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「深層」批評宣言

「こめかみから脳味噌をぶち抜くのは、

あんたが考えているよりずっとむずかしいのだ」

(村上春樹『1Q84』)

 

「類似を発見するのが嬉しくて仕方がなかったから

書いてしまったんです。」

(蓮實重彦インタビュー「麗かな午後の日差につれて」)

 

0,イントロダクション

2016年の熊本地震は大地を揺らし、そして脳を揺さぶる出来事であった。

本震から一週間が経過した後に被災地に入り、その後約三ヶ月にわたって熊本県内で被災者に対する支援活動を行った。甚大な被害があった地域では多くの建物がグシャと押しつぶされたようになり、まっすぐに立っている電柱は数少なく、電線は奇妙な曲線を描いて都市の空間のゆがみを表現していた。被災者の多くは避難所生活を余儀なくされ、外から視界を遮るものがないガラス張りの庁舎で生活をする人たちも多く見られた。駐車場に止めた自家用車で長期間生活する人たち、そして公園にテントを張って生活する家族もあった。被災地に立ち続けることは特異な知覚によって脳を揺さぶられ続けることであり、痙攣したような脳からこぼれ落ちる一握りの「倫理」が唯一の希望に見えた。

長期の避難生活で疲労を蓄積させる被災者たち、そしてその被災者を目の前にして日々支援活動に追われる支援者たち、表面張力の限界を目前にして割れる寸前のシャボン玉のような被災地、そんな被災地を支えるぎりぎりの「倫理」を担保するものとは「公平性」だ。食料や水そして生活用品の配布、仮設住宅の抽選、そして支援金や義援金の分配、どの過程においても「公平性」が損なわれた感覚が共有されたとき、やり場のない怒りや怒号が被災地に溢れることになる。そして自らも被災者である自治体職員や被災地の外から駆けつけたボランティアの人たちは疲労困憊となりながらも「公平性」を担保するためには努力をおしまない。被災地では人びとの間で重要とされるものの優先順位は日々移り変わるが、「公平性」の順位が下がることはない。

地震により脳を揺さぶられ、疲労によって脳が麻痺した状態で被災地に立つすべての人々を助け、「公平性」を提供してくれるものとは何であろうか。脳の代替としてその役割を果たしてくれるかも知れない技術、どれほど長い時間が経過しても「公平性」のジャッジをぶれずに続けることができる技術。私たちが2016年を通して技術的なブレークスルーを目の当たりにし続けた「人工知能=AI(Artificial Intelligence)」はその要求に応えてくれるであろうか。非常時に人間の脳に成り代わるものとしての「人工知能」、人工知能は危機的(=批評的)な空間と時間でこそ、その可能性が試される必要がある。本論はその検証の試みともなろう。

 

1.「深層」批評とは何か?

2016年が人工知能=AIの飛躍の年となったことに異論のあるものはいないであろう。人工知能にその飛躍をもたらしたキーワードは「深層学習=ディープラーニング(Deep Learning)」であった。

2016年3月、米国Google社が開発した囲碁ソフトウェアである「AlphaGo」が世界トッププロ棋士の一人である韓国のイ・セドル九段を破り世界に衝撃を与えた。そして2016年の年末から2017年の年始にかけて、「AlphaGo」の後継の囲碁ソフトウェアである「Master」がネットの囲碁対局に突如としてあらわれ、世界のトッププロに対して60連勝するという事件が起こり囲碁界は騒然とした。「AlphaGo」や「Master」が示した凄さとは、単に正しい手順を性能が向上したコンピュータが計算によって早く見つけるといったレベルではなく、これまでの1,000年以上の囲碁の歴史に刻まれる定石を打ち破り、プロ棋士でもその意味を理解できない手を繰り出していることであり、現在世界のトップ棋士は「Master」の棋譜の勉強に余念がないといった状況である。そして、「AlphaGo」「Master」の驚くべき飛躍をもたらしたものこそ「深層学習」だったのである。

人工知能の世界において何度か起こった「ブレークスルー」の中でも近年の飛躍をもたらした最初の技術は「機械学習」である。かつての人工知能が人間の与えた推論規則やルールに従っていた「エキスパートシステム」であったのに対して、「機械学習」の仕組みを組み込んだ人工知能が優れているのは、人工知能が自ら学習して規則やルールを組み込んだ自身の「モデル」を改良し続けるという点にある。

たとえば、多くの画像から猫の画像を見つけ出す人工知能を考えてみる。かつての人工知能であれば猫に特徴的な「ヒゲ」や「耳」の形を人間が教えることによって、初めて人工知能はその画像が猫かどうかを判断することができた。それに対して「機械学習」を組み込んだ人工知能においては、猫の特徴である「ヒゲ」や「耳」の内実がどのようなものであるかを詳しく教えてあげる必要はない。「教師データ」と呼ばれる正しい「猫の画像」を大量に人工知能に読み込ませて自身で「学習」させることによって、人工知能は自動的に猫の「ヒゲ」や「耳」の特徴がどのようなものであるかを見いだし、自らの計算によって画像が猫かどうか判断するための「モデル」を改良していくのである。人間がより適切な「教師データ」を大量に与え続けることによって、人工知能は無限に判断のための「モデル」を精緻化し続けることができることになる。

