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キミとボクの「倫理学」

 アニメ映画『君の名は。』の物語は、男子高校生の瀧と女子高校生の三葉のお互いの心が入れ替わってしまうことをきっかけとし、運命的なラブストーリーとなる。三葉の体に瀧の心、瀧の体に三葉の心が入り込んで、お互いの日常生活を体験しあうことで瀧と三葉は自然と惹かれあうようになる。そして「入れ替わり」が突然終了してしまうことによって、お互いの存在を求めあうかのように一気に物語は動き出す。そこで描かれる「心が入れ替わる」という事態は、お互いの存在に深く入り込んで存在の奥底までさらけ出すことであり、存在のすみずみまで相互に参与し合うことであるといえよう。相互に存在が浸透し合うかのような共感関係が実現することによって、瀧と三葉は惹かれあい、お互いの存在を運命的なものとして受容することになったのである。
 男女の高校生のラブストーリーとしてはじまった物語は、三葉の住む村に彗星が落下して三葉が死亡していた事実を瀧が知ることにより、「キミとボク」の物語から「震災」における死者の名を問うこと、震災後にあり得たかもしれない可能世界といった問題意識を内包したものへ変貌していく。「キミとボク」の物語から「世界のやり直し」の物語へ、東日本大震災後の「セカイ系」の物語の行方。


 親密なる我れ汝関係においては、「心の底」を打ちあけ合うということが言われるように、自他の存在の奥底にまで互いに参与することを許し合うのみならず、さらにその参与を相互に要求し合うのである。従って自他の間には何事も隠されることなく、自ら意識し得る限りにおいては、存在のすみずみにまで相互に他の参与を受け得るのである。
 二人共同体がこのような相互参入において成り立つとき、この相互参入は二人の存在を浸透し、それを一つの共同的存在ならしめる。(和辻哲郎『倫理学』)


 「人間」とは「世間」「よのなか」のことであり、「人間」の本質を「間柄」として思考し続けた哲学者である和辻哲郎は、大著『倫理学』において極めて根源的でありかつ特異な「間柄」である「二人共同体」について論じている。
 『古寺巡礼』『風土』などの代表作により「文人哲学者」とも称される和辻哲郎(1889-1960年)は、大正~昭和戦前の日本を代表する哲学者の一人であった。古代日本、原始仏教、カント哲学などについての幅広い著作を遺した和辻であるが、その主著とも呼ぶべきものが昭和十二年から刊行を開始した『倫理学』であった。「倫理とは何であるか」という問いから出発する和辻は、「間柄」の哲学者らしく「倫理」とは「人間関係」の学であるとし、西洋近代哲学における「個人」を始原とする思考を拒否する。「倫理問題の場所は人と人との間柄にある」のである。
 和辻にとって倫理学とは「人間の学」であり、「人間存在の根本構造」を個人の否定としての全体/全体の否定としての個人という、人間存在を否定的な契機として論じるところから倫理学を開始する。そこから世間に広がる「交通」や「通信」の現象において人間関係の「空間的表現」を見出して独自の空間論/時間論を展開し、さらには「家族」から「国家」に至るまでの共同体(人倫的組織)を論じる。そこでは「和辻倫理学」の集大成とも呼べる、「人間」についての長大な論考が展開される。その中でも様々な論者が指摘するように注目に値するところは、根源的な共同体として重要視される和辻独特な「二人共同体」という概念であろう。
 男女関係や夫婦関係を示す概念である「二人共同体」は、間柄という「関係性」から人間を思考する和辻にふさわしく、「私」が消滅して共同性のみが浮き上がるような共同体であり、男女がお互いの心を理解するといった常識的な理解を超えた「相互参入」をも求めるようなものである。それは現実の人間関係においてはとても実現困難なようにみえる。『君の名は。』におけるお互いの心と体の「入れ替わり」によって初めて実現可能となるかのような緊密な関係性だ。昭和戦前に思考され、戦争という歴史の断絶を乗り越えることができずに忘れ去られようとしていた和辻倫理学は、平成二十八年の歴史的な大ヒットアニメ映画によって息を吹きかえしたのである。


