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音の純粋知覚/ことばの純粋知覚

 音楽を聴くということは可能なのだろうか?例えば渋谷のスクランブル交差点で流れるJ-POP、あるいは地下鉄のホームでヘッドホンから漏れるノイズミュージックを我々は純粋に音楽として聴くことができるのだろうか?言うまでもなく世界にあふれる音とは単なる空気の振動であり、そこにはノイズと音楽を区別するマークはない。たとえすべてのノイズを排除できたとしても、音楽とは無数の空気の振動=波の重ねあわせであり、様々な波長の波をどのように重ね合わせたら音楽となるのかを我々は知らない。そもそもスピーカーや楽器から放出される空気の振動と、人の意識に現れる「音のようなもの」は本当に同じものなのだろうか。人が音を知覚するとはいったいどういうことなのだろうか。

 その問いへの一つの回答として、フランスの哲学者ベルクソンがその代表的な著作である『物質と記憶』において論じた「イマージュ」と「純粋知覚」について考えてみる。ベルクソンが批判対象とする哲学者カントは、人の意識に現れる現象=現れとその原因となる存在=物自体を明確に区分し、物自体について論じることを拒否する。カントによれば音は人の意識の中にしかないのだ。それに対してベルクソンは現象と物自体をともに含む「イマージュ」という概念を提示し、カントの観念論とその対抗概念である実在論をともに拒否しようとする。イマージュとは「それ自体で存在し」かつ「我々に見られる通り」に存在するものであり、ベルクソンの思想に従えば「音楽を聴くこと」は「音のイマージュ」を「身体のイマージュ」が受け取ることであると言うことができる。ここで重要なことはスピーカーや楽器などの音源における「音のイマージュ」は、常に我々が受け取って表象するもの以上のものであり我々の意識がイマージュに何かを付け加えるということではない。人が音を知覚するという行為は「減算的」と表現すべきものなのである。そのように考えることによって、初めて人が音楽をそのまま聴くという「純粋知覚」が成立する。音楽を聴くということは、身体と精神が外部から到来するイマージュの「選別」を行う「減算的」な行為であり、知覚とは解釈なのではなく減算的な「選別」なのである。


 窓の外では今日も二台の大型クレーンが働いていた。見ているとその起動にいちいち緊迫がこもって、まるで静寂がその極みから傾きかかるように感じられたが、工事場の騒音は耳を聾せんばかりだった。(古井由吉『聖耳』より「夜明けまで」)

 子供たちの賑やかな声が、喜々とした叫びが、遠くなった。聞えにくくなったのではない。むしろ不思議な明聴感を覚えた。それがそのまま、聾啞の感じにつながった。(古井由吉『聖耳』より「初時雨」)

 病者とも呼ぶべきであろう古井由吉の小説の登場人物たちは、常に明聴感と聾唖の間を往復している。古井作品における病者の知覚とは外部の刺激に対して常に受動的であり、ただただ音の「選別」のみを行っているように見える。そしてふとしたきっかけで音の選別に失敗し、耳を聾すような轟音に包まれる経験をするのである。「純粋知覚」に近づくこととは病者の「耳」を持つことであり、その時に初めて音のイマージュに対する選別のみが作動し、「声が耳に触れる」ような夢とも現実ともつかない音の体験に到達することが可能なのである。「病人は声を歪ませたりしない」のであり、たとえ荒涼感の中で身体のイマージュが溶解し「自身もひとつに解けて失せていく」こととなろうとも、そのなかにおいてこそ生起する「聴覚が新らたに萌すような」瞬間を古井の「ことば」は記述し続ける。しかし古井作品の病者たちの「純粋知覚」に不純なものが混入するという陥穽はないのだろうか。


 再度ベルクソンに戻ろう。ベルクソンは純粋知覚が「事実上」正しいのではなく、「権利上」のみ正しいと主張する。事実として純粋知覚には「記憶力」が混入してしまうのである。ベルクソンは「想起としての記憶力」と「縮約としての記憶力」という二つの記憶力が音そのものの知覚を損なうと指摘する。

 「想起としての記憶力」とは過去の記憶を土台として現在の知覚を解釈することであり、知覚と記憶の識別を困難にしてしまう。もう一つの「縮約としての記憶力」とは、例えば一つの音の持続には膨大な数の空気の振動という「出来事」が含まれているのであり、その一つ一つの出来事を数え上げることが不可能である以上、我々は無数の振動を「縮約」して一つの音として知覚しているということを意味する。

 フランスの哲学者カンタン・メイヤスーはそのドゥルーズ論である「減算と縮約」においてベルクソンの純粋知覚を論じ、知覚への「想起としての記憶力」の混入は回避できるが、「縮約としての記憶力」の混入は不可避である点に注意を促す。「想起としての記憶力」については、「原理上ただ集中するように努力すれば」純粋知覚に記憶が混入することを回避できるのであるが、もう一方の「縮約としての記憶力」を取り除くには知覚を「弛緩」するという極めて困難な試みが必要となるのである。はたして「想起としての記憶力」を振り払い「縮約」を回避して「純粋知覚」を取り戻することは可能なのであろうか。


