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「深層」批評宣言

「こめかみから脳味噌をぶち抜くのは、
あんたが考えているよりずっとむずかしいのだ」
(村上春樹『1Q84』)

 

0.イントロダクション

 2016年の熊本地震は大地を揺らし、そして脳を揺さぶる出来事であった。
 本震から一週間が経過した後に被災地に入り、その後約三ヶ月にわたって熊本県で被災者に対する支援活動を行った。甚大な被害があった地域では多くの建物がグシャと押しつぶされたようになり、まっすぐに立っている電柱は数少なく電線は奇妙な曲線を描いて都市の空間のゆがみを表現していた。被災者の多くは避難所生活を余儀なくされ、外から視界を遮るものがないガラス張りの役所で生活をする人たちも多く見られた。駐車場に止めた自家用車で長期間生活する人たち、公園にテントを張って生活する家族もあった。被災地に立ち続けることは五感によって脳を揺さぶられ続けることであり、痙攣したような脳からこぼれ落ちる一握りの「倫理」が唯一の希望に見える空間であった。
 長期の避難生活で疲労を蓄積させる被災者たち、そしてその被災者を目の前にして日々支援活動に追われる支援者たち、表面張力の限界を目前にして割れる寸前のシャボン玉のような被災地、そんな被災地を支えるぎりぎりの「倫理」を担保するものとは「公平性」だ。食料や水そして生活用品の配布、仮設住宅の抽選、そして支援金や義援金の分配、どの過程においても「公平性」が損なわれた感覚が共有されたとき、やり場のない怒りや怒号が被災地に溢れることになる。そして自らも被災者である自治体職員や被災地の外から駆けつけたボランティアの人たちは疲労困憊となりながらも「公平性」を担保するためには努力をおしまない。
 地震により脳を揺さぶられ、疲労によって脳が麻痺した状態で被災地に立つすべての人々を助けるものとは何であろうか。脳の代わりとなってくれる技術、どれほど長い時間が経過しても「公正性」のジャッジをぶれずに続けることができるもの。私たちが2016年を通して技術的なブレークスルーを目の当たりにし続けた「人工知能=AI」はその要求に応えてくれるであろうか。非常時に人間の脳に成り代わるものとしての「人工知能」、人工知能は危機的(=批評的)な空間でその可能性が試される必要がある。


1.「深層」批評とは何か?

 2016年が人工知能=AIの飛躍の年となったことに異論のあるものはいないであろう。そしてそこでのキーワードは「深層学習=ディープラーニング」であった。
 2016年3月、米国Google社が開発した囲碁ソフトウェアである「AlphaGo」が世界トッププロ棋士の一人である韓国のイ・セドル九段を破り世界に衝撃を与えた。そして2016年の年末から2017年の年始にかけて「AlphaGo」の後継の囲碁ソフトウェアである「Master」がネットの囲碁対局に突如としてあらわれ、世界のトッププロに対して60連勝するという事件が起こり囲碁界は騒然とした。「AlphaGo」や「Master」が指す手順は単に正しい手順を計算によって早く見つけるといったレベルではなく、かつての定石を打ち破りプロ棋士でもその意味を理解できない手を繰り出し、現在世界のトップ棋士は「Master」の棋譜の勉強に余念がないといった状況である。
 人工知能の世界において何度か起こった「ブレークスルー」の中でも近年の飛躍をもたらした技術は「機械学習」と「深層学習」である。かつての人工知能が人間の与えた推論規則やルールに従っていたのに対して、「機械学習」の仕組みを組み込んだ人工知能が優れているのは、人工知能が自ら学習して規則やルールを組み込んだ自身の「モデル」を改良し続けるという点にある。
 たとえば多くの画像から猫の画像を見つけ出す人工知能を考えてみる。かつての人工知能であれば猫で特徴的な「ヒゲ」や「耳」の形を人間が教えることによって、始めて人工知能はその画像が猫かどうかを判断することができた。それに対して「機械学習」を組み込んだ人工知能においては、猫の特徴である「ヒゲ」や「耳」の内実がどのようなものであるかを詳しく教えてあげる必要はない。「教師データ」と呼ばれる「猫の画像」を大量に人工知能に読み込ませて「学習」させることによって、人工知能は自動的に猫の特徴の内実を見いだし、自ら画像を見つけ出す「モデル」を改良していくのである。人間がより適切な「教師データ」を大量に与え続けることによって、人工知能は無限に判断のための「モデル」を精緻化し続けることができるのである。
 さらに「機械学習」に「深層学習」の仕組みを組み込むことによって、人工知能はどのように進化するのであろうか。そこでは人間は人工知能に対して猫が「ヒゲ」や「耳」に特徴があることすら教える必要はない。人間はただただ、猫の画像を「教師データ」として与え続けていれば、人工知能は自らモデルを作成してそのパラメータをチューニングし続け、永遠にモデルの精緻化を繰り返すのである。囲碁の人工知能に対しては過去の囲碁の棋譜を与え続ければ(そして人工知能同士での対戦を繰り返せば)、人工知能は無限に強くなり続けるのである。人工知能は「深層学習」を組み込むことによって、多くのデータに共通する、人間が定義できないような特徴を見いだすことができるのである。
 大量のテキストを読み込む「批評」において「深層学習」は可能であろうか。


