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怪物の主題による変奏

 

とりあえずの「序章」

 別だん「近代文学の終わり」や「純文学の衰退」といった無責任な言辞とともに読者の記憶から押し出されたわけでもなく、むしろその小説に対する意識的な構えがかなりの鮮明さで読む者の小説的欲望を不断に刺激し続けているのだが、しかし、もういまとなっては、批評の俎上に載ることがまれとなってしまった小説群について、これからここで語ってみようと思う。とりあえず論考の体裁をとって語られる小説論は正確に三つの論考からなりたっている。『葦と百合』論を意思したとみられる「肖像画家の黒い欲望」を読んでみるなら、そこで問題となっているのはミステリー小説というフレームの内外に分割される顔を奪われた視線と視線を奪われた顔だのであり、さらにそのフレームをひび割れさせる「できごと」となろう。『石の来歴』論とも断言してよいかもしれない「怪物の主題による変奏」をとってみれば、そこで一貫して語られるのは戸外の明るさと洞窟の淀んだ暗さについてであり、またそれらを破棄することになる「もの」についての話となろう。とりあえず『東京自叙伝』論の体裁をとる「叙事詩の夢と欲望」はどうかといえば、小説における叙事詩たらんとする欲望とその欲望を消滅させる理不尽な「いきもの」が語られることとなろう。そして最終的に三つの論考が周回するのは、小説といった装置を食い破る「怪物」の主題の変奏であるに違いない。



1.肖像画家の黒い欲望 - 『葦と百合』を読む

顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔の位置を標定すること、そしてその機能について語りうる基盤を顔と視線との離脱現象のうちに捉えようとすること。(蓮實重彦「肖像画家の黒い欲望」)

 奥泉光の長編小説『葦と百合』はフーコーが「古典主義時代」と名指した絵画空間に類似する。
 高校時代の友人と恋人が所属し本人は結局離脱することとなったコミューンを訪問する主人公が、横溝正史の小説世界をほうふつとさせる田舎の旧家で殺人事件に巻き込まれるといったストーリーからなるその小説は、一見するとミステリーのような小説世界が展開される。一筋縄ではいかない、たくらみ深い小説家である奥泉はそこにメタフィクション的な構えを導入し、語られてきた物語全体が登場人物の書くミステリー小説(=作中作)の物語であったかのような記述を挟み、ミステリー小説としての構え自体を宙吊りにする。
 多くのミステリー小説は、物語への介入を避けて一歩外側から事件を眺める「顔を奪われた視線」の役割を果たす探偵と、常に何かを見落とすことにより物語を彩る「視線を奪われた顔」たる登場人物たちからなる。ミステリー小説では「顔の顔」や「物」が排斥されており、「記号」や「表象」とその関係性だけからなる「古典主義時代」の「表象」空間が出現しているといえるだろう。奥泉の『葦と百合』も、その物語展開のミステリー的な構えからフーコーの言う「古典主義時代」の絵画空間と類似しているかに見える。
 しかし『葦と百合』は本当に「古典主義時代」の「表象」空間に安住する小説なのであろうか。絵画空間は崩壊しないのだろうか。奥泉光という肖像画家の黒い欲望をそのテキストから取り出してみる必要がある。

『言葉と物』と呼ばれる書物は、つまるところ「顔」の「絵画」、より厳密には肖像画で始まり肖像画で終る「言説」の「顔」なのだ。
書物を開き閉ざしもしている(略)「顔」の「絵画」が、ベラスケスの「侍女たち」(略)にほかならぬことは言を俟つまい。
「おそらくこのベラスケスの絵のなかには、古典主義時代における表象関係の表象のようなもの、そしてそうした表象のひらく空間の定義があると言えるだろう」(蓮實重彦「肖像画家の黒い欲望」)

 『葦と百合』における謎の一つは、主人公のコミューンへの旅に同行し不審な行動によって謎を残したまま崖から墜落死してしまうカメラマン「草壁」の存在となろう。いったい草壁はなぜ死ななければならなかったのであろうか。注目すべきは作中において草壁が「絵描き」から「カメラマン」になったという事実である。「古典主義時代」の絵画空間において「顔を奪われた視線」=「絵描き」であった草壁は、「人間」の「現前」によって「古典主義時代」の絵画空間をひび割れさせる「カメラマン」へと転身したことにより物語から排除される=崖から落ちる必要があったのではないか。草壁が肖像画家となることを拒んだことによる死とは「古典主義時代」を破棄する奥泉の黒い欲望であり、一方では皮肉にも物語をミステリーとして成り立たせる要素となる。
 そして『葦と百合』における、草壁はかつて「絵描き」であったことを主人公に告白するシーンにおいて「病気の鼠みたいな奇妙な声」を漏らし、一方で主人公はかつての友人の時宗との本心での対話において「臆病な鼠みたい」に相手の感情の動きを探ろうと神経を集中させるという描写を銘記すべきであろう。「古典主義時代」の絵画空間を文字通り食い破るのは「鼠」の形象なのであり、それは奥泉の初期作品においても見られるものなのである。


