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喜ばしき力(フォルテ) ── 木山光を聴く

 ミカエル・レヴィナス(★1)の〈呼び声 Appels〉(1974)では、響き線をつけたスネア・ドラムが管楽器奏者の前に置かれる。これは叩くためのスネア・ドラムではなく、管楽器が吹く強音に響き線を共振させるための仕掛けである。実際に聴いてみると、ディストーションの効果というか、管楽器の音にスネア・ドラムのホワイト・ノイズが合わさって、非常に効果的に響く。この作品を特徴付けるのは、スネア・ドラムの効果だけでなく、それに向かって呼びかける管楽器たちの咆哮もまたそうだ。聴衆が奏者の疲労度をつい心配してしまうくらい、管楽器はつねに強音で荒々しい音を発してスネア・ドラムに向かっていく。このようにしてレヴィナスは震える波動の伝わりゆく空間を立ち上がらせ、その空間に奏者が触れない楽器を呼び覚まし、響きを与える力を放っていく。

 木山光の音楽には、このような力の伝達はない。流星群のように、それぞれの楽器から音が乱れ飛んでいく。〈Death Metal Rock with Head Bang〉(2014)は明快にそのさまを呈示している。フルート、バス・クラリネット、ハープ、ピアノ、チェロという、明らかにバランスの調和をとるのが困難な編成のなかで、それぞれの楽器はまわりの音響などお構いなしに、思い思いに激しい音の身振りを打ち上げていく。さらに加えて、カズーやラチェット、擦るための紙といった小物とサンプラーがこのアナーキーな空間に参入していくのだが、こうした小物がまわりの楽器の音に被さることなく聴き取れるあたりに、作曲者木山の耳の良さが際立つ。結果として、一聴した限りでは協和しているとは感じられない音響空間に、とても絶妙な釣り合いの配慮が施されていることが明らかとなる。

なんのために? 力を聴こえるようにするためだ。

 力を捉えること。

 クレーの箴言を引いて、ドゥルーズは、感覚しえない力を感じられるようにすることを、芸術の務めだとした。すでに感覚しえたものを繊細に表現することは、芸術にとって究極目的(finalité)ではない。芸術に接するとき、われわれは表現されたもののなかから、そこに占有している力をこそ読み解かなければならない。ただし感覚されたものは、そのまま力なのではない。なぜならば、力が作用するのは肉体に対してであり、そのことで感覚が生ずるからだ。したがって、感覚しえない力とは、要するに力なのである。ドゥルーズによれば、力の捕捉の問題は、しばしばもうひとつの問題と混ざってしまった。それは、絵画においては、奥行きや色彩、運動といった効果の問題。音楽であれば、そこに記憶を挙げることができるだろう。このいくぶん不純な問題は、芸術家がいかに力を表象することの問題を自覚していようと、いやむしろ否応なく自覚してしまうがゆえに、混ざってしまうのである。それゆえドゥルーズは、効果の問題に対して無関心なまま──健忘症礼賛!──力を捉えることに成功したベーコンを評価する。

 こうした意味において、木山光もまた、力を「聴こえるように」することに成功していると言ってよい。もちろん、代名詞めいた怒涛のフォルテッシモの氾濫や、電気ショックを浴びたかのように絶えず全身を駆使して演奏する奏者の様子を指して言っているのではない。木山にとって、奏者に対する猛烈な身体的負担の要求は、音楽に聴こえない力を捉えさせるために必要な最低限の条件でしかない。場合によっては奏者のコントロールの範囲を超えるような要求を楽譜に記し、奏者の出力エネルギーを取りうる最大まで振り切らせることで、楽器はそれ自体がもつ音響の範囲を超えようとする。そのとき、音楽ははじめて聴こえなかった力を鳴らすことができるのだ。

 力を捉えること。音によって、音を知覚する耳、あるいは肉体によって。

 2016年初めにブーレーズが他界し、戦後前衛音楽という槌(marteau)は文字どおり最後の主=打ち手(maître)を失った。われわれはいまや、その亡き前衛の残骸の上に立って久しい。とはいえ、完全な不毛地帯というには急すぎる。残骸ではあるものの、後続の作曲家たちは前衛の賓(たまもの=Don)を引き継いでいることもまた確かだ。木山から少し迂回して、ここではさしあたり2つの潮流を紹介しておきたい。

