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幻視される南、破綻する北

馬小屋や糞の臭いにむせ返る一方ここはクーラーの効いた部屋

──木下古栗「胸ときめいて」

 楽園のイメージ。たいていそれは、南国とか南の島に求められやすい。ヤシ、風、快晴、砂浜と彼方の水平線、心の安らぎ。南とはいうものの、ハワイもまたこのなかに含まれやすいところからすると、南という括りには厳密な方角よりも、気候の寒暖が大きく作用しているらしい。だから南国たるもの、つねに暖かくなければならない。

 ヴェイパーウェイヴ、あるいはチルウェイヴやシーパンクといったインターネット発のムーブメントもまた、彼方の楽園を幻視し続ける。ただしヴェイパーウェイヴの場合、呈示される楽園には、悪夢的な迂回がつきまとう。楽園の素材は次のとおり──おもに1980年代以降の、通販や天気予報などのテレビ番組、CM、ゲーム音楽、カルト宗教など怪しげな内容のVHS、スーパーやラウンジのBGM、パソコンの内蔵効果音、YouTubeに転がっている些細な動画、特に日本のもの。ノイズが乗ろうと解像度が低かろうとお構いなしに、これらは一緒くたで投入されて、ヴェイパーウェイヴの代名詞的なスクリュー加工によってスピードとピッチが下げられ(あるいは上げられるか両方の加工がなされ)、翻訳サイトにかけたような意味の通らない文字の羅列(やっぱり日本語が多い)をタイトルにまぶされる。こうしてとりあえず完成、というか完成といえるのかも怪しいが、とにかくそんな風に成立している作品(というのが憚られるならば、音楽ファイル)が今日もどこかで人知れずに生産され、太平洋より広大なインターネット空間に放流されている。

 サンプリングの対象はほとんど無法的、身も蓋もなく素材はみな平等である。ある意味で楽園的ではあるが、ヴェイパーウェイヴを聴こうとするわたしたちは、同時にショッピング・モールについても思いを馳せる。

 大洋のなかの小島、砂漠のなかのオアシス、月面のコロニーにも似て、ショッピング・モールはのっぺりとした外観で郊外にあまねく屹立する。ここは偽装された南国である。モールの内部をのぞけば、開放的な空間、暖色系の照明、そして南国ふうの植え込みが人々をあたたかく出迎え、また四方八方で、他のショッピング・モールでも見覚えのあるようなテナントが多数軒を連ねる。生産・販売技術の合理化が行き届いた現代には、かつてベンヤミンがパサージュに見出したような、人々に消費を喚起させる「ファンタスマゴリア」な魔術は消失してしまった。そのかわりに、いまは幻惑の役割をショッピング・モール自体が受け持っている。ジョージ・リッツァが「再魔術化された消費空間」と呼んだものである。

 ヴェイパーウェイヴは、再魔術化の再魔術化たるゆえんを知っている。ショッピング・モールが風景をすべて内向きに作り上げるのに対して、ヴェイパーウェイヴにはそのような徹底する意志がない。素材用のサウンドファイルを溜め込むフォルダが、ショッピング・モールのように煌びやかに見えたりはしない。ウィンドウ・ショッピングの快楽ではなく、散らかった部屋を見渡すような疲労感。なんでもサンプリングしてしまうことの、平等という名の暴力が前景化してくるばかりである。その名前が、告知をされながら実際にはリリースされなかったことを指す「ヴェイパーウェア(vaporware)」からのもじりであることを踏まえれば、ヴェイパーウェイヴにとって作品とは、ショッピング・モールにならなかった建造物、もしくはその廃墟にあたる。浮かびかかった南国の幻想が黒く塗られ、寒々とした風景が、そして何事もフィクションであった事実=北的な想像力が、突きつけられる。ヴェイパーウェイヴはおのれの虚構性=北的であることの過酷さを、いつも告白することで作動している。

 しかし、あらためて楽園とはなんだろうか。よみがえる誰もが、それぞれの幸福を享受するところ。一口によみがえるといっても、その方法は一様ではないはずだ。ここに住まう人は、タンクトップかもしれないし、あるいは上に3枚羽織っているかもしれない。というか両方かもしれない。となると、問題は空調管理である。着ている衣服に限らず、寒がりなのも、汗をかくのに快感を覚える人も、同時に最適な温度を与えなければいけない。言い換えれば、誰にとっても適温であることが、楽園の楽園たる条件である。それは最適な単一の温度があることを意味しない。

