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擬日常と食事の話

1.批評再生塾の意義

 

批評するという行為はとても恐ろしい。時として自分の無知や無学をさらけ出すことになるし、制作者の意図しないことを書いて気分を害してしまうのも怖い。これがTwitterやFacebookなどのSNSなら、とりあえず作品のパッケージなりを撮影して、アプリで良い具合に加工して「最高」と書いておけばそれなりに、それなりになるのだ。なんで好き好んで批評するのか。批評再生塾という試みがあるのか。そしてそれに応募するのか。住民税が3回は支払える(※当社比)受講料を振り込んで。

勢いで応募してみたは良いものの、上記のような不安を抱えながら第一回オリエンテーションに出席してほかの受講生の自己紹介を聞いた。「本を出したい」、「自分のものさしを持ちたい」、「勉強したい」——。さまざまな受講動機が聞かれ、その多くが「自分でより良くものを考えたい」と渇望しているようで、ひどく心強く、また嬉しくなった。今日び、インターネット上には情報が溢れ、さらにその情報をキュレーションした情報すら飽和している状態であっても(だからこそ?)、自分自身でものを見る目を少しでも養いたい、書き、論じたいという欲求は沸き上がってくるもののようだ。

 

考えてもみろ 今の世の中『それっぽいもの』ばかりじゃないか
『すごいこと』より『すごい空気』が幅を利かせ
『楽しい』より『楽しそう』がぶいぶい言わせる
天才よりも天才のフリがうまい奴が評価される世の中
時代が求めているんだよ合成着色料を

 

 これは、週刊少年ジャンプ(集英社)で連載されていた少年漫画『めだかボックス』内で登場する台詞だ(2009年24号から2013年22・23合併号まで連載)。原作を担当したのは2002年にメフィスト賞を受賞し、以降中高生を中心に熱狂的な支持を得る小説家、西尾維新。実の姉を愛しつつも姉の代用品を作り上げて妥協していた鶴喰梟なる登場人物が言い放った言葉である。シチュエーションはさておき、彼の意図する“合成着色料”なるものは身の回りの至るところに振りまかれている。「ナチュラル」や「ありのままの生活」を謳う雑誌だって、より「ナチュラルっぽさ」、「ありのままの生活っぽさ」を演出するため、写真には濃いシアンがかかっている。イベントの成功をアピールするために(実際はどうあれ)、全員が笑顔で映った集合写真が感謝の言葉と共にSNS上にアップされる。でもある時ふと、そんな合成着色料たっぷりな情報の食事に飽き飽きしてしまうときが来る。

批評家としての大成を志している人に活躍の機会を提供する、ということも確かに批評再生塾の意義であるし、実際に第1期では吉田雅史氏と上北千明氏、2名の受講生が見事商業誌デビューと相成った。だが今回の参加者を見るに、批評に触れるのが初めてという人も多い。第2期の存在は、批評再生塾ないし第1期の功労というよりは、もともとの講師陣の功績や人徳が多いのではないだろうか。批評家。批評者ではなく批評“家”。言葉遊びになってしまうが、個人的には批評再生塾が、自分自身の思考の家で、合成着色料の入っていない想像の自炊ができるための場であればいいと思っている。

 

2.「擬日常」を強化する“食事”の存在

 

今回の課題「批評再成塾を総括せよ」に際して、上北千明氏の『擬日常論』を拝読した。本作で上北氏は「ポスト・セカイ系」とも称される漫画2作品、高橋しんの『花と奥たん』と浅野いにおの『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(ともに小学館)を主軸に置きながら、現代社会を彼の造語である「擬日常」として捉え直すよう主張している。

 

『花と奥たん』と『デッドデッドデーモンズ』に共通するのは、単なる日常を描いた漫画でもなく、非日常を描いた漫画でもない、非日常が来た後もつづけられる日常、言うならば日常の皮を被った非日常を描いている点である。ここではそれをさしあたり――擬似的な日常性という意味で――「擬日常」と呼んでみたい。

