偽史の創世――虚構の簡略化
<日常の虚構の変化>
二〇〇八年十二月三一日、東京新宿区で五〇年以上営業を続けていた新宿コマ劇場及び新宿東宝会館が閉鎖され、十五年四月には、その跡地で新宿東宝ビルが営業を開始した。同ビル内に併設されているシネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」には、最新鋭の映画館用環境効果技術「MediaMation MX4D」(以下4DX)が搭載。映画の展開に合わせて振動やミスト、香料等による環境効果が得られる。“演歌の殿堂”として認知され、多くの観客やパフォーマーが顔を突き合わせた新宿コマ劇場跡に、仮想現実を可視化し、商品化する設備を搭載した複合インテリジェントビルが建設されたという事実は、作品の受け手(この場合大衆及び「おたく」のどちらとも)の虚構の構築方法の変化を如実に現しているように思える。
<応援上映の拡散と定着>
TOHOシネマズ新宿は営業開始以来、『進撃の巨人』や『ジュラシック・ワールド』等、国内外を問わず複数の映像作品の4DX上映を行っている。だが4DX上映と平行して、4DXを利用しない新しい上映形態によって来場者数を獲得し話題を呼んでいるものもある。いわゆる「応援上映」と呼ばれる試みだ。
応援上映とは、上映中に声を出して登場人物を応援しても良い、観客参加型の上演形態のこと。サイリウム等の小道具の持ち込みも許可されているのだ。
地方の単館上映ならいざ知らず、このような上演方法が全国的に展開されたのは、十四年に日本で上映されたディズニー映画『アナと雪の女王』に対してであったように思う。この時は、スクリーンに劇中歌の歌詞を投影して観客が共に歌うことができる「みんなで歌おう上映」が話題を呼んだ。以降、一五年に公開された『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、打楽器等の鳴り物の持ち込み及び上映中の絶叫やスタンディングが許可された「絶叫上映」を開催。また、同年には女児向けアーケードゲームのメディアミックスアニメ『プリティーリズム・レインボーライブ』のスピンオフとして上映された『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(以下「キンプリ」)の応援上映が人気を呼び、興行収入は十六年五月時点で六億円を突破した。
<受け手の自由な解釈と共時性>
「キンプリ」は、“プリズムショー”と呼ばれる、アイドルとアイススケートを融合させたエンターテイメントを巡る少年達の物語である。応援上映では、プリズムショーに出演する少年達に声援を送るのはもちろん、共に相槌を打ったり、サイリウムを振ったりと作品にリアルタイムでリアクションを返す。このリアクションのバリエーションは上映期間が過ぎるごとにSNS等で拡散され、広がっていくことになった。
特筆すべきは、本作の世界観は大げさなパロディや過剰なギャグをふんだんに盛り込んでおり、全体を通して受け手が真剣に考察するだけ損をするような軽いエンターテイメント作品に仕上がっている点である。受け手がリアルタイムで応援するからには、そこにはジャニーズJr.やAKB48のような生身のアイドルグループのように、一人一人にリアルなバックグラウンドがある登場人物を用意し(『ラブライブ!』等のいくつかのメディアミックス作品群はこれを成功させている)、より現実の密度に近い虚構を提示する必要性を感じる。しかし、「キンプリ」では登場人物のほとんどが映画内初登場であり、そのバックグラウンドもほとんど明かされない。
八〇年代以降、「おたく」と呼ばれる受け手は、物語の背後に現実と同じ統辞法を見て取り、演出への過剰な深読みを重ねてきた。『宇宙戦艦ヤマト』に端を発し、『機動戦士ガンダム』シリーズからは制作側が意図的に作り上げて来たフィクション上での「偽史」を、「おたく」は積極的に追い求めた。ところが現在では、仮想現実に詳細なリアリティは必要なくなっている。言い換えれば、仮想現実を構築する際に、徹底して「現実」を囲い込む必要がなくなっているのだ。
そこには、虚構世界を仮想現実化する、いわゆる「世界観のしっかりした作品」がすでに飽和していること、また、受け手の共時性への欲求の高まりが見られる。
かつては作り手と受け手の間に存在していた、作品の「虚構」に求める密度なり深度なりの温度差を、今や作り手側が熟知し、なおかつその差を受け手を(ある意味)“使役”させる形で埋めて行こうとしているのである。 偽史が飽和し、新しい虚構に手を伸ばす人が減って来た今、受け手は作品と一体化し、いわば偽史の創世に立ち会うという新しい物語の消費を行っている。応援上映は受け手の盛り上がりがなければ成り立たない。言い換えれば、受け手が盛り上がり方次第で作品の印象も視聴後の感想も変化する。それ故に、同じ作品でも何度も足を運ぶ「おたく」が後を絶たない。
<創世の限界>
しかし、受け手のリアクションありきで作品を作るという偽史創世型の作品は、その形態自身に矛盾をはらんでいるとも言えよう。二次創作作品ならまだしも(とはいえこちらも十分に使役の一つであるが)、受け手自身に作品の構成要素を担わせるのは、蛇が自分の長い尾に噛み付いて腹の足しにしているようなものではないだろうか。受け手と作り手、双方が双方の顔色を窺いながらの作品作りに、化学反応は起こし続けていくのは難しいだろう。
※大塚英志さんの著書を参考にしました。
文字数:2204