 批評家の斎藤美奈子は、批評の要諦が「これってあれじゃん」という指摘にあると論じる。斎藤は一見無関係に見えるAとBが実は同じであると指摘されたときの驚きと感動に、批評の価値の一つを見いだすのである。現代の小説と過去の物語との類似、日本の近代小説と西洋の近代小説との類似、小説作品と映画との類似など、「これ」と「あれ」を同一平面で論じることによって批評はこれまで見えなかった側面を見いだすことができる。そして「これ」と「あれ」の落差が批評的な視座を担保することがあるのは事実であろう。蓮実重彦は『小説から遠く離れて』において同時代の小説がことごとく同じ物語の類型に収まってしまう事態を論じたが、そこにおける蓮実の批評の手つきも実のところ「これってあれじゃん」という指摘であったと言うことができるであろう。
 多くの作品から一見すると不可視の特徴を見いだす批評、多くの作品を無造作に「教師データ」として取り込んで新たなモデルを構築する批評、蓮実の『小説から遠く離れて』に代表される批評スタイルとは「機械学習」による批評、「機械学習批評」であったと言えるのではないか。ある小説群から類似した物語の構造や主題を見いだすこと、小説と社会の構造の類似性を指摘すること、小説と現代思想におけるモチーフを重ね合わせて透かし見ること、「機械学習批評」は批評の人工知能化という新たな道を開くものであり、一方では小手先による批評の自動化への傾きを含む危うい批評でもある。無限に繰り返され無限に精緻化できる批評に一体何の価値があるのであろうか。
 しかし本論で目指す批評とは「機械学習批評」をさらに推し進め、「深層学習」を組み込んだ批評、「深層学習批評」である。「教師データ」として作品を読み込み続けることでモデルを精緻化する批評、その可能性を目指し一歩を踏み出してみること。
 本論は「深層」批評宣言である。


2.「深層」批評のための学習を開始する

【教師データ(1)】村上春樹『1Q84』

 天吾は自分の脳について考える。脳について考えなくてはならないことがたくさんあった。(略)脳という器官のそのような飛躍的な拡大によって、人間が獲得できたのは、時間と空間と可能性の観念である。(村上春樹『1Q84 BOOK1』 第22章(天吾))

 大切なのは角度と力の入れ方なのだ ー いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蝋燭を吹き消すように心臓の動きを止める。(村上春樹『1Q84 BOOK1』 第3章(青豆))

 村上春樹『1Q84』はひとまず脳について考える「天吾」と、脳の動きを止めようとする「青豆」の物語であるといえるであろう。予備校で数学を教えながら小説を書き続ける「天吾」は脳が生み出す「時間性」を強く意識してその可能性を信じる一方、時間性によって生み出される「記憶」に悩まされる存在でもある。
 一方の「青豆」はDVによって暴力的に他者を対する男性に対して、鮮やかにその脳を破壊することによって人間の生きる芽を摘むことに使命感を見いだす。青豆自身もマーシャルアーツなどの身体トレーニングによって脳の可能性をコントロールしているようにも見える。
 天吾が見いだす「脳の可能性」=「時間と空間の可能性」とは村上春樹にとっての小説の可能性と言い換えて良いであろう。そのとき青豆が示す脳を破壊するという挙動は本作においてどのような意味を持つのであろうか。
 その問いに答えるにはしばらく「学習」を繰り返す必要がありそうだ。


 人工知能はソフトウェアにおいて、脳の神経回路をモデルとした「ニューラルネットワーク」として実装される。「ニューラルネットワーク」は脳の神経細胞である「ニューロン」が信号を受け取り、受け取った信号と自身の特性によって他のニューロンに向けて様々な信号を出力することをコンピュータでモデル化し、人間の脳をソフトウェアで再現することを目指している。ソフトウェア上にニューロンを階層化して配置し、隣り合ったニューロン同士を接続、それぞれのニューロンが複数の入力信号に対してどのような出力信号を出力するのかをそれぞれのニューロンで関数によって表現することで「ニューラルネットワーク」はできあがる。その階層の数は任意に設定することができ、より層を増やすことによって無限に複雑なモデルを構築できる可能性がある。無限に階層を増やすことによって、人間の脳により近づいたソフトウェアが誕生する。
 教師データを与えることによってパラメータがある程度固定化した「ニューラルネットワーク」は、外部からはある入力に対して何らかの計算を行ってある結果を出力するという挙動を示すように見える。ニューラルネットワークは「これってあれじゃん」とつぶやき続けるソフトウェアなのである。


【教師データ(2)】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

「ギャングは何回殺されても生きかえります。ギャングを選択した者は殺されても殺されても、その度に、生きかえります。わたしたちは、顔がつぶされない限り、いつまでも、いつまでも、いつまでも、ギャングなのです」(高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』)

 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』は詩人とギャングしか登場しない小説と言って良いかもしれない。そこでは「詩人」が「名前」の周りを巡る存在であるとするなら、「ギャング」は顔=脳によって特徴つけられる存在であると言える。一度ギャングになった者がギャングであることから抜け出すには、その脳を吹き飛ばさなければならないのである。「詩人であること」「ギャングであること」の差異とはひとまず脳に対する意識、脳の役割の差でもある。もちろん高橋源一郎にとって小説とは「ギャング的なもの」なのである。
 それでは高橋源一郎にとって「ギャング」とは何なのであろうか。もう少し「教師データ」を読み込んでみる必要がある。


 深層学習においては適切な「教師データ」を与えることが重要である。「教師データ」が適切ではない場合、人工知能は「過学習」という現象を起こしてしまう。「過学習」を起こしてモデル化されたニューラルネットワークは、入力データに対して正しい判断を行うことができなくなり偏った結果を出力してしまうのである。「教師データ」の偏りや極端な「教師データ」は人工知能に「過学習」を引き起こし、人工知能の「公平性」を損なってしまうといえる。
 それでは「深層」批評において「過学習」を起こすとどのようになってしまうのか。むしろ「過学習」を引き起こすことにこそ批評の核心が宿っているのではないか?
 さらに「深層学習」、そして「深層」批評を続けてみよう。「過学習」を起こし批評が自壊してしまう地点まで。

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