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君はベッキーの魔法を信じるかい?



《魔法を信じるかい?女の子の心の中にある魔法を信じるんだ
ラヴィン・スプーンフル「魔法を信じるかい?」

《美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。》
小林秀雄「当麻」

 子どもたちに大人気のアニメ『妖怪ウォッチ』に登場する妖怪は、これまでのアニメや漫画が描く妖怪とは大きく異なる特徴を持っている。
 「妖怪ウォッチ」を手に入れた主人公である少年の「ケータ」は、身の回りに存在する妖怪を見ることができるようになる。ケータは「妖怪執事」を自称し幽霊のような外見の「ウィスパー」や、猫の地縛霊である「ジバニャン」とともに様々な妖怪と戦って友達となり、友達になった証として「妖怪メダル」を手に入れるというのが『妖怪ウォッチ』のストーリーである。
 ケータが妖怪を見つけだすパターンはほぼ同じであり、周囲の人たちの様子がいつもと違うことに気付いたケータがそれを「妖怪の仕業」と決めつけ、「妖怪ウォッチ」によってその現象の原因となる妖怪を見つけるという流れである。そこで現れる妖怪は「なまはげ」「あかなめ」「ざしきわらし」などの古くから知られている妖怪をモデルとしたものもあるが、周りの同級生や大人たちの「特徴」や「性質」をシンボル化したような妖怪が多いのが特徴的である。例えば、プライドが高いふるまいを見せる同級生には妖怪「プライ丼」、男気溢れる硬派な同級生には妖怪「アニ鬼」、影が薄く性格も遠慮がちで地味な同級生には妖怪「ジミー」が憑りついているといったように。
 このように『妖怪ウォッチ』の世界では我々を特徴付ける様々な「概念」「性質」が「妖怪」となって目に見える形で実在している。ある人物が「地味」であることはそれを見る側の心にあるのではなく、形象化されたモノとして世界に実在するのである。普遍的な「概念」「性質」が「言葉」ではなく「モノ」として実体化された世界がそこにある。我々は人類の歴史を振り返ると『妖怪ウォッチ』のような世界観を見出すことができる。

 中世のヨーロッパにおいて多くの哲学者を悩ませたのは「普遍論争」と呼ばれる問題であった。11世紀から12世紀の中世ヨーロッパの哲学において、「犬」「人間」などの普遍的な概念が単なる「名前」であるのか、それとも「モノ」として実在するのかが哲学者の間で議論された。普遍的な概念がモノとして実在すると主張する考え方は「実在論」と呼ばれた。一方で普遍的な概念はただの言葉であり我々の心にのみ存在し、個体のみが実在すると主張する考え方は「唯名論」と呼ばれた。唯名論の立場では「アリストテレス」や「島崎遥香」といった個別具体的な「個体」のみが実在するのであって、「人間」「動物」といった概念は単なる言葉であると考える。一方の「実在論」の立場は、アリストテレレスや島崎遥香は「人間性」「動物性」といったような実在する「モノ」を持っているから人間、動物となると考える。
 哲学の歴史において中世までは「実在論」が主流であったが、14世紀に活躍した哲学者「オッカム」が「唯名論」に基づいた哲学を展開し、近代以降の哲学の発展の道を開いたのである。そして現代において多くの人たちは「唯名論」を基本とした世界観を持っていると言えるだろう。ところが『妖怪ウォッチ』の世界ではあたかも中世ヨーロッパの「実在論」が復活したかのような世界が描かれる。その世界では人間の「性質」が妖怪の形象をとった「モノ」として実在しており、単なる心にある言葉・概念ではないのである。人間の「性質」を妖怪というモノに変換して可視化する「実在論」の社会、中世ヨーロッパが回帰したような社会、我々はそれを「中世化する社会」と呼ぼう。

 「ゲスい」という性質は実在するのだろうか?それとも我々見る側の心の中にしかないのだろうか?
 タレントのベッキーとロックバンド「ゲスの極み乙女。」のボーカル川谷絵音の不倫に端を発した騒動は、ベッキーがテレビやラジオ番組に徐々に復帰することで一段落ついたように見える。週刊文春によるスクープにより明るみに出た不倫騒動によってベッキーはマスコミや一部のテレビ視聴者から集中的にバッシングを受け、長期間の活動休止を余儀なくされた。これまでの同様な騒動と比較しても明らかに異常と感じられるバッシングはなぜ引き起こされたのであろうか?不倫がベッキーのこれまでのタレントイメージから大きくかけ離れていたこと、川谷絵音の見せる不遜な態度、二人のLINEでのメッセージが流出するという信じがたい展開などの特殊な事情もあるのかもしれないが、その根底には我々見る側の世界を認識する仕方の変化があったのではないか?
 そこでは不倫における「ゲスい」といった人間の性質が見る側の心にある感じ方なのではなく、「モノ」として目に見える形で客観的に実在するかのように認識し、議論の余地がなく「悪」であるとみなす考え方が意識されないままに広く共有されたのではないか。「ゲスの実在論」、そこには様々な見方によって「ゲス」の内容が異なってくるといった考え方は許されない。そしてマスコミは実在する客観的事実としての「ゲス」を批判し続けなければならないかのような反応を見せる。
 「ゲスい」かどうかはまずは個人や社会の関係性や様々な事情が絡み合った「概念」として把握され、見る側の心に現れた概念をそれぞれ個人の思考を経由することで判断すべきものであるはずが、マスコミによって「ゲスい」という「モノ」がベッキーに憑りついて客観的に可視化されているかのような報道が行われたのである。「中世化する社会」においては「唯名論」は退けられ、「実在論」が大手を振るうのである。