 2.「怪物」の主題による変奏 - 『石の来歴』を読む

 ほとんどあたりの暗さにたちまぎれて黒さそのものに溶け入ってしまったような頼りなさで、どこか怪物めいた異形のかたまりがじっとこちらをうかがっているさまに無感覚でいることは不可能なはずだ。見えない瞳を凝らしてみるがいい。(略)ほら、戸外の乾いた陽光を反映したのではなかろう閃光のようなものが、一瞬、湿った闇を引き裂くように横切ったではないか。(蓮實重彦『「怪物」の主題による変奏』)

奥泉光『石の来歴』は「淀んだ洞窟の暗闇にうずくまる黒い怪物」と「晴れた戸外の乾いた明るさ」という対比で語ることができる。
 主人公である真名瀬は太平洋戦争中に洞窟の中で肉が削げ落ち蛆が蠢く「怪物」のような容貌の「上等兵」から「宇宙の歴史の凝縮物」である石の魅力について教えられる。それがきっかけとなり、真名瀬は復員後に岩石蒐集を始めることになり、それが様々な悲劇を招くことになる。その上等兵と対比的に描かれるのがどんな状況でも軍人らしい威厳を失わない「大尉」であり、大尉が洞窟に踏み込んで叱咤し、その「魔術的な力」によって洞窟に「乾いた明るさ」を持ち込むさまが描かれる。動けなくなった味方の病兵の殺戮という陰惨な出来事さえ、大尉の命令によって「晴れた戸外の光景」となってしまう。
 ドゥルーズによればそれら全体が「戸外の思考がはりめぐらせる周到な罠」ということになろう。「怪物」めいたものを「戸外の思考」に並置してみたところでそれは結局、戸外の思考に取り込まれたものにほかならないのであり、怪物を抑圧することにしかならないのである。
 奥泉が『石の来歴』において描く戦時中の洞窟の暗がりの描写や、学生運動の帰結としての真名瀬の息子による殺人にしたところで、結局は「晴れた戸外の乾いた明るさ」のなかで「戸外の思考」に絡めとられているように見える。主人公の真名瀬が生涯の趣味とする岩石をカテゴリーにより分類した標本作りとは、アリストテレスに始まる「戸外の思考」=「形而上学」に従順に、類=種といったカテゴリー的な思考の階層秩序に従ったものであろう。いったい「洞窟の暗闇にうずくまる黒い怪物」はどこにいるのだろうか。

みずから円環状に一回転しながら、回帰する瞬間にきまって「他」へと変貌する遠心的で不実な運動。その運動の条件でもありまた実現でもある「反復」。(略)その身振りによって、いま、「反復」と「差異」が遭遇すべき希薄なる条件が実現したことを、思考は生なましく察知するのだ。(蓮實重彦『「怪物」の主題による変奏』)

 「晴れた戸外の乾いた明るさ」とは無縁なまま、起源を欠いた「反復」と自由なる「差異」とが遭遇する場所。『石の来歴』の物語のクライマックスにおいて、殺人を犯して自ら死のうとする息子を目の前にしたときに真名瀬が語るのは、岩石標本というカテゴリー的な思考をはみ出してその起源を考えることが不可能であるような何気ない「岩石」の「差異」であり「反復」であった。

 つまり鉱物の形は一瞬も静止することなく変化している。素材は絶えず循環している。永劫不動とみえる大地にしても僅かずつ移動しているのは君も知っているだろう。つまり君が散歩の徒然に何気なく手に取る一個の石は、(略)物質の運動を刹那の形態に閉じ込めた、いわば宇宙の歴史の凝縮物なのだ。(『石の来歴』)

 ドゥルーズが語る「差異」と「反復」、真名瀬が語る「刹那」と「循環」。奥泉が描く「黒い怪物」とは、「怪物」のような容貌の「上等兵」でも戦場における殺戮でも学生運動における殺人でもなく、ただの何気ない「石」の事であり、そこに『石の来歴』という小説が「外」と「洞窟」の二元論を踏み破る賭金がある。そしてこのことを語る直前、真名瀬の思考が「逃げまどう鼠の群れみたいに思考があらかたに散乱してしまった」と描写されていることを銘記すべきであろう。「鼠の群れ」=「怪物の群れ」の思考が「差異」と「反復」をその小説に招致し、一方で何気ない「石」という宇宙規模の「怪物」を見いだすのである。


