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記憶の蒐集

 デビュー以来、星野智幸の小説は「政治」と「資本主義」を問い続けている。

 初期の代表作である『ファンタジスタ』においては、未来の日本での首相公選制での元サッカー選手の候補への熱狂とその危うさを、サッカーにおける「ファンタジスタ」に重ねあわせる。トランプ大統領の誕生以降において再読されるべき『ファンタジスタ』において繰り返し描かれて印象深いのは、サッカーの試合の後に見られる「ユニフォームの交換」の気持ち悪さについての描写だ。汗で「じっとりと濡れた」ユニフォームの交換とは、資本主義における「商品交換」の隠喩として解釈できる。ユニフォームに粘り着く「汗」とは商品交換における「利潤」であり、「汗」がまとわりつくことの気持ち悪さとは、資本主義における商品交換においていつの間にか付随する「利潤」の気持ち悪さであろう。
 また「左翼」という入墨を彫る「ヲロシヤ人」が活躍する『在日ヲロシヤ人の悲劇』では、政治活動に身を投じることによる家族の解体が描かれる。政治小説の傑作と評して良い『在日ヲロシヤ人の悲劇』で描かれるのは「政治」を問うことが家族という「共同体」を問うこととイコールになるということであり、「政治」によって家族における「贈与」という交換関係がバラバラにされる姿である。資本主義を無効化する手段でもある「ハンスト」で命を落とすという出来事が印象的に小説に取り込まれている。
 そして最も「資本主義」への問いを先鋭化させた小説が、星野智幸の代表作とも言える『俺俺』ということになろう。


 ここで水野和夫と大澤真幸による『資本主義という謎』に依拠し、資本主義の特徴を簡単に整理しておく。まずポイントとなるのは資本主義が「蒐集(コレクション)」のシステムであるということである。水野は古代・中世・近代を通じての「普遍的原理」が「蒐集(コレクション)」であることを指摘し、最も効率の良い蒐集システムこそが資本主義であるとする。資本主義を駆動する動機は蒐集であり、モノ・カネ・情報を「蓄える」ことが資本主義の理念なのである。また大澤は経済人類学を念頭に「交換」に着目し、互酬性(贈与)や再分配ではなく商品交換が支配的である社会が、おおよそ資本主義に相当するという点を指摘する。資本主義においても贈与や再分配は存在するのであるが、商品と貨幣の交換において利潤を生み出すことが支配的となることが資本主義の特徴と言えるだろう。
 資本主義の未来を考えることは「蒐集」と「交換」の未来を考えることなのである。


 星野智幸の『俺俺』という小説は「オレオレ詐欺」をきっかけとして「俺」が増殖していくという奇妙な物語である。家電量販店に勤める「俺」がファーストフード店で携帯電話を盗み「オレオレ詐欺」をはたらいたことがきっかけとなり、盗んだ携帯電話の持ち主がいつの間にか「俺」となってしまう。「俺」の境界が滲むことにより「俺」が分裂・増殖したような感覚を味わい、さらにはそれが現実となってしまうのである。さらには学生のもう一人の「俺」も登場し、三人の「俺」が奇妙な共同体を形成する。「俺山」とも呼ばれる「三人共同体」は安定した居心地の良いものとなるかに見えたが、「俺」はさらに増殖し続け、最終的には周りすべてが「俺」となる不気味なディストピアが描かれる。
 『俺俺』の物語は「蒐集」から始まる。『俺俺』の最初のシーンは「俺」がファーストフード店にいると隣に座り後に「俺」となる大樹の「うんこ我慢してんのって気持ちよくね?」という言葉から始まる。その後「俺」は大樹の携帯電話を盗んで「オレオレ詐欺」をはたらくのであるが、資本主義による「商品交換」を攪乱する「詐欺」という行為によって大樹の「うんこの蓄積」が中断されるという点を明記すべきであろう。その結果として「俺」と「俺」の等価交換ともいうべき奇妙な事態が進展する。
 「俺」が増殖し続け「俺」と「俺」が貨幣と商品の交換ように次々と交換される世界とは、極めて純粋な「商品交換」のみが支配する純粋な「資本主義」のメタファーと言えるであろう。「俺」の思考も感情もそして容姿すらも「俺ら」と交換され続け、そこには商品交換における「他者」も「命懸けの飛躍」も存在しないように見える。当然そこには「じっとりと濡れた」汗の交換はなく、家族がバラバラとなることもなく、奇妙な「共同体」が生み出され続ける。理想の資本主義とは構成員がすべて「俺」となる世界であるかのようだ。『俺俺』の序盤は「蒐集」を中断して利潤を生まない理想的な「交換」が実現する世界であるかのようだ。
 しかし、その理想の資本主義は簡単に崩壊する。最終的にすべてが「俺」となった世界においては「俺ら」による殺し合いが発生することになってしまうのである。すべてが「俺」の世界ではお互いが疑心暗鬼となり、ちょっとしたきっかけで「削除」という名の殺人に発展してしまうのである。あたかも資本主義が暴走して「恐慌」を招いてしまうかのような事態が発生するのである。
 そして『俺俺』の物語の最後において、「俺」は殺し合いを放棄して自分の肉を「俺ら」に食べさせることによって、「俺」は死から復活して少人数の共同体を再生することに成功する。「贈与」「再分配」を超えた自分の肉を食べさせるという振る舞いは、もちろん「商品交換」の一種ではなく「交換X」とも呼ぶべき事態が成り立っているように見える。そして最後に「俺」は後世に向け、「記憶の蒐集」の重要性を語る。

