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脳=小説の破壊的可塑性

《いろんな書物から、映画や演劇や歌の一節からさえもさ、
意味のある言葉を集めてきて、コラージュのようにして、
この教会の「福音書」を書くことにしようよ。》
大江健三郎『揺れ動く(ヴァシレーション)

脳が苦しむということがありうる、ということになるのだろうか。
新たな同一性をつくりだす苦痛、すなわち、それをこうむった未知の者の同一性、未知の同一性をつくりだす苦痛、そうした種類の苦痛が存在しうるのか。そして、このような苦痛が脳の苦痛だということがありうるのか。
精神分析が考察してこなかった種類の病変が姿をあらわす、ということもあるはずだ。
どの哲学も、脳損傷の苦痛という巨大な問題に取り組んでない、といわざるをえないのだ。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

1.宙返り(の失敗による脳損傷)
 案内人が教団のもと信者が集まるという会に呼ばれて、行ったさきで倒れました。眉間の奥の、脳動脈瘤が破裂しているそうです。集会に医師の方がいられたので、すぐお知り合いの大学病院に運ばれました。会で話をする前に、案内人は食事をしていて、頭痛を訴えました。そのうち気持が悪くなってトイレで吐いたそうです。
――いま案内人の脳が破壊されてしまっては、なにが残りえる? 残骸としての私だけじゃないだろうか?
(大江健三郎『宙返り』からの引用により構成)

脳事象の事故とは、個人史の流れを遮断してこの歴史の糸を断ち切り、外部に放逐する傷、解釈による「回収不可能」なままでありつづける傷のことである。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

2.万延元年のフットボール(中の事故による脳損傷)
 友人は、鷹四がまだ悔悛していない学生運動家として国会議事堂前にいた六月の真夜中、かれ自身の政治的意志によるというより、結婚したばかりの妻が、その属している小さな新劇団のデモに参加するのにつきそってそこへやってきており、混乱が起った時、武装警官隊の襲撃から妻を保護しようとして、警棒で頭を割られてしまった。単に外科的な意味あいでは、とくに重い裂傷ではなかったが、あの青葉の匂いたてる真夜中の一撃以来、友人の頭の内部にひとつの欠落が生じてしまい、隠微な躁鬱症が、かれの新しい属性となった。
 死んでしまったよりも、もっと徹底的な断絶が完了した感じなんだよ。
(大江健三郎『万延元年のフットボール』からの引用により構成)

問題はまさに、このような「脳の苦痛」の表現を見いだすこと、患者が苦しんでいる人格の完全な変容を理解し、これにふさわしい描写法を見いだすことである。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

3.(脳損傷によって引き起こされた)水死
 初夏の朝、この数年のうちに運動機能の衰退が進んで(てんかんの発作を抑制する薬も増量された)歩行訓練がきびしいものとなっているアカリは家に残して、私ひとり歩きに出ていた。その背後から、安定したリズムの軽い足音で、素早く近付いて来た人物が、私を抜いて前に出た。
 そして私は、突然前を塞ぐ終夜燈の柱に頭をぶつけた! 顔の右脇から眼尻まで色濃い内出血が四、五日残ったほど。
 この夜、早くベッドに入ったこともあり、夜明けにはまだ長い時間があるうちに目ざめた。
 あいまいな夢見の眠りになお支配されている私は、ベッドランプのスイッチを押して(それが妙にやりにくかった)、本棚と天井の下端が60 度角の円盤を嵌め込んであるようなのへ目を向けた。円盤が右へ回転し始め、ある勢いを得て、ザーッと右へ崩れ落ちる。
 私は自分がかつてない規模と強さの眩暈に襲われているのだ、と考えた。
 私には大眩暈がもたらされていること自体、まったく無意味であるはずはない、という気持があったのだ。そして、こういう奇態な思い込みもあった。大眩暈が私のかつて経験した規模のものでない以上、頭の機能にダメジをあたえぬはずはない。しかし恐怖心を持つだけじゃなく、それにつながってある、この想起のことも相手にしてみようじゃないか、というわけだ。
 自分はいまも現に崩壊に瀕しているんだ、それをなんとか持ちこたえようとしてるんだ、と。そしてこれらの切れっぱしがいまも頼りなんだ。
(大江健三郎『水死』からの引用により構成)

「脳の病い」の小説は、自己そのものの無化を生き延びる心のありようという、目のくらむような事態についての問いを呈示している。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

4.(脳損傷により)憂い顔の(あらわになった)童子
 古義人は収蔵庫の入口に立て掛けてあった梯子を持ち込んで、納戸の上辺に支点を定めると、しだいにあおりたてられる気分を感じながら、それだけ身体の動かし方に注意をして、登って行ったのだ。
 古義人は深さのあるベニヤ板の仕切りに細長い箱が立てかけてあるのに気付いた。その箱はいかにも特別なあつかいを受けている感じなのだ。 古義人は身体を奥に向けなおして両足を引き上げ、頭を低くして膝でにじり進んだ。両肱とズボンを埃りだらけにしながら上躰をできるだけ前に出して、斜めに立っている箱の根方に手を差し伸べる。
 古義人は、さらに奥へ前進しようとした。 その時だ。古義人は、自分が乗っかっている平面が勢いをこめて前方に傾斜し、奥の仕切りの裾に隙間が開くと、そこへ向かって自分が頭から滑降するのを認めた。 ワーッ! と古義人は叫んだ。古義人は空間に抛り出され、半回転して向こうの棚の壺を蹴散らし、頭から落下した。
肩口と側頭部を床に打ちつけて上躰は落ち着いたが、左足首が棚の支柱に引っかかり、身体全体は逆さ吊りの格好。
─ ─ 古義人さん、CT検査で脳に異常があるという結果が出たらどうしますか?
─ ─ CT検査で、脳の真ん中に白いコウモリのようなかたちが見えてだね、客観的にいまの私がかつての自分の健常さとは違うと示されても、私は生きてゆく。書けるなら書く。それはいまの脳が、私だからだ。
(大江健三郎『憂い顔の童子』からの引用により構成)

