩の時代へ。

ツェランと同様にユダヤ人であり、幸運にもアメリカで生まれ育ったスティーヴ・ライヒは、1988年にホロコーストを扱った一つの曲を書き上げる。1940年頃、ニューヨークで暮らしていた幼きライヒは、ロサンゼルスに離れて住んでいた母親に会うためにしばしば汽車で旅に出ることがあった。もしあの頃、汽車に乗るのがアメリカではなくヨーロッパ大陸においてだったら、自分もまた強制収容所へ連れて行かれたのではないか――そうして完成した曲に《Different Trains》という名前が付けられた。あらかじめ録音された弦楽四重奏の演奏、汽車の走行音、断片的な話し言葉、サイレンの音、そしてそれらに追随して演奏を行う弦楽四重奏からこの曲は編成される。ミニマルミュージックの巨匠として取り上げられることの多いライヒであるが、この曲の特徴は録音された話し言葉からその音階を分析・抽出し、それをカルテットが模倣するところにある。“From Chicago, to New York”という言葉に被さり、メロディアスに欠けたメロディーが弦楽器により奏でられる。ライヒが並べた言葉の断片を探ることに意味はない、というのも彼はそれらを意味によってというよりむしろ「音程の抽出しやすさ」によって選別したからである。すなわち、ピタゴラス音階という規範(code)と弦(cord)楽器の構造が、これらの言葉の並び方に影を落としている。《Different Trains》がホロコーストを扱った楽曲だと言えるのは、こうした作曲システムのレイヤーにおいてであり、「表象」や「感性」を持ち出して美的経験から「ホロコーストと音楽」などと語ることは勘違いも甚だしい。ホロコーストと音楽の悲劇性とは、それに関わった人間が反復も共有もし得ない経験を共有すべくいかなる言葉を発しようと、ピタゴラス音階というコードによってオートマティックに切り刻まれることであり、 “One of the fastest train” という言葉が曲の中に配置されることに必然性は無いという代替可能性である。スティーヴ・ライヒという人間の運命に当てはめてみれば、彼がアメリカに生まれたことにも必然性はなく、誰かの代わりに強制収容所行きの列車に乗せられていた可能性も同様にあった、それが悲劇なのだ。機械仕掛けの神ならぬ、機械仕掛けのピタゴラス音階に運命を左右される言葉。ホロコースト以後に詩(うた)を詠うことは野蛮、なのではない。ホロコースト以後の詩は野蛮に詠われる他がないのだ。反復し得ないものをあたかも反復できるかのような顔で歌うか、一回的なものから遠く離れたところで鍵盤を打ち鳴らすかを選ばねばならない。そうして書かれた楽曲は、人間を置き去りにすることで「野蛮」から「非人間的」に移相する。

2.

一人称の歌が、突如三人称に変わることの魅力について。そもそも、歌に人称など求めることが勘違いかもしれない、なぜなら小説のような描写が歌の本質ではないのだから。

1988年から遡ること15年、いや、150年。創造者たる神に向かって、「我々は(Wir)」と一人称複数で呼びかけるのはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンである。「交響曲」という様式は個人の感情を代理しない。ガムラン奏者の楽団のように、森羅万象との交信という音楽の原始的ロールに少しでも意識的であれば彼も全く違う歌詞を書いたことだろう。音楽によってトリップするのではなく、音楽の内部にトリップするのが交響曲第九番であり、そこで互いに対位した楽器たちが対位法の調和を作り出すのである。音楽それ自体が森羅万象となり、その舞台で個々の楽器が蠢きまわる、それが交響曲である。ゆえに第四楽章におけるバリトンの一声は、オーケストラが奏でてきた第1,2,3楽章を否定する。そして否定することで、人口に膾炙した「苦悩を経て歓喜へ」のモチーフが現われる。

 

O Freunde, nicht diese Töne! おお友よ、このような旋律ではない!