3.叙事詩の夢と欲望 - 『東京自叙伝』を読む

 かくして内部は、言葉の叙事詩的欲望とも呼ぶべきものによって、内部の虚構を完璧なものとする。いま、世界の歴史とは、ほとんど壮大な叙事詩そのものと化しているかのようだ。(蓮實重彦「叙事詩の夢と欲望」)

 奥泉光『東京自叙伝』は言葉の叙事詩的欲望にきわめて忠実である。
 江戸時代から東日本大震災後の現代まで、奥泉は東京に起こった出来事や震災を忠実に描きながら、章/時代ごとに一人称の人物を切り替えることで魅力的な叙事詩を描き出す。ただ一点そこに奇妙な仕掛けが施されている。それは登場人物の意識が東京という土地に存在する「地霊」のようなものに乗っ取られ、その地霊が乗り移った人物の記憶を持ち続けるのというものである。本来は人物もその記憶も歴史とともに消滅していくのであるが、「地霊」によって不条理とも呼ぶべき「痕跡たろうとする意思」が受け継がれるのである。

 重要なのは叙事詩の廃棄そのものではなく、欲望が欲望たりえ、また欲望たりえなくなりもしよう条件を、叙事詩そのものが叙事詩的持続の核心に穿つ陥没点、欲望が遂には充たしえない余白としてきわだたせることだ。(蓮實重彦「叙事詩の夢と欲望」)

 『東京自叙伝』において「地霊」が移動するのは地震による揺れをきっかけとする。地震が東京という土地に陥没を生み出しそこにおける人間の活動に空白を生み出すとき、一方で「地霊」はその陥没/空白を埋めるかのように動き出すのである。そしてそのときに「私」は増殖して複数の「私」が物語に登場することで主人公の同一性は脅かされ、「私」という個体から「地霊」があふれ出して物語の一貫性は脱構築され、通常の意味での「叙事詩」はそのただなかに陥没を穿たれることになる。
 そしてここでもまたその陥没から「鼠」という「怪物」が姿を現す。「地霊」は人間のみではなく「鼠」にも乗り移るのであり、かつそのときに一匹の「鼠」ではなく鼠の群れ全体が「私」となるという事態が訪れる。「鼠」の群れは「叙事詩の欲望」とは無関係にただ東京という土地を駆け回り、ただ餌をとることに専心する。そして「鼠」の群れは叙事詩の陥没点を簡単にすり抜ける。「鼠」の群れほど「叙事詩的欲望」から遠いものがあろうか。
 『東京自叙伝』という小説は「地霊」という得体のしれない「怪物」によって主人公である「私」の自我がバラバラになり空白を生み出し、その空白/陥没点を「鼠」の群れが駆け回ることで「叙事詩の欲望」をたどりながらも、ギリギリのところでその欲望を転移することに成功するものである。


 

とりあえずの「終章」

 なぜ小説家は「古典主義時代」の絵画空間に律義に収まったミステリー風の小説を飽きもせず生成しつづけられるのだろうかと、「肖像画家の黒い欲望」は心底から不思議に思う。どうして小説家は「戸外の思考」と「暗闇の怪物」という二項対立に漬かりながら見せかけの「怪物」と戯れることができるのだろうと、「怪物の主題による変奏」はいぶかしげにつぶやく。小説家は、本当にそのテキストが安易に「叙事詩の欲望」に従順であり続けることに耐えられるのかと、「叙事詩の夢と欲望」は首をかしげる。
 とりあえず語られることになった奥泉光の三つの小説についての論稿が、とりあえず読み終えられたかにみえるいま、何がなされなければならないだろう。『神器 軍艦「橿原」殺人事件』や『東京自叙伝』によって奥泉光の小説世界を食い破る「鼠」の形象については様々に論じられてきた。しかしこの論稿において示されたことは、「鼠」の形象はずっと奥泉の小説世界に生息しているのであり、それは奥泉の小説世界があたかもフーコー・ドゥルーズ・デリダといった現代思想に寄り添うように見えながらもその土台を食い破るのであり、そしてその形象は起源を欠いたまま反復されてきたということである。
 われわれは「岩石」に「鼠」を封じ込めることを目指した小説として『石の来歴』を読み直すことから始めなければならない。


[参考文献]
蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』

文字数:5446

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