さらに「機械学習」に「深層学習」の仕組みを組み込むことによって、人工知能はどのように進化するのであろうか。そこでは人間は人工知能に対して猫が「ヒゲ」や「耳」に特徴があることすら教える必要はない。人間はただ適切な猫の画像を「教師データ」として人工知能に与え続けていれば、人工知能は自ら猫に共通の特徴を見いだしモデルを作成してそのパラメータをチューニングし続け、永遠に判断のモデルの精緻化を繰り返すのである。人工知能は猫がどのようなものであるかを事前に知る必要がない。

また、囲碁の人工知能においては、人工知能に対して過去の囲碁の棋譜を与え続ければ(そしてある程度人工知能が学習した後には、人工知能同士での対局を繰り返せば)、人工知能は無限に強くなり続けるのである。人工知能は「深層学習」を組み込むことによって、人間が扱うことができないような大量のデータ(ビッグデータ!)に共通する、人間が定義できないような「不可視の」特徴を見いだすことができるのである。それはある意味では人工知能が新たな「意味」や「解釈」を見いだすことであると言えないだろうか。

そして人工知能が人間の解釈に依存せずに「意味」や「解釈」を独自に見いだすのであれば、人工知能による批評も可能ではないだろうか。大量のテキストを読み込み、判断する「批評」という営為において、「深層学習」を導入することは果たして可能なのであろうか。

 

批評家の斎藤美奈子は、批評の要諦が「これってあれじゃん」という指摘にあると論じる。斎藤は一見無関係に見えるAとBが実は同じであると指摘されたときの驚きと感動に、批評の価値の一つを見いだすのである。現代の小説と過去の物語との類似、日本の小説と西洋の小説との類似、小説作品と映画との類似、小説と現代思想の同型性など、「これ」と「あれ」を同一平面で論じることによって批評はこれまで見えなかった側面を見いだすことができ、そこには何らかの価値を見いだすことができる。そして「これ」と「あれ」の落差が批評的な視座を担保することがあるのも事実であろう。蓮實重彦は『小説から遠く離れて』において、同時代の小説がことごとく同じ物語の類型に収まってしまう事態を論じたが、『小説から遠く離れて』における蓮實の批評の手つきも実のところ「これってあれじゃん」という指摘であったと言うことができるのではないか。

多くの作品から一見すると「不可視」の類似を見いだす批評、多くの小説作品を無造作に「教師データ」として読み込んで新たなモデルを構築する批評、蓮實の『小説から遠く離れて』に代表される批評スタイルとは「機械学習」による批評、「機械学習批評」であったと理解できるのではないか。ある小説群から類似した物語の構造や主題を見いだすこと、小説と社会の構造の類似性を指摘すること、小説と現代思想におけるモチーフを重ね合わせて透かし見ること、「機械学習批評」は批評の人工知能化という新たな道を開くものであり、一方では小手先による批評の自動化への傾きを含む危うい批評でもある。無限に繰り返され、無限に精緻化できる批評に一体何の価値があるのであろうか。

しかし本論で目指す批評とは「機械学習批評」をさらに推し進め、「深層学習」を組み込んだ批評、「深層学習批評」である。「深層学習批評」においては事前に解釈の方向性を示すことは全く不要であり、「教師データ」として作品を読み込み続けることで判断のためのモデルを精緻化して、何らかの解釈を出力することが求められる。「深層学習批評」の可能性を目指し一歩を踏み出してみること。本論はそのための「深層」批評宣言である。

 

 

2.「深層」批評のための学習を開始する

 

まずは「深層」批評を開始するためにいくつかの小説を「教師データ」として読み込んでみよう。

 

【教師データ】村上春樹『1Q84

 天吾は自分の脳について考える。脳について考えなくてはならないことがたくさんあった。(略)脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。(『1Q84 BOOK1』 第22章(天吾))

 大切なのは角度と力の入れ方なのだ ーー いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蝋燭を吹き消すように心臓の動きを止める。(『1Q84 BOOK1』 第3章(青豆))

 

村上春樹『1Q84』はひとまず、脳について考える「天吾」と、脳の動きを止めようとする「青豆」の物語であるといえるであろう。予備校で数学を教えながら小説を書き続ける「天吾」は脳が生み出す「時間性」を強く意識してその可能性を信じる一方、その時間性によって生み出される「記憶」に悩まされる存在でもある。

一方の「青豆」はパートナーに暴力的に振る舞う男性を嫌悪し、それらの男性の殺害を試みる。青豆は鮮やかに彼らの脳を破壊することによって、人間の生きる芽を摘むことに使命感を見いだす。青豆自身もマーシャルアーツなどの身体トレーニングによって脳の可能性をコントロールしているようにも見える。

天吾が見いだす「脳の可能性」=「時間と空間の可能性」とは村上春樹にとっての小説の可能性と言い換えて良いであろう。しかし脳をモデルとする「人工知能」における時間とはいったいどのようなものなのであろうか。小説の時間と関連性はあるのだろうか。そして青豆が示す脳を破壊するという挙動は『1Q84』においてどのような意味を持つのであろうか。これらの問いに応えるにはもう少し「学習」する必要がある。

 