Sondern laßt uns angenehmere もっと心地よいものを歌おうではないか

anstimmen und freudenvollere. もっと喜びに満ち溢れるものを

 

Freude, schöner Götterfunken, 歓喜よ、神々の麗しき霊感よ

Tochter aus Elysium 天上楽園の乙女よ

Wir betreten feuertrunken. 我々は火のように酔いしれて

Himmlische, dein Heiligtum! 崇高な歓喜の聖所に入る

(『交響曲第九番』、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、1824年初演)

 

第九は音楽であり、歌であり、そして何より祝典である。ベートーヴェンに限らず、楽器編成は曲の主題と密接な関係にある。フランツ・シューベルトは失恋した若者を歌い(歌曲『冬の旅』)、モーリス・ラヴェルは頽廃の果てに崩壊する貴族の舞踏会を三拍子でコンダクトする(管弦楽曲『ラ・ヴァルス』)。要するに、楽器の数が増えるほど主語が巨大化する傾向があるのだ。巨大化し、大勢の自分でない人間の喉を借りる必要が出てこれば、そこで語る主体の一人称は「Ich(私)」ではなく「Wir(我々)」でなければならないし、語り掛ける対象も「du(君)」ではなく「millionen(諸人)」か、さもなくば「Gott(神)」でなければならない。この構造は現代でも変わらずにある。思い出して欲しい、街の至るところに「黄色い潜水艦」があり、いともあっさり「我々」を音楽の海の底へ連れて行ってしまうことを。

              We all live in a yellow submarine

              Yellow submarine, yellow submarine

              (『Yellow Submarine』、The Beatles、1969年)

ザ・ビートルズの『イエロー・サブマリン』もまた、「我々」への呼び掛けを怠らない。ここでいう「我々」とは、歌手と聴衆のすべてを包括したものだと考えてよかろう。基本的な構造は共通するがしかし、「第九」が天へ天へと上昇する意志に貫かれているのに対し、ビートルズの方はというと脱力しきった声で海底へ沈むばかりである。スポーツという祝典が行われるアメリカのシェイ・スタジアムで史上最大のロック・コンサートを行ったのも彼らだ。たった四人の人間が五万を超える群衆に対峙した、のではない。それが起こるのは格調高き芸術劇場においてであり、スタジアムにおける「we」はオーケストラの如く組織化されたチームではなく、マクスウェルの悪魔だけがその行動を先読みできる分子のスープに他ならない。千鳥足のこの群衆が、かつて誰もが求めて止まなかった天国に向かって大砲を撃ち放つのも無理のない話である。

              Aye, aye, sir, fire!

              Heaven! Heaven!

              (『Yellow Submarine』

 狂乱を囲い込むシェイ・スタジアムの最期を飾った曲もまた、演奏家と観客を綯い交ぜにする歌である。

              Sing us a song, you’re the piano man

              Sing us a song tonight

              Well, we’re all in the mood for a melody

              And you’ve got us feelin’ alright

              (『PIANO MAN』、Billy Joel、1973年)

 その名も『ピアノマン』と題されたこの曲が書かれたのは、ライヒの『ディファレント・トレインズ』より遡ること十五年、すなわち1973年。録音した肉声がピタゴラス音階へ還元される以前から既に、歌は「私たち」や「私」という地盤から離陸し始めていたことはベートーヴェンについて前述した通りだ。しかし『ピアノマン』に関して特筆すべきことは、「私」の視線から語られるかと思えば、サビに入った途端に「私たち」視点からの語りに遷移するということである。複数の「私」のせめぎ合いでもなく、雲のように漂う「私たち」でもなく、「私」であると同時に「私たち」であるという捉えがたいこの曲の主体が意味するのは、ピアノを弾くビリー・ジョエルと、詩を歌うビリー・ジョエルとが切り離されているということである。ジョエルがバーで働いた経験に基づいたこの曲は、ピアノの旋律がバーで演奏するピアニストを想起させる一方で、他方で口から発される詩はそのピアニストに背中から語り掛ける。他人の喉を借りずに自分の喉だけで歌いながら、一人称複数でなければならないのは――いやむしろ、一人称複数であるからこそこの曲は人々によって歌われるのだ。ポピュラー音楽という領域は、舞台の上から特権的な声を引き摺り下ろした。シェイ・スタジアムの本当の最後を飾ったのは、ジョエルではなく数万もの観客による合唱であった。

つまるところ、一人称複数で語ることが勝利の秘訣であったかと思われたのだ。自分語りから他人語りへ、そしてその極致にある一つの曲は、「私」を抹消する『ディファレント・トレインズ』である。ではもう少し先を見ることで、「私」無き音楽の将来を案じてみることにしたい。

3.