 和辻哲郎は昭和四年に発表した「日本語と哲学」において、ハイデガーが「Sein」という言葉から存在論を展開したことに影響を受けた、独特な日本語による哲学的思考・存在論を展開している。
 和辻は「である」と「がある」の差異から、日本語における「ある」の存在論を展開する。日本語において「である」は「何であるか」という問いに答えるものとしての「事物の本質」を示し、「がある」は「何者かがある」という存在を示すことから、「がある」の方がより根底的と考えられてきたと指摘される。「である」=本質が「がある」=存在を限定するということである。
 そのうえで和辻は「がある」を「私は用事がある」「私は食欲がある」といったように、すべて「有(も)つ」という意味で理解できることを論じる。つまり「間柄」の哲学者である和辻は、「がある」は存在ではなく所有関係を意味していると理解するのである。和辻は同じ論考において「星がある」を「星が人間の所有物である」という様に表現する。「存在」から「所有」へ、日本語における存在論の転換を試みること。
 和辻の「がある」に関する議論を「国家」や「世界」に適用したとき、そこにはどのような「あいだ」が見出されるのであろうか。そこでは「私」や「二人共同体」にとって「世界」は存在するものではなく、「所有物」であるという理解が可能となる。マルクスの「市民社会」という言葉を拒否する和辻にとって、社会とはそもそも抽象的で現実感を欠いたものであった。一方で「国家」や「世界」は「二人共同体」によって所有されるものであったのではないか。「キミとボク」が「セカイ」を所有するという世界観、和辻哲郎の『倫理学』においては様々な階層の共同体についての哲学的・歴史的な議論が展開されているように見えるが、実は「キミとボク」と「セカイ」が直結するような世界観における「人間」が思考されているのではないか。


 『君の名は。』において瀧と三葉がその繋がりを強く意識するようになったのは、「入れ替わり」が突然発生しなくなったことであり、またそれは瀧が彗星の落下による三葉の死を知ったことであった。その出来事をきっかけとして瀧は三葉を求めてその故郷へ空間的(かつ時間的)な移動を行い、三葉との間の「交通」や「通信」によるコミュニケーションを試みることになる。「震災」とも呼ぶべき出来事をきっかけとして「間柄」が変容することに監督の新海誠は意識的であり、『君の名は。』において倫理的とも呼ぶべき思考が発生する瞬間でもある。


 和辻は「間柄」によって「空間性」を思考する哲学者であった。
 「人間存在」を人の存在ではなく「人の間」であると論じる和辻は、主体の間に発生する「交通」や「通信」の空間的ひろがりから空間性を理解する。そこではニュートン以来の自然科学の空間概念や、カント・ハイデガーなどによる哲学的な空間概念は拒否され、これまでの哲学の歴史において思考されなかった独特な主体的空間性が精緻に描き出される。そのうえで和辻は空間とは「切断せられ得る」という側面を強調する。主体と主体との空間的連絡が途絶することによってはじめて、その空間的な連絡を把握し得るということが和辻の空間に対する理解の一端である。
 和辻によって空間の切断の例として挙げられるのが、大正十二年の「関東大震災」なのである。関東大震災において「通信」が遮断されたことによって「社会が一時的にバラバラになり」、そこでは「社会が分裂」し「常識的な世間が喪失」し、一方そこにおいてこそ空間的な連絡を把握できるようになることが指摘される。

 和辻の倫理学は「震災」によって思考されたのである。
 和辻は昭和十七年に『倫理学』の中巻を刊行する。そこで和辻は「国家」について論じるなかで、欧米列強との戦いである大東亜戦争に従う覚悟がつづられる。そして戦後になり『倫理学』を書き継ぐにあたって、和辻は「国家」について論じた章を中心に様々な修正を加えた修正版として『倫理学』を完結することになる。子安宣邦はそれを「偽られた完結」と呼び、「あえて命を永らえされた『倫理学』をわれわれはいま読む必要など本来ない」と言う。
 子安の指摘する通り、『倫理学』が「国家至上主義・戦争美化の哲学」(家永三郎)であるのは事実であり、そしてそれを糊塗して完結された『倫理学』が果たして「倫理学」の名に値するものであるかは疑わしい。そういった観点からすれば現代において『倫理学』は力を失った書物であり、読むに値しないという評価となるのであろう。
 しかし本論において試みたことは、『倫理学』を「戦争」の倫理学ではなく、「震災」の倫理学として読み直すことであり、「間柄」の哲学者である和辻による「二人共同体」という概念が今も思考に値するということである。「二人共同体」の奇妙さは関東大震災を思考することで初めて理解可能なのであり、東日本大震災を経た我々にもその可能性は開かれている。それは人と人との繋がりを重視することや、共同体の意義を再発見するといった凡庸なことではなく、「私」が消滅してしまうような共同性の中で「私」を再定義する試みであり、共同体とは呼べないような多様な「共同性」を作り出す作業となろう。
 和辻は『倫理学』の冒頭で学問とは何かについて論じる。和辻は学問=「問うこと」とは人を訪ねることであり、「その人に安否を問うというごときこと」であると断言する。関東大震災を経験した和辻にとって、震災は学問の意味は大きく変貌させる出来事であったことがうかがえる。東日本大震災後の我々は学問=「問うこと」の意味を新たにしたのであろうか。歴史の中で力を失った和辻哲郎『倫理学』の「安否を問う」ことが、平成二十八年の現在において学問の名に値することは間違いないであろう。


〔参考文献〕
子安宣邦「和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」」
檜垣立哉「日本哲学言論序説―拡散する京都学派」
岩波文庫版『倫理学(一)』~『倫理学(四)』 熊野純彦「解説1」~「解説4」

文字数:4201

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