 かつては、インターネット自体もまた、楽園のように思われた。ベッドで飛び跳ねるうちに天井に頭をぶつけるわが子、カモ親子の道路横断を助ける警官、残り1秒でヤケくそに投げたバスケットボールがゴールポストに吸い込まれる偶然、そういったことだけが世界の表面を覆ったなら、きっとハッピーだったろう。YouTubeの開通がもたらしたのはそうではなかった。アイルトン・セナの事故が、大喪の礼の中継が、ベルリン五輪の開会式が、彼方まで続く再生数レースの列に加わった。すべてが等価であることの悪夢が、むきだしになった。これがYouTube以後にわたしたちに与えられた平等のイメージであり、また、わたしたちが抱える新しい疲労の発生源でもある。新しい疲労──氾濫する情報の波に揉まれつづけて生じる、新しい肩こり。平等がフィクションであることを強烈に突きつけられて、再び人々は身の回りの不平等に注意を向けるようになる。そこからオルタナ右翼まではもう一歩だ。

 ヴェイパーウェイヴが呈示したひとつのヴィジョン──フィクションであることの疲労感は、逆転するかたちで現実にも登場した。つまり、現実の側がフィクションを跳ね飛ばしてしまうこと。

 2015年7月15日夕方。安保法案の衆院採決を控え、国会議事堂前には大勢の人。震災後はじめてデモのなかに入ったわたしは、声を上げないかわりに、ここにいる人々の声や表情に注意を払った。多くの人が国会議事堂の方を向いて、アゴを上げて声を出す。SEALDsメンバーらが先導する拡声器越しのコールにあわせて、方々から大なり小なりの声や鳴り物の音が響いている。一人一人が漠然と怒号を上げるよりも、集団が同じリズムで発声するほうが、より遠くまで聞こえる。『シン・ゴジラ』のデモのシーンを思い出してほしい。思い思いの言葉を投げかけるかわりに、コールの言葉に思いを仮託する。

 拡声器から「アベはやめろ」という三連のリズムが繰り出される。「戦・争|反・対」「憲・法|守・れ」のビートに乗りながら、「ア・ベ・は|や・め・ろ」と三連のリズムを表現するのは、慣れていなければ簡単ではない。それが集団で揃えて発声となるとさらに難しくなる。何が起きたか。人々はそのコールになると、それまでのビートを捨てて叫びに変えた。「アーーベーーはーーやーーめーーろーー!」。6つの音のなかで強拍・弱拍といった拍節のグルーピングが崩壊して、一音一音が踏みしめるような強拍へと変貌する。見かけ上(聴きかけ上?)では、二連系(トン・トン|トン・トン)のビートに乗せて三連(ト・ト・ト|ト・ト・ト)のリズムを入れてみると、三連が遅く感じられる。人々の「アベはやめろ」はその錯覚を受けて、とてもスローで呻るような叫びとして鳴る。

 ヴェイパーウェイヴにとって遅くすること=スクリューの効能は、おのれの虚構性を確認するところ、それがフィクションであることを強化するところにあった。しかしここでは、その裏返りが起きている。時間が経つにつれて、だんだん叫び方を覚えてきたのか、「アベはやめろ」の叫びはどんどんとスピードを鈍くして、かわりに声量を増していった。しかし、全体としてはウワーーーという叫びに近くなっていく。さっきまで揃っていた大きなリズムは、ばらばらに崩れてしまい、散漫な音になってしまった。リズムというフィクションに、それまで乗っていた人々が次々に降りてしまった。フィクションは、現実の側から跳ね返されてしまった。

 ヴェイパーウェイヴとデモの叫び、両者にはフィクションに対する疲労感の、別々の表明がある。1960年代に提起された南北問題は、南側諸国が北側工業先進国に対して対等な関係を要求するところから始まった。しかし要求が果たされたあとに突きつけられたのは、それまで以上に広がりゆく経済格差、またそれは南側諸国にもみられるようになった。対等であることの過酷さが、わたしたちから北=秩序、フィクションを奪い去ってしまう。ヴェイパーウェイヴは南国的イメージを仮構しながら、北の不在を告発している。

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