「タイプライター」という言葉が機械と職業名(今では「タイピスト」で知られる)という二つの意味を持つという話をフリードリヒ・キットラーはしばしば出しているが、「書く」という行為が尖筆からキーボードへのメディアの変遷によってその様相を変貌させたことは意識しておくべきである。削ることによってではなく、穴を開けることによって。それがコンピューター時代における「書く」という行為が指し示すところのものだ。

高橋源一郎の詩に現れる読めない文字や、ミュージシャンプリンスが「♂」と「♀」を組み合わせて自らの「名前」にした発音不可能な記号。詩の三千年の歴史の中で、意図的に読みを妨げる文字が出没し始めたのはここ数十年の特異な事象であり、それこそがまさに、喉の振動から手の平の運動へ、そして指先のタイピングへと転位することによって起こった言葉の変容である。言葉を話すように文字を打つのではなく、文字を打つように言葉を話す。それが高度情報化社会におけるグーテンベルグの銀河系である。

嗚呼…傍で歩みを見守れな0102のが…無念ですが…どうか…凛と往きなさ0102

愚かな母の唯一の願0102です…アナタは――

『0302・0101・1001・0304・0502・

0105・0501・0902・0501・0301・0102』

(Sound Horizon《11文字の伝言》、『Roman』収録、2006年)

「音の地平線」という唯物的な名前を持っていながら中世ロマン主義的な物語を歌い続けることに苦言を呈さずにはいられないが、ともあれ彼らほど二十一世紀現代の音響環境を意識した作曲活動を行うアーティストはほとんどいるまい。第二次世界大戦でナチス・ドイツが発明し、技術者アラン・チューリングによる解明がなされるまで連合側を困難に追いやった暗号機エニグマほど複雑ではない。音楽ユニットSound Horizon(以下、サンホラ)の仕掛けた暗号を解く鍵はキーボードを見ればすぐに解る。

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これを歌った音源を聞けば「0102」が「い」であることは確認できるのだが、ではこの「0102」が意味するところのものは単に「い」なのか? 歌を聴けば、これは母親が子どもに宛てた歌だ、と考えられる。しかし歌詞を“見る”ことで、これは何らかの暗号装置を通して遠くから送られてきたメッセージではないか、とさらに推理することが出来る。そして最終的に到達する地点は、四桁の数字を操りメッセージをタイピングする技術者の身振りである――など、解釈する余地は十分にあるのだが、本稿ではそれらの経験の形式にのみ焦点を当てるべきだろう。サンホラは音と言葉を切断し、その後それらを組み合わせて『11文字の伝言』という一つの作品にする。音源か歌詞かのどちらかだけでは機能せず、それぞれを互いに照応させることによって初めてサンホラ的物語/世界観は駆動し始めるのだ。すなわち、サンホラもまた「私」の発露としての音楽からは遠く離れ、ベートーヴェンの第九やビートルズの潜水艦と同じく、複数的な主体が蠢きまわる架空の世界/場を表現する音楽家なのだ。「0102」からは、一人の女性と一台の電子計算機のせめぎ合いが垣間見られるのではあるまいか。

音楽に現れた不可読な言葉。これが一人称複数の主体を通り越して“零”人称とさえ呼べるような様相を呈するのにそれから一年も要しなかった。

曖昧3センチ そりゃぷにってコトかい? ちょっ!

              らっぴんぐが制服…だぁぁ不利ってこたない ぷ。

              がんばっちゃ♥やっちゃっちゃ

              そんときゃーっち&Release ぎョッ

              汗(Fuu)々(Fuu)の谷間に Darlin’ Darlin’ F R E E Z E!!

              (『もってけ!セーラーふく』、作詞・畑亜貴、2007年)

ここに挙げたのはほんの一例である。吉増剛造も顔を真っ青にするような華麗なオノマトペさばき、言葉の自由。詩としてこの曲から学べるものは多量にあるが、ここでは例によって形式に焦点を当てるに留めておく。読んで頂ければ解る通り、主語が解らない。しかし、一見ふざけているようにしか見えないこの歌詞もまた、「私」から遠ざかる音楽の歩みの一つに位置付けることができるのではないか。その聴取の場がスタジアムではなくディスプレイ上だという変化はあるのだが。

文字数:6323

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