二分の一の双生児として
選ばれなかった者について思考したい。
批評再生塾第一期最終課題として上北千明が書き上げた批評「擬日常論」は、昭和の延長線上にあるものとして2011年3月11日に起きた東日本大震災の意味、影響を浮き彫りにし、未曽有の大災害が「物語」という人工物に如何なる禍根を残したかを論じ切った批評である。このテクストの中で最も重要な概念である「擬日常」は、災害後も相変わらず怪しげな達示ばかりが届けられるこの「危機の時代」を過ごすためのヒントを秘めているようにも思われる。
しかし言うまでもなく、「擬日常論」には多くの批判すべき点がある。日常を回復しようとする営みが結局良いのか悪いのか曖昧なまま締め括られている、フィクションにおける「日常」を考える前に実際の生活上の「日常」を考えるべきではないのか、そもそも人間には日常的に「非日常」を欲望する傾向があるのではないか(神山健治『東のエデン』で、ミサイル攻撃を受けた豊洲を眺めるヒロインが放った「不謹慎だけど少しわくわくしてて、もっとなにかすごいことが起こらないかな」との言葉を、単なる「危機意識のなさ」で終わらせて良いのか?)――等。しかし、粗探しは行わない。一つの欠陥のみを指摘し、「擬日常」概念を補完する。それに拠って、「擬日常」概念の射程を拡げることに徹したい。
何故、上北は浅野いにおの『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』)内で、「擬日常」を生きる二人のヒロイン小山門出と中川凰蘭のみを、理想の現代人モデルとして選択したのか。
『デデデデ』に描かれる群像劇は、東日本大震災後の日本社会の一つの縮図であるということを此処で確認しておきたい。そこには主人公ら女の子グループのように、突如都心上空に現れた「母艦」という明白な非日常を意識しながら「疑似的な日常」を送る者もいれば、或いは「母艦」追放デモに加わり声を上げ、「非日常」に対し過大反応を示す者もいる。
小山門出の母子家庭にスポットを当てよう。娘の門出は大人しくも不謹慎な発言を辞さず、そして非日常を背景にした「擬日常」を学園生活とFPSゲームに明け暮れて過ごす女子高生である。他方母親の真奈美は、異星人との戦闘の中で微量ながらも東京全域にまき散らされた「A線」に大きな警戒心を抱き、常にゴーグルとマスクを装着した姿で生活をしている。門出は物語の中心に置かれ、そして表情を持った人として描かれるがゆえに、正反対に神経質でヒステリックであり、表情が全く描かれない母親を読者は比較的遠くに追いやってしまう。
この二人は初め、危機意識が全くない人間と、そして極度に「非日常」を意識する人間というように水と油のような関係として描かれる。しかし物語が進み、友人家のパーティーから帰宅したクリスマスイブの夜、誰もいない自宅で一人FPSゲームに没頭していた門出の元に、真奈美と彼女の再婚予定の男である高畠が帰宅する。二人は長野県まで車を走らせ、「A線」に汚染されていない食材で作ったケーキを買い、東京の家庭へと運び戻ってきたのだった。そこで一時的にも、円満な家族関係が再生されるのだ。だが「非日常」に対する彼らの姿勢が変化したわけではない。交わらないように見えていた「日常=家族幻想」と「A線汚染=非日常」が休戦協定を結ぶ交差点、それを無汚染のクリスマスケーキが出現させたのである。
浅野いにおという漫画家は、人物描写において姑息な手段を用いる作家である。彼の人気の一端も、恐らくそこに由来している。2013年に完結した『おやすみプンプン』も、2016年5月現在連載中の『デデデデ』もその点は共通する。表情を気味が悪いほど誇張したり、あるいは極端に隠蔽する。異星人の中型戦艦の墜落により元カノの栗原キホを失くした少年小比類巻も、その描写の典型的な「被害者」である。母艦の存在を強く危険視し、その存在を意識しない人々に憤慨し、国家機関やマスコミによる「陰謀」を信ずる彼が魅力的に見えないのは、文字通りこの漫画家が彼をそのように描いているからだ(主人公らが知り得ない、フリージャーナリストや兵器開発機関サイドの人間模様を我々読者は俯瞰することができるのだが、それに依れば皮肉にも彼は十分に正しい情報を掴んでいると言えるのだ)。
門出の母親真奈美、キホの元彼小比類は擬日常を生きる凰蘭と違い、疑似的ではない現実的な非日常を生きているのか。そうではない。圧倒的なリアリティとの適切な距離感を失って、彼らもまた疑似的な物語を、すなわち「疑似的な非日常」を生きているのだ。「セカイ」が「社会や国家のような中間項」を飛び越えて「ぼくときみ」に介入してくるのが実際の災厄であり、このフローを逆流させようとする不可能な試みがセカイ系という名の想像力である。我々は非日常を情報化、すなわち物語化、「擬非日常」化することによってのみ、それを分析可能な知識に変換することができる。それは、一方的に無差別な暴力を振るう非日常的な現実セカイに対する小さな抵抗手段である。この想像力があってこそ(或いはこれがある所為で)、人は身の丈を超過した行動へと躍り出るのだ。