人工知能はソフトウェアとしては、脳の神経回路をモデルとした「ニューラルネットワーク」として実装される。「ニューラルネットワーク」は脳の神経細胞である「ニューロン」が信号を受け取り、受け取った信号と自身の特性によって他のニューロンに向けて様々な信号を出力することをコンピュータでモデル化し、人間の脳をソフトウェアで再現することを目指している。ソフトウェア上にニューロンを階層化して配置し、隣り合ったニューロン同士を接続、それぞれのニューロンが複数の入力信号に対してどのような出力信号を出力するのかをそれぞれのニューロンで関数(パラメータ)によって表現することで「ニューラルネットワーク」はできあがる。その階層の数は任意に設定することができ、より階層を増やすことによって無限に複雑なモデルを構築できる可能性がある。「ニューラルネットワーク」では「入力層」→「1層」→(・・・)→「n層」→「出力層」と階層の順番に信号が伝達される。そして無限に階層を増やすことによってより複雑な「モデル」を構築することが可能であり、人間の脳により近づいた人工知能が誕生する。

多くの適切な教師データを与えてある程度の「学習」を終えた「ニューラルネットワーク」は、外部からは「これ」を入力データとして与えると、そこに人間では「不可視」の特徴を見いだし、「あれ」と同型ではないか指摘することができる。ニューラルネットワークは「これってあれじゃん」とつぶやき続けるソフトウェアなのである。

 

【教師データ】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

「ギャングは何回殺されても生きかえります。ギャングを選択した者は殺されても殺されても、その度に、生きかえります。わたしたちは、顔がつぶされない限り、いつまでも、いつまでも、いつまでも、ギャングなのです」

 

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』は詩人とギャングしか登場しない小説と言って良いかもしれない。そこでは「詩人」が「名前」の周りを巡る存在であるとするなら、「ギャング」は顔=脳によって特徴つけられる存在であると言える。一度ギャングになった者がギャングであることから抜け出すには、その脳を吹き飛ばさなければならないのである。「詩人であること」「ギャングであること」の差異とはひとまず脳に対する意識、脳の役割の差であると考えることができる。もちろん高橋源一郎にとって小説とは「ギャング的なもの」となろう。

それでは高橋源一郎にとって「詩人」そして「ギャング」とは何なのであろうか。ギャング」とはどのような意味で小説的なものであろうか。

 

 

深層学習において良い「モデル」を生み出すためには適切な「教師データ」を大量に与えることが重要である。「教師データ」が適切ではない場合、そして「教師データ」にノイズが含まれる場合、人工知能は「過学習」という現象を起こしてしまう。「過学習」を起こしてモデル化されたニューラルネットワークは、入力データに対して正しい判断を行うことができなくなり偏った結果を出力してしまう可能性がある。「教師データ」の偏りや極端な「教師データ」、誤った「教師データ」は人工知能に「過学習」を引き起こし、人工知能の「正当性」「正確性」を損なってしまうといえる。

それでは「深層」批評において「過学習」を起こすと、批評はどのようになってしまうのか。むしろノイズを読み込み、「過学習」を引き起こすことにこそ批評の核心が宿っているのではないか。ある作品を読み込むことでこれまで見えなかった過去の作品の新たな解釈を見いだすこと、過去の解釈を反転させてしまうこと。それらは「過学習」なのか、正しい「学習」なのか判断できない。

さらに「深層学習」、そして「深層」批評を続けてみよう。「過学習」を起こし批評が自壊してしまう地点まで。

 

 

3.もう少し方向を定めず「深層」批評を継続してみる

 

Deep Learningの訳語である「深層学習」という用語はきわめて誤解を与えやすい。「深層学習」という名称は、人工知能が何らかの物事の「表層」ではなく「深層」を見て判断するといったことを意味しない。「深層学習」による人工知能では入力データは単なるバイナリデータであり、人工知能は「表層」も「深層」も区別せずに学習を行い、ニューラルネットワークの各ニューロンのパラメータを更新するといった処理が行われる。バイナリのデータ列には「表層」も「深層」も存在しない。

もちろん「深層学習」には蓮實重彦の言う「表層」や「深層」といった概念は全く関係ない。「深層学習」にとって表層も深層もすべてが等価であり、ある事物の表層と別の事物の深層に何らかの類似を見いだすといったことも十分に考えられる。もちろん我々が目指す「深層批評」においても「表層」と「深層」といった区分は全く関係ない。さらに「教師データ」を読み込んでみよう。


 

【教師データ】後藤明生『首塚の上のアドバルーン』

「首渡」になったり、晒し首になったりした平家一門の怨霊はどうなるのでしょうか。それは、物語も終わりに近づいた巻第十二に、二つの事件として書かれています。

一つは「大地震」で、壇ノ浦合戦から数ヶ月後の元歴二(一一八五)年七月九日の正午頃、「大地おびただしく動いて良久し。(・・)九重の塔もうへ六重ふりおとす。得長寿院も三十三間の御堂を、十七間までふり倒す。」

 

