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寒いことについて

 それはとても寒い日でした。雪が降り、暗くなりはじめていました。それは、その年の最後の夜、つまり大晦日の夜でした。その寒さと暗闇の中、一人の小さな貧しい女の子が、帽子もかぶらずに、おまけにはだしで通りを歩いていました。*1

 チェルフィッチュ『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』を観た。カフェの一角にあるテーブルを舞台とした一人芝居。──といっても、劇場の舞台上にカフェを模した空間を立ち上げるのではなくて、実際に営業しているカフェを使う。文字どおり、舞台はカフェ。今回の「舞台」は南池袋公園のなかにあるラシーヌ・ファーム・トゥ・パークで、これは建物の公園側がガラス張りになっている。観客は、屋外からカフェの方を向いて観る。したがって、舞台と客席のあいだを一枚のガラスが隔てるような格好になる。観客にはあらかじめ無線ヘッドフォンが配られ、ヘッドフォン越しに観劇する。聞くのだが、ここは営業中のカフェなので、まわりの客やレジ、厨房などからのさまざまな雑音も一緒くたに聞くことになる。そして脇には大型ディスプレイがあり、テーブルのちょうど真上に置かれたカメラの映像が映し出されている。
 わたしたちは客席から、そのテーブルに着いた一人の女性と時間を共にする。席に着くなり彼女が独り言のように語ったのは、世界の成り立ちについて。いわく、世界の始まりは液体の状態だった。そして、この世界の最初の神は、液体の神だった。だが、かつて世界が液体だったことを知るものは、今となっては彼女の一族だけ、その末裔である彼女以外には誰もいない。

 わたしには使命がある。わたしだけが果たすことのできる使命。それは、わたしたちの一族だけが知りえたこの世界のはじまりの真実の記録を、人知れず持ち続けること。わたしのこの、頭の中に。[…]真実が真実と、正当にもみなされるときがふたたびやってくることを信じて、その日まで生き延びること。*3

 おそらくカフェのなかにいる人はみな、ここに何やらいわくつきの末裔が座っているのを気付きはしないだろう。ヘッドフォンをつけて外でじっとしている観客=わたしたちだけが、そこで起きている事態を知ってしまう。ときおり周りに溶けてしまうような調子で、彼女は引き続き、天地創造の物語を独り言つ。わたしたちは次第に、大きく二つに分かれることになる。まず彼女はデタラメを言っているのだろう、という立場。途中、彼女はポーチからタバスコと粉チーズを取り出して、紙ナプキンに振りまいたり垂らしたりしながら物語を語り続ける。(その前から彼女はおしぼりの袋を引き裂いたりして、語るそばで手の動作を挟む。)側から見れば呪術めいている。ただそれも、こうやって聞き耳を立て、たまたま目撃してしまっているだけのこと。この立場をとる人は、カフェのテーブルが孤立した島々のようにあることを知っている。一見開放的な空間でありながら、その実個々のテーブルは見えない仕切りによって(それこそわたしたちと彼女の間のガラス板のように)隔たれていること、あたかもそのように振る舞うほうがよいことを、デタラメ派は思い出す。したがって、わたしたちは彼女に何もしない。よほど気になるようだったら、あとで店員さんを呼ぶとかすればいい。
 対する立場は、彼女はほんとうのことを言っていると思う立場。知ってしまった以上、関わないことはない。なんであれば彼女の言葉を記録したり、子孫を残す方法をともに考えたり、なにかできるかもしれない。だがそうはいかない。彼女によれば、彼女らの祖先の多くが、あの一族によって殺されてしまった。あの一族は彼女の一族からだいぶ遅れてこの世界に現れ、卑劣なやり方で彼女ら一族をおとしめ、以来現在もなおこの世界を支配している。おそらくわたしたちは、手を差し伸べようても彼女によって跳ね返されてしまう側だ。
 いや、結局どちらにしても、わたしたちは彼女と何もかかわることはできない。彼女の言っていることがどういうレベルでも意味の通っているものと思われれば、そこからどのようにも解釈することができるからだ。わたしたち観客は、彼女の発する言葉に対して、真か偽かの判断を諸々へ巡らせているにすぎない。そしてどちらの判断をとるにしても、わたしたちは彼女をそのように言わしめるなにか外部からの力にまで至ることはない。

 悪い時代である。悪貨が良貨を駆逐する、を地で行くかのように、あらゆる言葉が堰を切って人びとのあいだを次々に滑り抜いていく。言葉が人をむやみに怒らせたり、おびえさせたりしている。ISの構成員にしても相模原殺傷事件の実行犯にしても、かれらは言葉を手際よく並べ拡散させる。政治にかんしては啖呵の切り合いのようになって久しい。それも一時は国内だけのことかと思っていたが、最近はどうも世界的な状況であるらしいことが明らかになってきた。憎悪を抱く人びとは、一方で真に傷みを抱えていない人びとでもある。アレッポに暮らす住民のツイートは、ただちに熱いイデオロギーの言葉たちに覆われてしまう。傷みを言葉で代理する、その当の言葉が盛り立てられ、飛び交っているのだ。
 ──わたしたち観客がこの場で行っていることは、代理としての言葉による、ちょっとした解釈の戯れにすぎないのだろうか? 閉演後、席を離れてもわたしたちにつきまとう「あなたが彼女にしてあげられることは何もない」というフレーズは、そのことを戒めて突きつけられているのだろうか?