「擬日常」と「擬非日常」とは、双方とも物語に依拠しているという点において優劣を判断できない双生児である。「擬日常」を生きる門出は、ドラえもんを模したキャラクター「イソベやん」を愛す。「社会を変えることも生活を変えることも期待されていない」イソベやんの「内緒道具」は、「ここにしかいない」「かけがえのない」人の元へ飛んで行くために使われる。「擬非日常」を生きる小比類巻は、日常を脅かす母艦という存在に向き合い、「ここではないどこか」を目指す。上北は、「かけがえのなさ」が「内的な確かさ」を産むという意味で門出の態度を肯定しているが、擬日常に覆われた非日常を頑なに見つめる小比類にも同じように、しかし違う形の「内的な確かさ」が認められる。これら二つの態度がともに両義的であることは明らかだ。「擬日常」は「擬非日常」のユートピア主義的暴走を防ぐことができるが、セカイから襲来する暴力に抵抗することができるのは「擬非日常」の側である。
いつでもカタストロフィーが起き得るのだと想定し、具体的な対策を張り巡らすことができるのは、「擬日常」に生きる鳳蘭や門出ではなく、ジャーナリストや小比類の側の人間である。「擬日常論」の欠陥は、『デデデデ』の中で「擬非日常」の物語に生きる人間を捨象してしまったところにある。
彼はなぜ選ばれなかったのだろうか。大きな要因は前述したように描写の形式にある。浅野いにおは、登場人物を彼らのポジションによって描き分ける。中心人物は個性が強いがしかし読者を惹きつける魅力を持つように(凰蘭、門出)、周縁人物は現実に身の回りにいるような人間のカリカチュアであるかのように(「放射脳」の真奈美、陰謀論者の小比類)。当然のように、後者より前者の方に読者の多くは感情移入し、より豊かな印象を残す。上北は描写のこの政治性に気付かぬまま、凰蘭や門出の「擬日常」の態度を理想的な生活モデルとしてしまったのではないか。実際のところ、誰もがそれぞれの小さな物語を生きざるを得ないというのに。
「人はなぜ物語を必要とするのだろうか。」
上北が最後に残したこの問いについて、「物語」を「夢」と言い換えるのは大袈裟でもあるまい。「擬日常」における夢と、「擬非日常」における夢。終わりなきかけがえのない日々と、そして現在から遠く離れた未来の展望。我々は自分自身の物語を不可避的に生きる。自らの物語が誰かの物語と相容れない時、これまで依拠していた地盤である物語は揺らがざるを得ない。日常だと考えていたものが非日常としての顔を露出する。変化を迫られる。こうして我々は物語のメタボリズムを繰り返すのである。
かけがえのなさは、かけがえのなさとして受け入れなければ誠実ではない。かけがえのない存在が次々に代謝されていく。その事実こそが、「擬日常」を疑似的でありながら、何よりも痛みを伴うものに形作っていくのだ。
この文章を書くまでのプロセスの中で、私は一つを選び、他を捨てた。ゼンマイの如く巻き戻すことのできない時間が、選ばれたものに配された。選ばれたものの名は「批評再生塾」と呼ばれる。ここに席巻する物語は、「批評/家は、いまや絶滅の危機に瀕している」、「批評と呼び得る営み/試みを再定立し、批評家と名乗り得る存在を新たに出現させることが、急務だ」というものだ。これらの言葉に署名した佐々木敦の見ている「批評の危機」が「擬非日常」だとすれば、私は双生児の片割れ「擬日常」側に目を向け、私自身の内的な確かさに依って思考を歩むささやかな異端でありたい。
また、批評の再生という「擬非日常」のために設けられた得点制という装置は、自由時間が限られた読者を補助する政治的形式である。それは同時に、選ばれなかった者の存在を希薄化する構造的暴力(主体が確定できない暴力)も備えている。決して独裁的ではなく、十数人の先達者によって視覚化される序列は、効率的に生きざるを得ない我々に読むべき文章を差し出してくれる優秀な仲介者である。とはいえそこで選ばれる文章は、その内容と同等かそれ以上に、「上位入選」という称号それ自体によって価値があるかのように思考を誘導する。それだけで好循環の輪に入ることができる。逆は言うまでもない。
一回一回の選出が一つの物語であり、十数回のそれを数珠繋ぎにした物語は巨大で、信ずるに十分値するようにも見える。だがそれもまた一つの疑似的な物語である。現代という時代は、絶対というものが失墜して久しい時代である。得点制とは別の仕方で内的な確かさを研磨していくこと。そのための思索へと、「擬日常」/「擬非日常」の感覚は私を呼んでいる。
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