川久保玲→Aitor Throupにおける「モデル」の問題系
1.B級入門
味噌カツや明石焼き、油そばから讃岐うどん。「B級グルメ」と呼称されるカテゴリーがある。1985年を端緒に日本各地へ飛散したこの語は、30年以上が過ぎた現在なおも影響力を保持し、日本の食文化における巨大な錬金鍋として深くこの大地に根を下ろしている(コムデギャルソンの話はもう暫く待って頂きたい)。
「B級グルメ」に関して注意したいことは、決してそれは認識の一範疇に留まらないということである。B級とは、常に未完成なる蛮骨さを以って味覚に猪突猛進するチャレンジャーであり、A級としての完全な調和を常に先送りにされた形で担保するものである。
B級とは、あえて逸脱し、宙吊りにして、それによって明確に、延長・潜在性・向こう側にいるマゾヒストを射程に置く、特別の装置なのである。(郡司ペギオ幸夫『いきものとなまものの哲学』青土社、2014年、p.247)
郡司はB級を、生命を説明するための一つの構造として論ずる。曰く、生命とは「具体的なものと抽象的なもの、こういった相異なる装置の区別を担保しつつ混同する、ダイナミズムである」(p.239)。抽象的に、サディスティックに構築された「焼きそばの味」という全体は、通常より三倍盛られた辛子という部分によって壊滅的な侵略を受ける。それは本来の焼きそばではない何かに変貌しながら、「どうですか、新たな味は」と牽強な提案を持ちかける。辛子という部分が、部分であるままにして全体を略奪する動力学。部分と全体とが軋轢を起こし、繰り返し流転する磁場としてB級を捉える時、B級は生命進化に留まらず、衣服と身体――すなわち感性的身体のあり方をも示す構造となる。
服飾デザイナーの前衛たちが、衣服だけでなく身体に焦点を当てるのはなぜか? それは「モデル」というA級の理念(イデア)に対し、わたしたち個々の身体は否応なくB級に位置せざるを得ないからだ。
2.コブとモデル
衣服にとって人間の身体とは何か?
これは些か滑稽な問いだと思われるだろうか。そもそも身体の側が衣服を求めるのであり、衣服が身体を云々するなどはただの擬人化的空想であると。マーシャル・マクルーハンの名高い命題、「メディアは身体の拡張である」に倣えば、衣服というメディアは身体、特に皮膚の拡張だと言える。しかしこのロジックは間髪入れず次の問題を呈する。衣服が皮膚であるなら、人は不可避に裸の王様として街を歩くのだろうか? 幾度も唱えられるモード論の定説をここでも反復せねばならない。服は、隠すためにあるのではなく見せるためにある。視線操作の政治的装置。見せるべき裸と隠すべき裸があるのだ。
裸としての裸。裸としての衣服。意味論的操作の過程を経た衣服は、身体との明確な境界を失う。そして最初の問いに答えを出すとするなら、衣服にとっての人間の身体とは、衣服それ自体と同水準にあるもう一つの衣服である。「第二の皮膚としての衣服」と「第一の衣服としての皮膚」との交差配列。
1996年、コレクション《body meets dress, dress meets body》を発表した川久保玲は、衣服以上に身体へラディカルな視線を注いでいた。「コブドレス」と称される一群のコレクションは、歴史上絶えず変形の欲望に晒されてきた女性の身体を新たな変形の位相へと転位される。そのドレスは、パッドによって通常の身体の上に曲面を描く巨大な「コブ」を作り出す。見る者に「普通」とは異なる身体形態を推測させずにはいない。コブドレスという問題系は、衣服がそのモデルとしていた身体の形態を、コブの身体を提示することで反射的に浮き上がらせる。
平芳裕子はこれを「形在る身体の限界を身体そのものに向けて突き詰めてゆくのではなく、身体に覆われている衣服の可能性において身体を脱中心化してゆく試み」(平芳裕子「抵抗する衣服、あるいは未熟な身体」、『表象のディスクール3』所収、東京大学出版会、2000年、p.209)だと批評する。全体の中の部分であったはずの「衣服」というエレメントは、全体を略奪し、身体の中心性を骨抜きにする。かくして郡司がB級に見出した生命モデルは、川久保玲における衣服と身体の相互浸透にもまた呼応する。
では、身体の限界を突破したコブドレスは果たして感性的「美」を獲得したのだろうか? コレクション発表の翌年1997年、振付師マース・カニングハムが舞台用に採用した川久保のこの衣装は、観客たちから些かの嘲笑を以って迎え入れられた。「美」であるどころかむしろ「フリーク」に近いもの――すなわち、コブドレスに結び付けられた二重の意味を読み解かなければならない。身体の限界を超える形態であると同時に、人間ではない何物かへと移行する狭間の奇形形態(フリークス)。奇形の形態は、人間の身体を肯定的に超越したものではない。