 ひとつにはラファエル・センドーらを中心とする「サテュラシオン(飽和)」(★2)した音響を志向する作曲家たち。彼らはジェラール・グリゼー、トリスタン・ミュライユなどの「スペクトル」楽派なる奇怪な名前を付けられた一派のあとに位置付けることができる。あるいはさらにカイヤ・サーリアホやマグヌス・リンドベルイらフィンランド出身の作曲家を連ねてもよい。というのも、両者に共通する音響のマスが繊細に移ろいでいくさまは、まさにそれをサテュラシオンと呼んでもほとんど差し支えない。サテュラシオンを志向する作曲家たちは、あらゆる楽器について、様々な奏法を用いて多彩な音素材を用意する。弦楽器ならば弓を弦に押し付けるように弾かせ、ひっ掻くような音を鳴らす。管楽器は重音奏法、過剰に息を入れ高次倍音を鳴らす、など。イレギュラーな奏法の濫用は、後述するノイズ系の作曲家にも共通することだが、サテュラシオンの作曲家たちの場合は、それを大きな和音として聴く。あらゆる楽器がもつ倍音に耳を傾け、それを挑発して導き、音を鳴らす以上に響かせる。この志向性がスペクトル楽派に連なるのはこのためである。時にアグリーな音のなかから、この作曲家たちは不協和に響くものとしての協和音、または協和する不協和音を聴き取ろうとする。これは倍音としての、周波数としての音の効果を再構築する試みである。

 一方、このようなノイズをノイズそのものとして鳴らす作曲家たちもいる。ノイズ──楽器が拒絶した音たちをして、音楽のなかに楽音として参入させる。ここでのノイズは、和音として分析され再構成されるそれではなく、一つとして数えられる音であり、鍵盤一つ分と等しい権利が与えられている(もっとも、ヘルムート・ラッヘンマンは〈ギロ〉(1969)でまさに鍵盤を拒絶するのだが。)ラッヘンマンが自ら器楽によるミュージック・コンクレートと呼ぶのはこうした態度である。彼の作品においては、楽器は通常とはちがう音のカタログをもった全く別の楽器に異化されるのだ。それとともにそれぞれの音の存在感も高められ、結果としてトゥッティで鳴らされる場面は相対的に少なくなる。同様の傾向をもつ作曲家としては、ジェラール・ペソン、フランチェスコ・フィリデイなどが挙げられるだろう。

 こうして比較した場合、木山が前者とは相反するのは明らかだ。木山は豊穣なマスを志向してアンサンブルを組んでいるのではない。もちろん彼の作品にも明確な調性があらわれる瞬間があるが、スペクトル─サテュラシオンのように和音に向かっていく調性ではない。これはどちらかというと、アンサンブル全体が呈示する音響空間の状態変化の一形態として、気候変動を感じるようにして聴かれるほうが良いように思う。となると、木山の音は後者に連なるノイズそのものなのだろうか? どうもそうではないらしい。彼の選択した音響は、拒絶の結果として得られたのではない。それどころか、奏法それ自体は基本的に忠実であり、そこに動員するエネルギーを与うる限り大きく(強く、あるいは素早く)することで、ほかにはない木山印の楽器と、それからなるアンサンブルを手に入れているのである。サテュラシオンでも、ノイズそのものでもない。分析的な過剰さでも、拒絶による異化でもない。

 もう一度、木山の作品に戻ろう。

 〈Kabuki〉(2011)は、2011年のヴェネツィア・ヴィエンナーレにて、Ictusによる演奏で初演された。(★3) バス・クラリネットを実質的なソリストとして、フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、二人の打楽器奏者(うち一人はドラムセットを担当)を加えた7人によるアンサンブル作品である。バス・クラリネットはいちおうソリストとして他の楽器よりも浮き立って現れることがあるものの、ソリストらしい特徴はその程度しかなく、ほかの楽器のなかで緊密な関係性が構築されているわけではないらしい。さらに作品を聴き進めるうち、こうした楽器間の関係性の希薄さはますます浮き立ってくる。