  […]やがて、洞窟の中をのぞきこみ、何があるのか見きわめようと幾たびか身体を動かしてみたが、中を覆う暗闇が私の視界をさえぎった。だが、そのままかなりの時間が過ぎようとしていたころ、突然、私の中に二つの感情が湧き起こった。恐れと欲求である。恐れは、洞窟の迫りくる暗闇に対する恐れである。欲求はしかし、おのれの目でその中にあるやもしれぬ素晴らしいものを見てみたいという欲求である。*2

 にしても、ぼくが観に行った晩は寒かった。いちおうブランケットとカイロを貰ってはいたが、席に着いているあいだは外気の冷たさが当たって、顔がヒリヒリした。中で観ていたい、とたまに思った。だがそれも時間が経つうちに、しぜんと悪くないように感じられた。それどころか、この作品に合っているとすら思われた。この作品は特に上演時期が決まっているわけではないようなのだが(初演は前年の8月だ)これは冬が向いている作品だ、と唐突に思ったのだった。

 外気に当たりながらよぎったのは、ヘルムート・ラッヘンマンの音楽劇『マッチ売りの少女』だった。伝統的な楽器を使っていながら、馴染みのある音がほとんど出てこない。楽器の見当はずれのようなところを擦ったり叩いたり、息を吹いたりする音ばかりが次々と繰り出される。ラッヘンマンの音楽を乱暴にまとめるとこのようになる。ラッヘンマンに言わせれば、それは伝統の解体であり、拒絶の音楽にほかならない。その実現度がどうというのは脇に置くとしても、とりわけ彼の集大成的作品である『マッチ売りの少女』は、ある音楽史上まれな成果を上げている。寒さの描写である。弦楽器が、弾くというより擦り付けるような音を立てて音楽劇がはじまる。ピンと張り詰めた緊張感が立ち上るなかで、弓の擦れているカサカサした音が混じる。音とおなじくらい、擦れているさまが聴こえてくるせいか、ザラついた触感をおぼえる。打楽器の硬い打ち付ける音が、板を割るように介入してくる。ピアノやハープが鋭いアタックでこれに応答する。弦楽器も極端に高い音で弦を勢いよく弾く。それだけでなく、歯のあいだを抜けて鳴るシーッという音、発泡ストロールが擦れる音、舌打ちの音がどこからともなく鳴ってくる。

広がっているのは、触覚的な音響空間である。歌うように歌が表れるのではなく、歌が打たれていく。どの楽器もどの演奏者も擦ったり叩いたりする動作に全面的に注力され、音が小さくても、鋭い存在感をもって鳴り響く。寒さは傷みをともなう知覚である。わたしたちは肌で、痛覚が刺激されることを通じて、寒さを感じている。ラッヘンマンはその寒さの特徴を十分に考慮して音楽を構成している。すなわち音を単に鳴らすのではなく、鳴らされる音にある種の痛みの感覚をつなぎ合わせること。言い換えれば、音自体がどのように聴かれるかと同じくらい、あるいはそれ以上に音がどのような触感を備えているかが肝要なのである。

マッチを売る少女が、売り物であるマッチを擦ってしまうのは、あたりが寒いからだった。きっと小さなマッチが役に立つでしょう。もし、女の子が束の中から一本抜き出して、火をともし、手を暖めることができたら。*1 マッチを取り出して擦った少女の眼には、暖かな火だけでなく、その彼方に幻想が映ったのだった。そして最後には幻想のおばあさんに誘われて絶命する。冷気による傷みが人を不安に陥れ、狂わすことがある。ヴェストファリア条約を結ぶに至った17世紀の三十年戦争は、おりしも小氷期が到来しており寒冷化のただなかにあったことを思い出そう。

さきほども記したように、言葉が過剰に力を振るう時代である。しかし繰り出される言葉のもとをたどってみれば、それはある種の寒さに耐えることをやめてしまったことの表明なのではないだろうか。

(この後、「あなたが彼女にしてあげられることは何もない」に戻り、彼女が手に取ったタバスコや粉チーズに注目し、その動作を記憶すること、無意味なようにみえる動作を追い続けることを通じて、それを寒さに耐えることになぞらえ、批評家の使命の一つとしてまとめる、という流れである)


*1 ハンス・クリスチャン・アンデルセン「マッチ売りの少女」より

*2 レオナルド・ダ・ヴィンチによる手稿(「アランデル古写本」)より

なお上記2項は、CD:ラッヘンマン『マッチ売りの少女』改訂版(南西ドイツ放送交響楽団/シルヴァン・カンブルラン指揮 )のブックレットによる。

*3 岡田利規「あなたが彼女にしてあげられることは何もない」(『新潮』2017年1月号)

 

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