そこから考えなければならないのは時下なお継続する、東洋を捕縛する多層化したオリエンタリズムである。ファッション業界でのし上がるには西洋で認められねばならないという東洋の価値観、西洋にはない奇想こそが東洋の可能性だとする西洋の価値観。川久保が82年に発表した「ボロルック」はその固定化した価値観を逆手に取ることで成功し、オートクチュールに留まらないファッション全域を塗り替えた良き例である。しかし、「コブドレス」の評価は前衛ファッションシーンのみに限られた。なぜなら身体が脱中心化されることで、そこに人間でありながら人間の身体ではない形態が現われるからであり、それは「感性的に美しく」ない。
コブドレスはファッションモデルらの理想的なプロポーションを破壊する。それはモンゴロイドに宿命付けられた、コーカソイドに対する身体的コンプレックスの表出ではないか(カニングハムの舞台に響いた嘲笑は、彼女の欲望を解釈したが故のものではあるまいか)。だからギャルソンを着用する人々が大勢いる一方で、(そもそもオートクチュールは普段着ではないにせよ)コブドレスを着て街を歩いたり、カクテルパーティーに現れたりする人はいない。
では、コブドレス及び川久保の企図は失敗だったのだろうか? そうではない。コブドレスは徹底して正しいプロジェクトである。彼女が骨抜きにしようとした「モデル」は、未だ支配的な影響をわたしたちに及ぼし続けているからだ。「モデル」と呼ばれる人々が、なぜ他と違って美しいとされるのか、理想的なプロポーションを持つとされるのか、抜群の表現力を持っているとされるのか、その答えをわたしたちは知らない。無根拠という不気味さをそのままに、「美」の不気味な感性を形成し、疑いもなくその不気味さを内面化し、自らを監視し続けるわたしたちの不気味さ。川久保の問題提起はAitor Throupに引き継がれ、身体の、そしてモデルの新たなあり様を空間に彫刻する。
3.人形は表現する
2016年6月12日、イギリスはロンドン。教会に設営されたランウェイに異様な光景が現われた。全身から光を放つモデルが現われ、あるいは爆発して身体の一部に穴が開いたモデルが白い道を歩いた――しかし血は流れなかった、というのもそれは人形だから。
システマティックな手法で多くのスポーツウェアを手掛け、また洗練されたドローイングによって美術的側面でも注目を集めるデザイナーAitor Throupが17年春夏ロンドン・コレクション・メンズで行ったファッションショーは、まさにショーと呼ぶべき衝撃的な祝祭であった。舞台には大きな白い一つの箱。その四隅から、ワイヤーが長く天井へと伸びている。音楽が始まり、舞台奥から5人の覆面が現われ(みな同じ白い作業着を着ている)、箱をとり囲む。照明が落ちるや否や、ワイヤーに引き上げられた箱の下から操作用の棒が付いた等身大の人形が現われる。操り手たちによって生を得た人形(それもまた覆面を着けている)が歩き出し、「ファッションショー」という名の一幕が開ける。
Aitor Throupの手法が衝撃的なのは、ランウェイを歩くのは生身の人間だという通念があり、しかし主役である衣服を見せるという最低条件は人形が代替しても十分に満たされることを実践的にやってのけたことにある。人形はただの蛻の殻ではない。むしろ、人形こそがモデルの極北だと言えよう。美人が着るから美しい、醜人が着るから醜い――このようなバイアスを徹底的に排除し、衣服だけを見せる人形は真に「中立的」なマネキンなのだ。
しかし、彼のショーで衣服以上に目に入るものが、「中立的」な筈のその人形である。なぜか。その第一の理由は、先述の如くランウェイを歩くのは生身の人間だという習慣があるからであり、そして注意すべきは次の第二の理由だが、人形は人間と異なる「表現力」によって独自の磁場を発生させるからである。
人形は表現する、生身のモデルと同様に。以下の理路からそれは明らかである。
生身のモデルには「表現力」が求められる。それはもちろん思想の表明でなければ、感情の表出でもない。表現力とは「何かを表現“する”力」ではなく、「何かを表現“してしまう”力」に他ならない。見られる者たちが如何に「表現力」を獲得するか、ジョルジョ・アガンベンの言葉を借りよう。
「ファッションモデル、ポルノスター、自分を見せることを職業とするその他の女性たちがまずもって身につけるよう学ばねばならないのは、厚顔なまでの無関心である。すなわち、見せているという行為しか見せないこと(つまりは自らの絶対的な媒介性)である。このようにして、顔は爆発しそうなくらいに展示価値を帯びる。」(ジョルジョ・アガンベン『涜神』、月曜社、2005年、p.132)