 古井由吉の小説において「記憶」が重要な役割を果たすことは周知のことである。少年時の戦争の記憶、これまでの人生ですれ違った死者たちの記憶、そしてギリシャ神話から日本の古典までの物語としての記憶、それらの記憶を自在に往還する独特のことばの連なりが古井の小説の魅力であろう。

 『聖耳』に収録された「白い糸杉」において、古井は古代ギリシャのオルペウス教徒についての挿話を語る。オルペウス教団に属する死者は冥界に向かう時に、冥界の番人に対して「記憶の女神の湖に発する冷たい水を頂きたい」という口上を述べ、「神泉」という生命の泉には近寄らぬよう戒められていたという。「記憶の女神」とはオルペウス教徒たちがあがめる「詩や音楽や技芸の女神たちの母親」にあたるという。

 しかし、記憶は技芸の母であり伝承でもあるとすれば、それは個人の記憶を超える。(略)個々の身にとっては忘却にひとしくなりはしないか。(古井由吉『聖耳』より「白い糸杉」)

 オルペウス教徒は「記憶の女神の湖に発する冷たい水」を頂くことで逆に個人としての記憶を忘却してしまうのである。古井の小説を読むことは記憶をことばとして取り込む行為であるかに見えるが、実は忘却に等しいのであり、純粋知覚から記憶という覆いをはぎ取ることなのである。

 しかし焼夷弾の落ちた音は記憶にまるでない。音がまともに残ったなら、少年は後から気が振れていたかもしれない。

 古井作品の登場人物は過去の記憶である音を忘却し、現在の純粋知覚である音をその特異性のままに受け取り、「想起としての記憶力」の混入をぎりぎりで回避する。それではもう一つの記憶力である「縮約としての記憶力」を古井はどのように「ことば」にしているのであろうか。

 物の音がまた一斉に遠くなった。耳を澄ませば、遠いのではない。すべてが緩慢になった。(略)人がしきりに往来する。その足に足音が遅れ気味に、粘り粘り、やっとついて行く。もしも足音が振り切られたら、人はその足でまっすぐ、聾啞の中へ踏み込んで行くのではないか、と思われた。 緩慢さの内に狂躁の兆しが潜んでいるようだった。(古井由吉『聖耳』より「初時雨」)

 古井作品における病者の「純粋知覚」においては、その身体の緩み、緩慢さによって音の「弛緩」という困難な試みに挑む。そこでは足がもつれて動きが緩慢となると同時に音のイマージュは弛緩し、明聴感とともに音を構成する一つ一つの振動が知覚されるように感じられる。もちろんそれは「狂躁の兆し」ではあろう。ことばを一つ一つの音に分解するように、音を空気の振動に分解して「純粋知覚」を獲得すること。「聖耳」とは「純粋知覚」の別名であろう。そしてそれは本当に音楽を聴くという試みの別称でもある。


 最後にもう少し「減算と縮約」におけるメイヤスーの議論を追ってみることにする。メイヤスーも音の純粋知覚に対して記憶が混入することを徹底的に拒否する。メイヤスーは音の知覚を「弛緩」させるという極めて困難な試みをあきらめて、別の方法により「縮約」ではない音の「選別」を行う。

 メイヤスーはイマージュの流動に対して「弛緩」ではなく「遮断」を思考するのである。音は諸々のイマージュから構成され、それらはお互いに連絡しあって「流動」することで一つの音を構成する。その流動を「遮断」することによりイマージュは分離することができるのであり、生物は物質や音のイマージュを遮断することによってそれを意識化できるのである。

 ここでメイヤスーは生物の定義自体を変更する。メイヤスーは生物とは外部から到来するイマージュを遮断する非連続的な「環」であるという。そこには生物としての能動的な実体はなく、フィルターとしての「環」がイマージュを選別し、そのイマージュを囲い込んでいるのみなのである。

 古井由吉の小説はある時から連作短編の形態をとるようになる。それはメイヤスーのいう「遮断」を実現する形態でもあろう。古井は遮断された断片である小説が緩やかに流動するような小説世界を構築する。古井作品の登場人物は身体の境界があいまいであり、非連続的な「環」と表現すべき人物であり、その「環」はただ「ことば」のみで成り立つ。

 ドゥルーズは『千のプラトー』において歌がカオスの中に秩序を作り出して生物が「音の壁」によりテリトリーを囲い込むあり方を論じるが、古井はその小説で「言葉の壁」によってカオス=イマージュの流動を遮断して淡い自己というテリトリーを作り出す様を描写する。『聖耳』のなかの一編である「晴れた眼」という作品において、初冬の薄曇りの風のない正午前に「さわさわと鳴る音」につつまれた林の中を歩く主人公は、「しかし葉の鳴る音は地面に続いて、目を瞑るとさらに降りしきり、身体の内に林がひろがった。」と感じる。古井由吉が獲得した小説とは「ことばの純粋知覚」なのである。

 持続から音として「林」を遮断し、そのイマージュをそのまま身体のイマージュで「純粋知覚」すること。純粋知覚として音を受け止める「聖なる耳」というイマージュを「ことば」として小説で描写すること。純粋知覚としての音を作品に固定化するという「ことば」のみが可能である試みに、小説家・古井由吉は挑み続けている。

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