 中世ヨーロッパのキリスト教社会の暗黒面を象徴するものとして「魔女狩り」が知られている。中世末のヨーロッパにおいて、悪魔と結託し「妖術」や「魔法」を使いキリスト教社会の転覆をたくらむものとしての「魔女」という概念が広く知られ、その「魔女」が迫害された事例が多く記録されている。「魔法」を使う悪魔のしもべである人間とされる「魔女」を裁くための「魔女裁判」において、多くの場合残酷な拷問による自白に頼ったものであったと推測される。元々はキリスト教会における異端審問であったものが、中世において集団ヒステリーとも呼ぶべき事態を引き起こし、民衆自らが特定の個人を吊るし上げるようになっていったのである。
 中世ヨーロッパが回帰したかのような社会において、我々が目の前で見させられているベッキー騒動とは、まさに「魔女狩り」ではないだろうか。そこでは法やルールによって個人が裁かれるのではなく、魔法の実在によって「魔女」が裁かれるように個人が有無を言わせず「ゲスさ」の実在によって裁かれるのである。ベッキーは「ゲスさ」の実在を信じる人々によって「魔女」とされ裁かれたかのようだ。「ベッキーが魔法を使える」と信じる人々によって。


 改めて、中世の普遍論争における「唯名論」と「実在論」について思考してみる。
 精神分析家のジャック=ラカンは精神疾患を「神経症」「精神病」と分類し、自らの患者の診断においても「神経症」「精神病」の二項対立を基本として臨んだ。「神経症」「精神病」のどちらかを診断するには「父の名」の有無によるが、極めて単純化して整理すると「神経症」とは言葉の世界である「象徴界」が秩序だって成立しているのに対し、「精神病」においては「象徴界」が構造化されずばらばらにほどけてしまい「物自体」を垣間見せるような症状である。そしてラカンによれば我々はみな「神経症」なのであり、一般に「神経症」が正常な状態であるとみなされてきた。
 「神経症」と「精神病」を言葉の世界との関係でとらえると、それは「唯名論」「実在論」とのアナロジーで語ることができるのではないか。「実在論」が信じられる社会とは「精神病」と親和的な社会であり、「唯名論」が信じられる社会とは「神経症」と親和性があるといったように考えてみてはどうだろうか。近代以降の「唯名論」が主流の社会とは「神経症」が正常とみなされる社会なのである
 近年、ラカン派の精神分析において「神経症」「精神病」という分類ではうまく分類できない症状が増えていることが報告されている。そして1998年にラカン派の精神分析家であるジャック=アラン・ミレールによって「普通精神病」という概念が導入される。精神分析理論においては「普通精神病」とは象徴界における「父の名」が複数存在するような症状であるが、現象面においては「精神病」が軽症化してより社会に広がりを見せていることを示している。ここまで我々は現代に中世ヨーロッパの「実在論」が回帰していることを指摘してきたのであるが、「精神病」と「実在論」の親和性を考慮すれば、その事態は「普通精神病」の広がりと関連があると言えるのではないか。「普通精神病」の広がりが「実在論」の復活を下支えするのである。

 日本における「ポストモダン」の受容において、そもそも日本ではモダニズム(近代化)が徹底していないために「ポストモダン」が違和感なくあっという間に受容されてしまったという側面が指摘されてきた。近代を通り越してポストモダンを受容してしまった日本において、ポストモダンの後には何が到来するのであろうか。日本においてポストモダンが消滅した後に到来するものとは実は「中世」なのではないのか、それも「ヨーロッパの中世」が到来する。「中世化する社会」は始まったばかりだ。
 中世ヨーロッパの哲学者は「何人の天使が針先で踊れるか」を真剣に議論したという。現代日本の一部の批評家たちが真剣に公の場でアイドルについて議論を繰り広げる光景は、まさに中世ヨーロッパ哲学の喜劇的な反復ではないだろうか。「実在論」が受け入れられた社会においては『君の名は。』と問うことの意味は、戦後にヒットした同名のドラマの場合とは大きく変わってくる。「唯名論」がなくなった空洞に対して「君の名は?」と問いを投げかけても答えは返ってこない。

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