 時代が違うから俺たちには関係ない、なんて思ってはいけない。これは他人事じゃない。おまえたちが忘れたとたん、おまえたちもたちまち俺俺になってしまう。(星野智幸『俺俺』)

 『俺俺』の物語は、単に資本主義を乗り越えようとしても我々にはディストピアが待っているのであり、そこでのただ一つの希望は「モノの蒐集」を放棄して「記憶の蒐集」を心に刻むことである、と読み替えることが可能なのである。


 『俺俺』の成功の後に発表された小説である『呪文』においては「詐欺」と同様に商品交換を攪乱する行為である「クレーマー」によって物語は起動する。『呪文』において、星野智幸は田舎の衰退の一途である商店街が「クレーマー」による事件をきっかけとし、カリスマ的な魅力を放つ人物によって再起を図るかに見えたが、カルト化とも言うべき事態が進行し、最後には集団自決にいたるようなディストピアを描く。『俺俺』と同様、資本主義に乗り遅れた商店街が資本主義を乗り越えようとして、結果的にはグロテスクな形に変貌していく様が描かれるのである。
 星野智幸が『呪文』において資本主義の先に見ている物は『俺俺』と同様に「記憶の蒐集」なのである。物語の終盤、資本主義の乗り越えが暴走して殺意や破壊衝動が渦巻く世界において、登場人物の一人である湯北さんは「呪いを広める側に回らないだけで精一杯」であっても「呪いにかからずに生き延びた人が、呪われる前の時代の記憶」を後の世に持ち込むことの重要性を強調する。記憶の蒐集によってその蓄積を後世に持ち込むことが資本主義のディストピアの乗り越えには必要となるのである。キリスト教における「霊魂の蒐集」が資本主義における「蒐集」の根本にあるように、呪いにかかったような2010年代の世界、そして資本主義において「記憶の蒐集」を基本に置くことを忘れてはいけないと星野智幸は主張しているかのようだ。

 


 

 資本主義において永続的に「商品交換」において利潤を生み出すためには「技術革新」や「発明」が常に求められる。しかしその「発明」の内実が問われなければならない。ジャック・デリダは『プシュケー』において「発明」が実は「可能事」を新たに見いだすことであり常に同じものに舞い戻ってしまうということが必然であると指摘し、いわば「発明」とは何も発明しない限りで「発明」であると論じる。一方で「不可能事」を発明すること、他なるものの到来を受容すること、すなわち「他なるものの発明」という側面の重要性を指摘する。
 これまでの資本主義の歴史において実現した「技術革新」とは実は覆いを掛けられていた「可能事」の発明が起こっただけなのであり、「不可能事の発明」とは資本主義の誕生という歴史的な「発明」以降起こっていないのではないか。同じものを反復するだけの「発明」では「記憶の蒐集」は実現しない。資本主義の歴史とは忘却の歴史なのである。「他なるものの到来」とはモノの蒐集ではなく「記憶」の蒐集なのであり、他者の記憶の到来を受容することであり、その記憶を後世に伝えることである。星野智幸の小説は「記憶の蒐集」によって資本主義の未来を垣間見るための切れ端を提示する。

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