【教師データ】村上春樹『騎士団長殺し』
「免色はすべてを計算して事を進める。囲碁の布石のように。」
「遺書の話だったな。」口調が急にあらたまった。「うちの父親が話してくれたところでは、そこには継彦叔父が捕虜の首を切らされた話が記されていた。とても生々しく克明に。もちろん兵卒は軍刀なんて持っちゃいない。(略)しかし上官に日本刀を手渡されて、これで捕虜の首を切れと命令されるんだ。」
「私が妻のもとに戻り、再び生活を共にするようになってから数年後、三月十一日に東日本一帯に大きな地震が起こった。」
「東北の地震の二ヶ月後に、私がかつて住んでいた小田原の家が火事で焼け落ちた。」

 

後藤明生は『首塚の上のアドバルーン』において、自宅の近くにある「首塚」を調べることから『平家物語』における「首」について話を進める。そして、かつては「首」を切られた怨霊が「大地震」を引き起こすと信じられていたことを記述する。後藤明生は「首」=「脳」と「大地震」の連関を物語をまえに進める原動力にしているようだ。

一方の村上春樹の最新作である『騎士団長殺し』は「AlphaGo」想起させる記述を挟みながら「首」に纏わる歴史を底流とし、肖像画家でもある主人公が奇妙な「日本画家」の屋敷に住むことから物語は始まる。そして主人公は様々な事件をくぐり抜け、最終的に「東日本大震災」に出会う。そしてそこでは現実社会での糸魚川の大火災が影響したかのように、屋敷の火災ですべてが消失するという結果で物語は締めくくられる。

われわれの人工知能は「学習」することにより「脳」「首」という形象からなぜか震災にたどり着いてしまうようだ。ここで小説以外のものを「学習」しながら少し震災と人工知能について「出力」を試みることにする。

 

 

4.震災における公平性と人工知能について「出力」してみる

 

被災地における「公平性」とはなんだろうか。ここでの公平性とは「正義」と「平等」が混ぜ合わさったような概念である。例えば震災直後の食料の配布において「公平性」とは何だろうか。全住民におにぎりを2個ずつ平等に配布することであろうか。そうではなく、乳幼児、妊婦、高齢者などの「要支援者」に優先的に配布することがより公平であろう。しかしそれは震災後いつまで公平と見做されるやり方であろうか?

あるいは被災者に対して金銭的な支援を行うときにはどうしたら良いであろうか。全世帯に同じ金額を支給することが公平であろうか。それとも世帯の収入や資産に応じて金額を変えるべきであろうか。しかし資産がすべて地震で消失、あるいは津波で流出した世帯はどうであろうか。高額所得者であろうと震災によって会社が倒産した人にはどうしたら良いだろうか。このように被災地での「公平性」とは平時のものとは異なり、かつ復興の過程で時々刻々と変わる可能性を持っている、極めてやっかいな概念であることがわかる。

 

ここで近代哲学、経済学、倫理学などにおいて「正義」「平等」「公平」がどのように思考されてきたか「学習」してみよう。「正義」という問いに対して、近代以降の哲学において体系的に取り組み、今なお有効なものがイギリスの哲学者であり経済学者であるジェレミ・ベンサムとジョン・スチュアート・ミルが定式化した「功利主義」である。「功利主義」は「最大多数の最大幸福」を原理とし、そこでは個人が主観的に感じる快=効用を加算した総計が社会正義の目標とされる。そこではある制度における「正義」は快の総計という「帰結」のみが考慮され、個人の個別の事情が考慮されることはない。

人間的な内容がそぎ落とされてしまう「効用」に基づく「功利主義」の有効性に疑問符がつき始めたとき、それまでの「正義」論を刷新するアメリカの哲学者ジョン・ロールズが登場する。ロールズは功利主義において軽視された「善」を重視し、「自由と機会」「所得と富」「生きがいの基礎」などの「善いもの」の分配原理を社会正義を実現するための基礎に据える。

ロールズはそのとき「原初状態」という仮想的な場を思考する。「原初状態」とは社会を開始する前にその社会のルールを参加者が話し合って決める場のことであり、そこでは「無知のヴェール」によって参加者は当人の個別の情報を知らないまま、正義について議論して分配を決定することが求められる。「原初状態」において例えば「許容される不平等」などが合意されなければならないとロールズは言う。『正義論』でロールズは功利主義と対決し、「包括的な正義原理の定式化」を目指したのである。ロールズは普遍主義的に「正義」を定義しようとしたのである。

ロールズに対してはその後様々な批判や応答があった。マイケル・サンデルはロールズのリベラリズムにおける社会観の貧困さを糾弾し、アマルティア・センはロールズの人間の多様性に対する感度の鈍さを指摘する。そしてここではロールズの「普遍主義的」な平等を批判したマイケル・ウォルツァーの考え方を取り上げてみよう。

ウォルツァーは社会的な材の分配において別種の材は別々の理由付けにより、別々の手続きに従い、別々の担当者によって分配されるべきとの極めて常識的な指摘を行う。その上で社会的財の分配のあり方は時代によって変化し、その財の動きを規定するのは「財の持つ意味」であると論じる。「普遍主義的」「超越的」な立場を拒否するウォルツァーにとって、社会の動きや人びとが共有する「意味」を「解釈」することが「正義」の実現に不可欠なのである。数量的にはかることができる「快」のみでは「正義」は実現しないのである。「意味」を「解釈」することによってもたらされる「平等」、「意味」を「解釈」することは「批評」の得意な領域ではなかったか?