 

私たちが日常と定義しているものは擬似的なものにすぎず、なおかつその“日常”を生み出すメカニズムは「決定の遅延」というひずみを抱えている。自分の足下がいきなり不安定になるような、新しく視界が開くような、とても読み応えのある内容だった。せっかくなのでもっと掘り下げてほしいと思ったのは、『花と奥たん』について言及していた以下のくだりだ。

 

人は社会を失っては生きていけない。けれど、それでも奥たんだけは残りつづけようとする。なぜか。奥たんの生活を思い返せばその答えがわかる。そう――彼女はずっと食べてきたのだ。巨大なカボチャを、異様に育ったナスやトマトを、自分の背丈よりも大きなしめじを。だから彼女はすでにあの巨大な花の一部になっている。人間というより彼女はもはや自然の側から捨てられた自転車や人が住まなくなった家々に等しいまなざしを投げかけているのだ。

 

異世界の食べ物を食べることで自分も異世界の住人になる、食べることで何らかの境界を越える物語は多く、古くは日本書紀のイザナミ・イザナギの話にもある。イザナミは死者の国の食べ物を食べ——いわゆる黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)——をしてしまったことで、黄泉の国の住人となってしまい、迎えに来たイザナギに応じることができなかった。スタジオジブリの映画作品『千と千尋の神隠し』でも、主人公の千尋が神隠しにあった先でその世界の食べ物を与えられ、間一髪存在の消滅を免れている。

異世界の食生活を描いた漫画といえば、例えば九井諒子の『ダンジョン飯』(KADOKAWA/エンターブレイン)が挙げられる。ファンタジー世界で円滑に冒険を進めるために、スライムなどモンスターを存在する調理方法で料理していくのが見所の作品だが、一方で『花と奥たん』に登場する食材は、サイズこそ違えどあくまで現実世界に存在するものばかりだ。各話の最後にレシピ写真が掲載されていることもあり、読者の中には作中に登場するレシピを再現する人もいる。また、奥たんが作るのはあくまで一般的な家庭料理である。自宅で作った食事が偶然奥たんのレシピと被り、料理中にふと本作を思い出す人も多いだろう。奥たんは異様に育った野菜を食べたことで巨大な花の一部になった。いわば一つ、境界を越えた。そして読者である我々も、食べ物という媒介によって奥たんのいる側の世界に近付く。本作において食べ物に寄る越境は、2種類行われているように思う。

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また、上北氏は「擬日常」を強化するファクターとしてインターネットの存在を挙げ、以下のように述べている。

 

社会の近代化は人々から次第に「断つ」ことと「離す」ことを遠ざけてきた。その象徴が通勤通学電車の風景であると言えるのではないか。そして電車内で乗客が目を落とすスマートフォンの画面は、インターネットへの「常時接続」と人間関係における「毛づくろい的コミュニケーション(内容を伝えるためのコミュニケーションではなく、つながっているという事実性の確保のためのコミュニケーション)」(斎藤環)をもたらしている。それは率直にいって、「断つ」ことと「離す」ことの生活空間からの消去を意味しているのだ。

 

インターネットによって裏打ちされる「擬日常」の継続に関しても、食事は重要な役割を果たしている。人は基本的に食べるという行為を断つことができないし、離れることもできない。これはインターネットの持つ常時接続性と愛称が良い。そしてそれはすでに世界に理解され、積極的に利用されている。某テーマパークでメニュー開発を担当する知人曰く、社内では「いかに写真映えし、インターネットで拡散されるか」に重点を置いて開発が進められているという。

ふだん食べているものも、小洒落たレストランでの食事も、限定のお菓子も、多くの人が気軽に撮影し、加工し、SNSにアップすることはごく自然なことになった。食をテーマに日常を謳う作品は、3.11という非日常が過ぎた後でも人気を集め、増える一方だ。私たちは今、食べるという行為によって、いつの間にか黄泉ではなく、擬日常から帰れなくなっているのかもしれない。

 

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