表情を見せた途端に、そのイメージは単なる商品広告に成り下がる。モデル自身の欲望は隠されねばならない。それが暴かれた瞬間、全身の要素が一つのメッセージに還元され、陳腐な一人の政治家と化してしまう。それゆえ、「見せているという行為しか見せない」者だけが、一つの意味に回収されることのない「何か」を表現してしまう表現者、モデル足り得るのだ。そして、内部に伽藍洞を含んだ人形こそ、生身の人間に到達することの叶わない「究極の表現者」である。
加えて言えば、人形には無限に外科手術を行うことができる。Aitor Throupは人形を光らせ、或いは一部位を爆発させ、銃撃を受けたかのようなシチュエーション、もしくは呪術的な場面を演出する。操り手によって宙空に揚げられたまま運ばれる人形は、もはや人間の代わりではなく別なる存在のモデルでさえあるのではないか。
モデルの美貌というバイアスを排していながら、疑似的な中立性で以って人形は観客たちの視線を惹きつけて離さない。「モデル」を徹底して追究したところにある存在は、「型(規範model(「人形」とはまさに「人の形human model」であるのだが))」と呼ぶにはあまりに歪な存在感を放っている。それ自体「モデル」らしい美しさを持たないのであれば、人形を歩かせたAitor Throupの企図は何であったのか。
その手掛かりは彼のドローイングにあるように見える。日々素描がアップロードされる彼のサイト(http://thedailysketchbookarchives.com)には、ファッションイラストというよりむしろ『エイリアン』のデザイナーH・R・ギーガーの造形を彷彿させる、人間のパーツを持っていながら人間でない何かが描かれているのを見て取れる。半分近くは宙に浮いて地に足を着けておらず、ほぼ人間と思しき形態もその顔はマスクで隠されている。不気味であるがしかし、動的で洗練された印象をそこから感じ取ることが出来る。現実の人間のシルエットが何をおいても美しいわけではない。
これらの中から選ばれたものが実制作に移される。まずミニチュアサイズで模型に試着させ、それを人体スケールにまで拡大させる。完成形の予測不可能性が彼らの賭け金だと言えよう。つまり、人でない存在のためのファッションの探究。そして、それによってランウェイで歩く生身のモデルのイメージが、メディア上で理想形として凝固するのを阻止するのである。
人形もまた人間のモデル=理想(的なイデア)でありながら人間ではあり得ない人外として、一つのB級である。Aitor Throupのドローイング自体はA級でありながら、それを再現しようとすると(良く出来たことに)B級になってしまう。しかしだからこそ、彼の衣服はオートクチュールとして発表されていながらも、良き意味での庶民性=commonalityを今後獲得してゆくのではないだろうか。
4.人外――おわりに代えて
人間のためのファッションが終わることはない。だが、1996年に川久保玲が産み、2016年にAitor Throupが引き継いだように、人外を射程に入れたファッションの水脈もまた途絶えまい。ロボットだ、人工知能だと騒がれる昨今、それは増々重要になりつつあるようにさえ予感される。「表現力」なる曖昧で手の付けられない浮遊物を探究する限り、デザイナーとしてファッションの対象を人間に限定させる必然性はない(むしろ人間という枷から抜け出し、果てなき荒野を切り開いて頂きたいと思うばかりだ)。
だがしかし、ここであの不気味さを思い出さなくてはならない。何を究極の根拠にわたしたちがモデルをモデルたらしめているのか、その答えをわたしたちは知らない。それを知らないまま基準を内面化し、減算によって自らを測定する。時に苦痛を伴うこの不気味さを完全に避けて通ることはできない。であるならば、人外を探究することはこの監獄からの一つの脱出口ではないだろうか。
「モデル」という観念を脱中心化するものとしてのコブドレス。そして人形。衣服が第二の皮膚であるなら、皮膚は第一の衣服である。ファッションをデザインするということは、身体をデザインすることと同義である。デザインの役割とは、ゼロから一を作り出すだけではなく、今ここに在る一の新たな顔貌を開いて見せる=魅せることでもある。モデルでない人の「表現力乏しき」身体の使い方を、コーカソイドに「劣る」モンゴロイドの身体の使い方をデザインしなければならない。
問いは今なお継続している。
(※)本論考は、岡崎乾二郎の「芸術の条件」(『美術手帖』2011年2月号~3月号)の構成、文体を参考にして作成した。
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