被災地において「公平性」を考えるとき、「功利主義」ではうまくいかないのは自明であろう。被災者に対する支援において最も考慮されるべきは「個人の個別の事情」であり、「快」の総計を最大化するだけではその「ひずみ」や「こぼれ落ちるもの」によって被災地はバラバラに分解してしまう。
一方で、被災地ではこれまでの「個人の個別の事情」がリセットされてしまう可能性がある空間でもあり、ロールズの言う「原初状態」に極めて近い空間が開かれていると言える。被災地においては個人の財産や特性が無になってしまうことを考慮しなければならず、ある意味で「無知のヴェール」をかぶせた状態で議論をしなければならない。一方でロールズの「普遍主義的」な論理だけでは個別の被災者に応じた支援を行うことはできない。個別の事情に沿った支援のみが個別の被災者に届くのである。つまり結論としては、ウォルツァーの言う「正義」を参照しながら、被災者個別の「意味」を「解釈」する支援が実現されなければならないということになる。
また一方で被災地での支援において支援者個人の判断に「恣意的な解釈」が混在することは避けなければならない。人間の恣意的な「解釈」は公平性を大きく損なう可能性がある。例えば被害の程度によって金銭的な支援を行う場合、その被害程度の判断に人間の恣意的な「解釈」が混じってはいけない。

「意味」を「解釈」しなければならないが、恣意的な「解釈」は許されないということ。ここで別の「教師データ」を読み込んでみる。


 

【教師データ】吉本隆明『マチウ書試論』
「現実が強く人間の存在を圧すとき、はじめて人間は実存するという意識をもつことができる。」
「原始キリスト教は単に存在する現実を、人間の実存の意識と分裂させるために、倫理というものを社会的秩序と対立するものとして把握する。」
「徹頭徹尾、自意識を倫理化しようとする原始キリスト教の倫理感覚は、人間性の自然さというものに脅迫を感じ、それにたいし戦いをしかけなければならなかったのだ。」
「だが、この自由な選択にかけられた人間の意思も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない」

吉本隆明は『マチウ書試論』において「現実が強く人間の存在を圧すとき」に人間の「実存」の意識を持つことができると指摘した上で、原始キリスト教における迫害意識に基づく「倫理」と「社会秩序」の分裂、「自意識」の「倫理化」による自意識の肥大と「倫理」の社会や自然からの分離について論じる。最終的に吉本は「関係の絶対性」によってその自意識を相対化する。
被災地とは文字通り「現実が強く人間の存在を圧すとき」であり、そこでは自意識の肥大化や倫理のねじれが起こりやすい空間であると言える。被災地におけるコンピュータシステムの活用は「公平性」のための武器であるが、社会や自然からの分離が懸念される。それでは「人工知能」はどうであろうか。人工知能は「関係の絶対性」によって相対化されるであろうか。

人工知能によって被災地の「公平性」は担保されるのであろうか。そこでは人間による「恣意的な解釈」は排除されているように見える。ただし一世代前の人工知能である「エキスパートシステム」や「機会学習」においては、人間の解釈が人工知能の挙動に大きく影響する。そこでの「解釈」が恣意的なものになる可能性を大きく含むことになる。
しかし人工知能に「深層学習」を組み込むことによって、人間による「解釈」は完全に排除され、人工知能が自ら学習して「意味」を生み出して「解釈」する世界が実現するのではないか。被災者の個別事情や被災地の個別の環境を入力データとすることによって、人工知能はそこから被災地ごとに異なる学習を行い、被災地ごとのモデルを生み出すことが可能である。「深層学習」は人間の解釈なしで独自に「意味」を生み出して「解釈」し、恣意性を排除した「公平性」をもたらすのではないか。人工知能が「公平性」を担保する可能性についてさらに思考してみる。
「深層学習」が行う「解釈」とは一体何だろうか。繰り返すが人工知能における「学習」とはニューラルネットワークにおける各ニューロンでの関数・パラメータを決定することであるが、階層が多く複雑なニューラルネットワークにおいてはパラメータの数は軽く億を超えることになる。しかもそのパラメータ群は学習のたびに変更され、人間がその内容を理解することは不可能である。そしてそのブラックボックス化して「不可視」となったニューラルネットワークにおいても、入力データを「解釈」して何らかの人間が理解できる出力を行っているのである。当然どのような解釈を行っているか、そして学習によってどのように解釈が変更していくかは人間には理解不能である。一世代前のコンピュータプログラム・人工知能においては、その解釈は人間が指定し変更するものであり、ある意味で解釈は「必然」であった。しかし「深層学習」における「解釈」はもはや「不可視」の空間に起きる「偶然」と呼ぶべきものなのではないか。「深層学習」はコンピュータに「偶然性」を呼び込んだのである。そして我々は、偶然性によって生成するものを「意味」と呼んできたのではないか。