損傷後の可塑性というものが存在する。これは再構成の可塑性ではなく、喪失をきっかけに本人不在という新たな同一性を形成する可塑性である。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

5.救い主が殴られ(て脳に損傷を受け)るまで
――どこに隠れていたの? ギー兄さんが糾弾されて、殴られて、大変だったのに! と不機嫌な涙声のミツが問いかけた。
 旧町地域の連中がギー兄さんに殴りかかり、群衆の中からもそれに参加して来る者があり、全面的に応戦することはしないよう言いふくめられているのであれ、殴られるギー兄さんを守ろうとする「森の会」の側との小競合に到る。
――私が口をつぐんで一息いれようとすると、ハンドマイクが奪い取られてしまった。そして私は殴られていたんだ。殴られながらね、殴られる痛みと恐怖心ということももとよりあったけれど、それとはまた別に、私はハンドマイクで増幅された自分の声が、山桜の咲いている斜面を越えて、森の高みの朴の木まで響いて行ったことを思っていたよ。
 繃帯を巻いた頭自体大きいのだが、殴られて頬から顎へと無定形にふくらんだ顔を、ギー兄さんは厚い胸にまっすぐ支えて坐っていた。
――とにかく強い力が待ちかまえて、自分の人生のコースを走って来る者を破壊するのでしょう?
それに対してね、破壊されたにしても、肉体が現世で味わった喜び、矛盾のなかであれ、魂が感受していた喜びが無意味なものか?決してそんなことはない。一応死んだ後も魂はある、生きているいまとの連続性においてあると、こうした作業仮説をたてていいんじゃないかという気がしてくる。これがいまの私のね、魂に対する基本的な態度だな。
(大江健三郎『救い主が殴られるまで』『揺れ動く(ヴァシレーション)』からの引用により構成)

外傷の新たな意味は、否定的ないし破壊的可塑性に結びついている。否定的可塑性は、空無化/自己抹殺の形成作用への傾向性である。その帰結の特徴は、情動的無関心において示される、死への変身あるいは生のうちにある死の形式である、と言えるだろう。
あらゆる赦しや救済の展望の彼方に、否定的可塑性が実在すると認めること。これは心の現代的な苦痛をめぐるどのような検証にも欠くことのできない第一歩である。
(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)

6.新しい(傷つきし)人よ眼ざめよ
――僕はいかにも永く水の底にとどまっていたような気がする。ある瞬間、僕は岩の間を入ったとは逆の方向に移動し、たちまち頭と顎を岩の隘路にがっきととらえられていた。つづいて記憶にあるのは、激しく恐怖してジタバタし、水を飲んでむせる自分である。またおよそ巨大な力をたくわえた腕に、自力で脱出しようとしていたのとは逆の、ウグイの巣のただなかに突きいれられるようにして、両足を捩じられるまま引き出される自分である。後頭部を傷つけて、煙のように血がひろがる光景。岩角で傷つけられた、後頭部の傷あとは、このように書きながら、左手の指の腹ですぐさまさぐりあてることができる。
――息子が生まれ、もうひとつの頭のような真赤な瘤が後頭部についており、ということがあって、はじめのうちN大学病院の特児室に子供をあずけたまま、僕としては妻にも母親にも実情を打ちあけることができず、むなしく右往左往していた。それでも本来の頭はもとより、瘤もまた栄養のまわりがよく育ってゆく、とくに瘤から放たれる精気が特児室のガラス仕切りごしに覗く眼にもあきらかに見てとられることになった。
 養護学校に進んだ際の診断書に、「脳分離症」と書かれており──これも言葉自体としてわれわれ素人には充分恐しくグロテスクに響くと思ったものだ。
 僕は手術の際に、息子の脳が傷つけられたとは、つゆ思わぬのである。しかしあれだけ大きい瘤を除去して、頭蓋骨の欠損をとじる手術に、どうして幼児の脳が影響を受けぬことがあろう? むしろよく手術に耐えて生き延びた、生命力の勲章のようにして、いまの癲癇のあらわれがあるのだと、僕は敬意をいだくように息子の症状に対してきたのだ。
 そしてこれはすでに神秘趣味の夢想というほかにないが、息子は僕の少年時の、ウグイどもの巣での危機に際して、頭に受けた傷がもたらしたかもしれぬ、僕自身の癲癇を引きうけてくれてもいるのだと、考えることがあったのである。息子の頭蓋骨の欠損と同じ場所にある、自分の頭の傷痕に指でふれてみつつ、そのように考えると、あのウグイどもの巣での巨大な力の顕現と、息子の畸型の誕生をもたらしたものとは、まっすぐつながるように思われた。
 新時代の若者としての息子らの──それが凶々しい核の新時代であればなおさらに、傭兵どもへはっきり額をつきつけねばならぬだろうかれらの──その脇に、もうひとりの若者として、再生した僕自身が立っているようにも感じたのだ。
(大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』からの引用により構成)

破壊的な可塑性が存在するのかもしれない。(カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者』より)


(注)各章のタイトルのカッコ内の言葉は筆者による。その他は大江健三郎またはカトリーヌ・マラブーの文章によって構成されている。

文字数:4584

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