「」、そして底無しの余白
A課題:
B課題:
漫画における説話とは、発話された言葉と心の内で唱えられた内語による階層構造を以って進展するものである。発話と内語は互いを隠れ蓑として利用し合う関係にあるのではなく、常に弁証法的に第三の、より真相=深層に近いメッセージを創出すべくあくまで可視化された推理要素としてレイアウトされている。では、内語が描かれない漫画はどう深みを持つか。
藤子・F・不二雄作『コロリころげた木の根っ子』(以下『コロリ』)は、発話のみによってミニマルに語られるある夫婦を描いた作品である。本作には、物語の余白を補完する第三メッセージを発話と対立しながら産み出す内語は描かれない。しかし、夫に日頃暴力を振るわれる妻が、夫に従順な顔を見せる一方で、巧妙な殺人計画を密かに練っていたことが最後の2ページで明らかにされると、話の要所要所で主人公が躓いた標石の意味が暴露され、なんとも後味が悪く、そして同時に勧善懲悪の爽快な結論にわれわれ読者は置き去りにされる。
この転回こそが本作品のカタルシスである。一方的に夫のマチズモ的支配に晒されていた妻が、自らの手を汚すことなく夫を消滅させるトラップを家中に張り巡らせており、更に傑作なことだが、作家である夫はあたかも既にこの妻の欲望を自らに転移させていたかのように、「徹底的に受け身の人間」を主人公とした作品(そのタイトルが『コロリころげた木の根っ子』であることはまた、本作の入れ子構造をも暗示している)を書こうと着想を得る。この作品の面白さはこれで十分伝わるはずだ。
では、それが作品の「全て」だろうか? 発話においては夫に従順な妻が、そして夫に秘匿された内語としての行為においては事故死を謀る妻が描かれ、その弁証法の中で「無言の裏で殺意を溜め込む妻」というサスペンスフルな真相=深層が明らかにされる。藤子はこのオチを以って読者に極上のカタルシスを提供したことだろう。しかし、このどんでん返しこそが作品の核心だと措定することは、一つの時点の相対的判断でしかないものを絶対化させてしまう誤謬に等しい。それはまさに、作品解釈の揺らぎを凍結させて、無味乾燥な安心感を生徒らに強制したがる我が国の悪しき国語教育の反復である。ならば、残された余白をこじ開けて「作品」という底無しの淵をもう一段階降りてゆくのみ。
では、「無言の裏で殺意を溜め込む妻」という真相を切開し、解釈の深淵を覗き見てみよう。たとえば、実は「夫を強く愛していた」のだという突拍子の無い解釈の可能性を巡り、何を語ることが出来るだろうか。
このような読解はそもそも可能なのだろうか。というのも、作品中にそれを示唆する要素は一切現われてこないのだ。しかし同時に、それを反証する要素もまた作品には見当たらない。であればこれは考慮に入れるに十分値する思考経路だと言える。
夫の生存を家事によって支える一方、巧妙な罠によりその存在を消滅させようと企む妻の矛盾した行動がどうして「愛」と関連性を持つと考えられるのか。
まず我々は、話の前提として「愛」や「愛している」の定義を提示しなければならない。しかし、いや、だからこそ、ここに問題の核心が潜んでいる。それは妻について考察する前に、夫に焦点を当てることですぐさま明らかとなる。作家であり家庭の暴君である夫は、あたかも告白するかのように「愛情をもって妻に接している」のだと主人公に語りかける。あるいは、結婚記念日にも関わらず仕事に追われる主人公を置いて実家に帰った主人公の奥さんについて、より圧迫的に支配することで妻を「飼い慣らす」べきだと、作家は主人公に声高に講説する。
「奥さん、教育がなっていませんな。
女房なんて力づくで押さえるべきものだよ。
けっきょく女がしたがうのは男の強さだけなんだから。」
「なにをいうんだね。あそこまで飼いならしたのはぼくだよ。
ヤツも最初は猛獣でしたよ。
ぼくが、牙をぬき、爪を切ったんだ。
なによりきいたのが最初の一発だったね。
新婚第一夜!ぼくがなにをやったと思う?
ヤツをほったらかして、芸者買い!!
男ならガーンとやりたまえ、ガーンと!!」
彼は自らの振る舞いに躊躇することを覚えない。なぜなら、彼は「愛」によって妻に対する彼の全ての行動を正当化するからである。何にしても「愛」ゆえに実行されたのであれば夫として正しい行いだ。これが彼のロジックである。
その夫とは対極的に、妻は「愛」を定義しなければ、「愛」を或る目的のために利用することもない。妻の「愛」とは“「」”である。「対象から爪と牙を抜いて支配下に置く」ことを「愛情」だと定義する夫のロジックは、妻の戦略において完全にナンセンスなものと化す。妻の中において、「愛」とはただ夫に向けられる“「」”でしかない。何も指示しない“「」”は、夫を養うことも、夫を消滅させることも逆説的に包含する。
妻は、彼女の行動の中で無言のまま「愛」を行動するだけである。ここにおいて、本作が単なる家庭内暴力を扱ったサスペンスでないことが明らかになる。『コロリころげた木の根っ子』は、「愛」を囲い込もうとする夫と、“「」”によって「愛」を定義から解放しようとする妻の闘争の物語である。
「無言の裏で殺意を溜め込む妻」という真相よりもっと深く、「定義されることのない愛を実践する妻」という真相が上記において明らかにされた。だがここで再び、我々の議論の出発点を議題に置き直す必要があるだろう。「残された余白をこじ開けて「作品」という底無しの淵をもう一段階降りてゆくのみ」と宣言し、この読解は開始された。
ならば次に進むべき方角も見えているのではないか。発見された真相を、それもまた一つのヴェールでしかない仮説を突き破り、作品の無数の余白から覗き見える底無しの淵へと、再び。
次は、「夫は妻が自分を殺そうとしていることを実は知っていた」と仮定してみるのはどうだろうか。夫は妻に対する暴力を「爪と牙を抜いて支配下に置く愛情」によって正当化していたが、実際のところは完全に妻の抵抗手段を封鎖するに至ってはおらず、「愛情」の達成は中途半端に留まっている。或いはまた、その日発行された新聞の事故死に関わる記事を切り抜き、殺害計画のスクラップブックを作るという習慣を勘付かれることなく妻が持ち得ることからして、彼は彼女が家中に設置する罠を意図的に放置しているようにさえ読み取れるのではないか。
であるならば、夫は上辺では妻を愛し、信頼する夫を演じているが、心中では真逆の思考が働いていることになる。その倒錯した心理状況下で果たして夫は本当に妻を「愛している」と言えるのだろうか――。
さて、底無しの余白を楽しめる者にはどうかこの先の読解を試みてほしい。私はここで筆を休めることにしたい。
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