5.人工知能と自由について「学習」してみる

 ここで青山拓央『時間と自由意志』における議論を「学習」して、より人工知能における「公平性」について理解を深めてみよう。青山は自由についての議論の前提として「分岐問題」についての分析を行う。ある人が何らかの決断を行って歴史が分岐する(可能的な歴史の中で何かが選択される)ときに、その決断の出来事(=歴史が分岐する「根拠」)を指定可能であるか、歴史が分岐する時間的な位置を特定できるのかという問いをめぐり議論が展開される。結論を先取りすれば、青山は様々な哲学者の議論を参照しながら歴史が分岐する「分岐点」を特定することは不可能であると断言する。
仮に歴史が分岐する「分岐点」を指定不可能であるとすると、我々は「決定論」に陥り「自由」は存在しないと考えてしまいがちである。人間による決断という出来事が歴史の分岐を生み出さないということは人間には「自由」が存在しないということになる。ここで青山は「偶然性」という概念に「自由」を仮託する。青山に倣い、いくつかの可能性から現実が生み出されることに根拠や理由が存在しないことを「偶然」と呼ぶのであれば、人間が自由だと感じる根拠は「偶然性」ということになる。
さきほどの我々の議論では人工知能による解釈は「不可視」であり「偶然性」を導き入れているというものであった。仮に人間が人工知能の「解釈」に「偶然性」を認めるのであれば、そのとき人間は人工知能の存在を通して「自由」を見いだしているということになる。人工知能による「深層学習」が「公平性」を担保すると言えるその根拠の一つは、「深層学習」によって人間は人工知能に「自由」を見いだすことができるということではないか。
さらにここで青山の「二人称の自由」についての議論も参照しておこう。青山は「私」が私の一人称的経験のみを見る限り、そこには不可視のものがないことを指摘する。「潜在的な心理過程」や「無意識」についても「私」の分析結果から要請された理論装置であり、それは不可視ではないのである。一方では二人称の「他者」の内面は我々には不可視であり、その事実から「自由意志」とは本質的に二人称的なものであるとの結論となる。すべてが可視的となる世界では決断の「根拠」を指定することができず、そこに「自由意思」を認識することはできない。不可視の他者と同じ内面を「私」に見いだすことによって始めて「私」の内部が「不可視」となり人間はそこに「自由」を感じることができるようになるのである。
人工知能において「深層学習」が解釈を行う内部の構造は「不可視」であることを指摘してきた。青山の言う「二人称の自由」の観点からも、我々は人工知能に「自由」を見いだすことができると言えるである。そして自由を見いだすところにこそ人は「公平性」を感じることが可能になる。

6.人工知能と時間について「学習」してみる

 ここで人工知能における「公平性」についての議論を深めるため、「深層学習」のアルゴリズムにおける時間について考えてみる。まずは新たな「教師データ」を読み込んでみよう。


 

【教師データ】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
木星には(略)「単振動的」「サイクロイド曲線的」「ジオイド曲線的」「カタストロフィー的」「プランクの定数的」「ディラック型」といった多数の定量的「時間」が存在するし、その他に非定量的「時間」が存在している。

 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の中盤、「詩の学校」に「木星人」が「地球の言葉を木星的に使用する方法」について「私」に問いかける。このときに「木星人」は地球に「時間」の概念が少ないこと(直線的、円環的、らせん的、週末的)を指摘する。「詩人」「ギャング」という分割にあてはめると「木星人」とは「ギャング」的なものに分類されるであろう。そしてそれは脳との関連から考えると人工知能的なものであり、人工知能における時間の多様性と接続して「解釈」することができる。人工知能には多様な時間の概念が見いだせるのではないか?

人工知能において「学習」するとは、教師データを入力としたときに出力データにおける期待値との誤差を最小化するように、各ニューロンにおけるパラメータの調整を繰り返すことである。その学習の過程に組み込まれたアルゴリズムは「誤差逆伝搬法」と呼ばれるものである。通常の人工知能の計算においては、情報がニューロン間を「正」の方向に伝わり出力を得るという順序をとる、例えば情報は「入力層」→「1層」→(・・・)→「n層」→「出力層」といった風に伝搬する。
ところが「誤差逆伝搬法」は文字通り誤差の情報を「逆」の方向に伝えることによってパラメータを逆順に補正していくアルゴリズムである。誤差の伝搬する順序は「出力層」→「n層」→(・・・)→「1層」→「入力層」といったような方向となる。「誤差逆伝搬法」によって人工知能は時間が逆向きに流れるかのような仕組みを内蔵して「学習」しているのである。人工知能における時間は過去から未来へ直線的に流れ、空間的に図示できるものではないということである。
ここに「公平性」のもうひとつの側面を見ることができる。過去から未来に直線的に流れる時間のみを考慮しては「公平性」を確保することはできない。一方向に直線的に流れる時間では被災者個人の過去を、そこに存在するものとして理解することができない。あるいは未来を過去と現在から「必然的」に決定されるものとしてしか思考することができない。そのような時間の考え方のみでは「意味」の「解釈」は極めて困難であろう。「意味」とは未来から現在に向かう「偶然性」に基づく出来事であり、「解釈」には二人称的な「不可視」の「内面」を「私」に取り込むことが必要となる。
適切に「意味」の「解釈」を行うためには逆向きに流れる、あるいは円環する奇妙な時間を考慮しなければならない。人工知能における「深層学習」はその時間に関わる「公平性」の条件
を満たしている。


 

【教師データ】後藤明生『首塚の上のアドバルーン』
繰り返しになるかも知れませんが、入院手術は『平家』の首について何ごとかをお話ししようと思い立った原因ではありません。(略)しかし、とにかく、そのためにわたしの『平家』『太平記』めぐりの道順が変化したのは事実です。いかにも入院手術は偶然のようなものでした。しかし、その偶然は、わたしの『平家』『太平記』めぐりに割り込んで来て、そのアミダクジの回路を変化させたわけです。

