再起動する批評
佐々木敦が東浩紀とともに次世代の批評家養成のため設けた場が批評再生塾だ。佐々木は自身の旺盛な批評活動のうえに美学校や批評家養成ギプスなどで後進の育成に意欲をみせ、東は日本批評文化の継承そして新たなコミュニティ創造に尽力している。オンラインとオフラインを考慮した批評再生塾の設計は、批評文化に親しみながらも情報化社会を消化してきた東の手腕である。
批評再生塾第一期生優秀作「漏出するリアル~KOHHのオントロジー~」のなかで、吉田雅史は日本のラップ音楽のアイデンティティを模索し続けながら、それの発展への喜びと期待をあらわにしている。彼は、日本語ラップ音楽の三十年のあゆみを私たちに示したのち、それを米国のラップ音楽に比較対照させながら、それを日本文学に招待しながら、論を進めてゆく。
しかし一点、筆者は、米国ラップ文化の素描の一部について異論をもつ。吉田は第三章「リアル論」で「類型化された」生と死としての「ギャングスタラップ」に言及しているが、そこでは黒人音楽としてのラップ音楽と人種差別という歴史を抱えるアメリカという社会的背景は考慮されていない。貧困はシュミラークルではなく米国黒人の現実なのではないだろうか。加えて「ギャングスタラップ」は米国ヒップホップ音楽の下位区分として存在しておりそれそのものとしては考えられていない。
吉田は、KOHHと志人という二人の音楽家を、日本語ラップ三十年の到達、そして日本語ラップ次章のパイオニアだとし賛辞を惜しまない。日本語ラップ音楽の精神とその進化が彼を魅了する。「アカデミズムの自閉を逃れ、かといってジャーナリズムになりきることもない」[★1]、「好奇の喜びと迷子の経験」[★2]を喚起するための批評―かつて存在し、現在不在であるそれを再起動するような優秀作たり得ているだろうか?彼の情熱をもってその答えとしたい。
★1 『ゲンロン1』(ゲンロン、二〇一五年、二十九頁)
★2 同上、三〇頁
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