 頻繁に登場する等拍リズムには、それが等拍であること以外になにかを統一する意志を知覚することは難しい。何度とあらわれる三連系の大見得を張るようなトゥッティも、毎回はじまって全員で決めては、再びそれぞれがバラバラに散ってしまう。(ちなみに、この特徴的な身振りが強調されながら、作品の終盤には明確に現れず吹き飛ぶようにして終わるところには、作曲者の構成の妙を感じずにはいられない。)ときどき現れる「形作り」のほかに、このアンサンブルからは統一の意志を聴くことができない。個々のパッセージは、毎回投げ出される。投げ出されたあとで、弁証法的展開を経て再びパッセージが登場するようなこともない。ただ類似したパッセージが反復されるだけである。かろうじて音楽のなかに流れを聴き取ることができるのは、繰り出されるパッセージの間隔が比較的早いからだろう。

 しかし、こうした非統一的(散逸的)なアンサンブルを構えたことで、かえって個々の楽器の身振りが際立ってくる。それも矢継ぎ早に繰り出されるパッセージのなかでは、まるで始まりと終わりを欠いた放埓な運動として、音が現れる。マレットを擦るようにして鳴らされるビブラフォンや、楽器全体を擦るかのごとく弓を縦横無尽に行き渡らせる弦楽器は、パッセージの形象や方向を示すかわりに、パッセージが内包している力の発揮されるさまを呈示する。まさにここにおいて力は鳴り響いているのであり、木山の作品において、力はいつもバラバラに鳴り響く。聴き取りうるのは終点のない力の作用のありさまであり、さらに言ってみれば、力(フォルテ)そのものである。

 木山の作品はあからさまに荒唐無稽であり、乱暴に聴覚を掻き回す大音響は、長く聴くには辛いものがある。しかしそのために作品から離れずもう少し耳を開いてみれば、音の、鳴り響く力の、喜ばしい呼び声が聴こえてくるにちがいない。木山は、楽器とそのアンサンブルから喜ばしき力を鳴り響かすことに成功した。


★1 作曲家ミカエル・レヴィナスは、名前から察しがつくようにエマニュエル・レヴィナスを父に持つ。またピアニストとしても高い技量を備えており、ミュライユの長大なピアノ作品〈忘却の領土〉は彼に献呈され、また初演も行った。

★2 「サテュラシオン」という語については、作曲者本人の文章に詳しい。仏語だが、Webからも読むことができる。
Raphaël Cendo: Les paramètres de la saturation / Brahms.IRCAMサイト内)

 ところで、スペクトル楽派の「物語」としてよく語られることに、グリゼーとミュライユがローマのメディチ荘でイタリアの謎めいた作曲家ジャチント・シェルシと交流したエピソードがあるが、これはスペクトル楽派の思想を考えるには象徴的に過ぎる。少なくともグリゼーの音楽的興味がシュトックハウゼンやリゲティから始まっていることはもっと考慮されて良いだろう。また、トータル・セリーへの先駆けとして挙げられる作曲家メシアンは、〈音価と強度のモード〉のあとで、一連の〈鳥のカタログ〉を作曲した。グリゼーもミュライユも、メシアンのクラスに在籍していたことから鑑みるに、トータル・セリーもそのあとのスペクトル楽派も、メシアンによって先取りされていた、と言えるかもしれない。

★3 日本初演は2014年4月、阿部加奈子指揮、Tokyo Ensemnable Factoryによる演奏。このときソリストはバス・クラリネットではなく、近年活躍が目覚ましい大石将紀によるバリトン・サクソフォンが担当した。

 文中で挙げた木山作品の動画を紹介しておこう。YouTubeでは他にも彼の作品も聴くことができる。


模倣対象:浅田彰。『ヘルメスの音楽』を中心に。

文字数:5140

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