 後藤明生の小説は「アミダクジ式」という特異の時間経過を小説に持ち込む。話題は個人的なものから古典の内容まで、空間的にも時間的にも寄り道しながら進んでいく。元来、小説に流れる時間とは「アミダクジ式」のものなのではないか。そのような多様な時間を含む小説には「公平性」を生成する可能性が秘められていると言える。小説に流れる時間とは人工知能に内蔵されている「不可視」の解釈や逆向きの時間経過と類似のものであり、そこにこそ本論において、様々な小説の「読み込み」と「解釈」、「公平性」についての原理的思考、「深層学習」についての独自の「解釈」の3つの論を平行して進めてきた意義が存在する。
 小説を読むということは「木星人」が言う「非定量的時間」が流れる空間を生きることなのであり、そこでは「必然性」はなく「偶然性」が「自由」を担保するのであり、「不可視」の「解釈」が遂行される場所である。ここで「小説」は「脳」あるいは「人工知能」に置き換え可能ではないかというのが本論の問題提起である。もちろん逆の置き換えも。

7.「詩人」と「ギャング」

 さらに小説を読み込み「学習」を続行してみよう。さらなる「学習」を行うことによって、本論の前半で放置した問いに対する「出力」を得ることができるであろう。


 

【教師データ】村上春樹『騎士団長殺し』
「イデアが心を反映する鏡だとするなら、雨田さんはそこに自分が見たいものを見ているということなのですか?」
「見なくてはならないものを見ているのだ」と騎士団長は言い換えた。「あるいはそれを目にすることによって、彼は身を切るほどの苦痛を感じているのかもしれない。しかし彼はそれを見なくてはならないのだ。人生の終わりにあたって」
「そして優れたメタファーはすべてのものごとの中に、隠された可能性の川筋を浮かび上がらせることができます。優れた詩人がひとつの光景の中に、もうひとつの別の新たな光景を鮮やかに浮かび上がらせるのと同じように。言うまでもないことなのですが、最良のメタファーは最良の詩になります。あなたはその別の新たな光景から目を逸らさないようにしなくてはなりません。」

 これまでも「地下鉄サリン事件」や「阪神大震災」など社会へのコミットメントに意欲的であった村上春樹の最新作『騎士団長殺し』は「イデアとメタファー」の対それ自体をメタファーとして、小説や表象における震災への関わり方を問う作品となった。村上春樹は「イデア」という概念を提唱したプラトンに倣い、「イデア」=「見なくてはならないもの」に直接到達することは不可能なのであり、必ず「メタファー」=「最良の詩」=「肖像画」を通過しなければならないと考える。もちろんそれは東日本大震災についても同様であり、村上によって震災についてのルポルタージュが書かれることはないであろう。そして村上にとっては、たとえどんなに批判されようとも「小説」から「メタファー」を放逐することは不可能であり、それこそが「イデア」=「見なくてはならないもの」に至る手段なのである。
 村上春樹にとって「小説」という手段を選択することは、『!Q84』で天吾が見いだす「時間と空間の可能性」を生み出すことであり、小説における「アミダクジ式」の時間、小説に独特な「非定量的時間」のみが震災の「イデア」を描くことができるということになろう。もちろん「時間と空間の可能性」とは「脳の可能性」なのであり、人工知能における「深層学習」における「解釈」の可能性であろう。「深層学習」における「意味」の生成と「解釈」は村上春樹における「イデア」の生成と「メタファー」と同じ概念であると言えるのではないか。『!Q84』の物語の冒頭において青豆は「脳を破壊」することで殺人を行い「イデア」に到達しようとするのであるが、物語中盤以降の青豆の逃亡とは「脳を破壊」する世界からの逃亡なのであり、『!Q84』とは青豆の「転向」の物語、「人工知能」に接近する物語として読むことも可能であろう。


 

【教師データ】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
わたしはギャングだったんだ。わたしは詩人なんかではなかった。わたしは生まれてからずっとギャングだったんだ。
わたしは今からそれを証明しようとしている。

 ここで高橋源一郎の言う「詩人」とは「メタファー」であり、「ギャング」とは「イデア」であるとして解釈してみたらどうであろうか。本論の1章において「詩人であること」「ギャングであること」の差異とは脳に対する意識であると指摘したが、その議論をさらに深めることが可能となろう。村上春樹の言葉をあてはめれば「ギャング」とは「見なくてはならないものを見て」「身を切るほどの苦痛を感じる」存在なのである。もちろん高橋にとって「ギャング」とは「小説」の別名であろう。高橋は初期代表作である『さようなら、ギャングたち』において「詩」への訣別と「小説」への決意を語っている。仮にメタファーを放棄することで「見なくてはならないもの」への到達が困難になろうとも。そして小説が「身を切るほどの苦痛を感じる」行為であるとしても。
 高橋にとって「ギャング」とは顔=脳によって特徴つけられる存在だったのであり、それは「小説」が脳の構造と親和性を持つということでもあり、「小説」と「人工知能」そして「深層学習」との親和性を意味するものでもあろう。「ギャング」とは「人工知能」なのである。

8.「深層学習」によるさらなる「出力」
 ここまで本論においては「深層批評」と称して様々小説を読み込んで「学習」することにより、その作品間に様々な「不可視」の「類似」を見いだし、そしてそこからの「出力」を記述することを試みてきた。
 ここではもうひとつ新たな「作品」を読み込み、これまで取り上げてきた作品との新たな「類似」を見いだし、「学習」および本論を締めくくることとしよう。



【教師データ】阿部和重『ピストルズ』
「あの幻惑的な馨香が、ガラスの自動ドアが開いたと同時に店内に流れ込んできたのである。(略)帳場の椅子に坐って店番をしていたわたしは、何者かが大脳辺縁系にささやきかけてくるのに気づいておやっと思った」
「その発生と同時にフルスイングされた緑色の金属バットが ― 菖蒲水樹の後頭部を直撃してしまう。」
「頭部に致命的な重傷を負ってしまった彼は、救急車ですぐさま北村山公立病院の夜間救急外来に搬送されたのだが(略)現在も意識が回復せずに在宅介護の生活を送っている。」

 阿部和重は先進のIT技術を積極的に小説に取り込みながら、一方で脳の破壊にこだわる小説家であると言えるだろう。村上春樹作品においては「認知症」が頻出するが、阿部和重作品においては「脳」へのフルスイングが印象的である。
 阿部和重作品における特徴として印象的なのは「家系図」「系譜」「血の繋がり」へのこだわりである。渡部直己が『シンセミア』における田宮家の家系図と天皇家の系図との関係性を論じたが、『ピストルズ』における菖蒲家の系譜において重要なのは「血の繋がり」の薄さであろう。菖蒲家の四姉妹も全員母親が異なっており、姉妹と言いながらも血の繋がりは薄い。そこに兄弟となるカイトを含めても父母を同じくするものは存在しないことになる。阿部の「血の繋がり」へのこだわりは「ニッポニアニッポン」からも分かるように天皇を描くことへのこだわりに接続されるものであろうが、最近作の長編である『ピストルズ』においてはむしろ「血の繋がり」の薄い家族を描くことに方向を転換しているように見える。
 そして本論で取り上げてきた小説群はことごとく「地の繋がり」の薄い家族を描いているのではないか?


 

【教師データ】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
わたしは女が妊娠しているなんて知らなかった。女だって、自分が妊娠していることを知らなかった。

 『さようなら、ギャングたち』に登場する「女」は自分が妊娠していることを知らずに出産してしまう。そこには「血の繋がり」の薄さとは別次元の家族の形への指向が内在しているように見える。
 そして本論で取り上げてきた村上春樹作品も同様である。『1Q84』において天吾はNHKの集金人をする父親が本当の父親ではないと疑い、「ふかえり」こと深田絵里子は天吾とセックスをしても「妊娠することはない」と宣言し、青豆は天吾とセックスをせずに天吾の子供を妊娠する。
 同様に『騎士団長殺し』においても雨田はかつての恋人の娘である秋川まりえが自分と「血の繋がり」がある娘ではないかと疑い、主人公はかつての妻が妊娠したとの知らせを受けたときに、性行為がないにもかかわらず自分の娘であることを確信する。
 本論においては脳にこだわる小説群を読み込むことから「深層学習」を開始したのであった。それは「脳へのこだわり」と「人工知能」=「深層学習」との連接に関する期待があったからっではあるが、なぜそれらの小説群は「地の繋がりの薄い」家族を描かなければならなかったのであろうか。
 その問いに対してこれまでの学習成果である「モデル」からは簡単な「出力」が回答できるのみである。それは「必然性」のある家族よりも「偶然性」を優先することで「自由意志」や「正義」「公平性」を感じることができるのではないかということである。
 それぞれの家族が「血の繋がり」ではない新たな「意味」を生成し、それを「解釈」することが家族の営みとなるという姿には「人工知能」の時代における人間らしさを見いだすことが可能なのではないか。

9.結論
 本論では【「深層」批評宣言】というタイトルで「アミダクジ式」に迂回しながら様々な事項について「解釈」を行ってきた。それは「深層学習」について論じながら。平行して「深層学習」的な批評を行うというものであった。結果として本論は極めて断片的となったことは否めない。前後の関係性が明確ではない多くの断片からなる論考であった。しかし多くの断片が「弱いつながり」によって連携する姿は「ニューラルネットワーク」の形態に類似しているといえないだろうか。人間が「深層学習的な批評」を行うことは極めて困難な試みとなることが予想された。そしてそれが成功しているかは現時点の筆者には「解釈」できない。しかし批評の断片が読み継がれる中で新たなパラメータを纏っていく可能性を信じることこそが、最も「深層学習」的なのであり、それは「深層学習的な批評」は常に失敗を運命付けられていることの裏返しであろう。


 

[参考文献]
村上春樹『1Q84』『騎士団長殺し』
高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
後藤明生『首塚の上のアドバルーン』
阿部和重『ピストルズ』
吉本隆明『マチウ書試論』
蓮實重彦『小説から遠く離れて』
斎藤康毅『ゼロから作るDeep Learning』
青山拓央『時間と自由意志』
川本隆史「正義と平等」(『倫理学を学ぶ人のために』収録)

文字数:18345

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