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思想/批評の過呼吸を起こすこと

【過呼吸】過剰な呼吸を行うこと。体内の炭酸ガスの必要量が減り、アルカローシスの状態をきたす。過換気。
(出典:デジタル大辞泉

哲学において真の思考を可能とする条件とは何だろうか。
フランスの哲学者アラン・バディウは「数学素」「詩」「政治的創意」「愛」の4つが哲学の条件であり、それらが一体となって出現するということが哲学の到来のための必要条件であると論じる。これらは真の思考が成立するための条件でもあり、我々はそれらが同時に可能となる空間のことを哲学と呼び、そのなかに身を置いて真の思考によって新たな概念を生成する者を哲学者と呼んできたのである。その「概念空間」よでも呼ぶべき場において思考が追い求めるべき「真理とは知識とは全く無関係であり、それぞれの条件における起源に見出される「出来事の別名であるとバディウは論じる。真理とは起源に見出される不可能な出来事である
一方でバディウは思考の全体を一つの条件に委譲してしまうことを「縫合」と呼び、例えば「愛」と縫合された精神分析や、「政治」と縫合されたマルクス主義を真の思考のための空間を閉ざすものとして批判する。
古代ギリシャからの哲学の歴史において概念空間を生成した範例的な哲学者であるプラトンはその教えにおいて数学を特権化し、国家からの詩人追放論を唱え、『饗宴』など愛についてテクストを生成し、晩年の作品である『国家』において理想国家や哲人王について論じた。それはプラトンが概念空間のすべての条件を可能とする場を開いたことを示す。そしてプラトン以後の西洋形而上学の歴史において哲学者はプラトンに倣い、「存在」を思考し続けることとなった。

映像表現において真の思考が成立する空間を構築することは可能なのだろうか。例えば、その作品群において「愛」と「政治」を映像化し続け、「詩」=隠喩を意識的に主題化し、数字や数式に対して特別なこだわりを示し、さらにはバディウを自作に登場させてみせるゴダールという特権的な名前を召喚してみることも極めて興味深いことではある。映像において「数学素」「詩」「政治的創意」「愛」を可能とする空間とはどのような場となるのだろうか?その「映像空間」とでも呼ぶべき場において、ゴダールはどのような「ショット」を思考し続けたのだろうか?
残念ながら本論においてこれらの問いに答える準備はない。本論では映像空間について思考するための「序説」として、高橋栄樹監督による2012年の作品である『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』を取り上げて論じてみることにする

Show must go on2011以降に毎年作成されることになAKB48のドキュメンタリー映画の第2作にあたる。1作目である『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』がメンバのインタビューを中心としてそ内面迫る極めてまっとうなアイドル映画であったのに対し、2作目にあたる本作では東日本大震災という未曾有の出来事」を中心とし2011年にAKB48が巻き起こす/巻き込まれる様々な出来事を記録したドキュメンタリー映画となった。本作に映し出されている出来事」とは東日本大震災から日が浅い被災地をAKB48が訪問して行った緊張感に包まれたライブであり、ファンの投票でメンバに序列をつける「AKB48総選挙」であり、のちに社会問題ともなる「恋愛禁止」にかかわるスキャンダルなどである。
高橋栄樹は本作においてAKB48が巻き込まれる「出来事」をその活動の条件であるかのように淡々と映像として記録する。巨大地震と原発事故という「数学素」によってしかその全体を把握できない未曾有の出来事、シングルの選抜メンバを投票で決める総選挙という「政治」的なイベント、メンバの恋愛スキャンダルという「愛」にからめとられた出来事。もちろんファンにとってAKB48の魅力の一つが秋元康の歌詞=「詩」の世界であることは間違いないだろう。
高橋栄樹はそれらを条件として成り立つ、「2011年のAKB48」という極めて特異な空間を描き出す。評論家の宇野常寛は本作を論じる中で、急激に巨大化したAKB48がコントロール不能となる状態を原発事故の隠喩であると指摘するが、高橋栄樹は原発事故も「AKB48」という特異なアイドルを思考するための空間=場を構築するため単なる条件のひとつ」としているのである。被災地訪問も総選挙も恋愛スキャンダルも本作の主題ではないのである。
それではその特異な「空間」において思考されているものとは何だろうか。結論を先取りすればそれはアイドルの「身体」ということになろう。過呼吸により不可能性を露呈するアイドルの身体。

本作の最大の見どころは20118月に西武球場で行われた2日間のコンサートのバックステージの映像であろう一日目のコンサートはメンバの動きバラバラであり、自分の出番や立ち位置すらままならないままただ漫然とコンサートが続き、見ている観客にとっても弛緩した印象に終始するものであった。そしてコンサート後、それを見ていたプロデューサーである秋元康が「自分が見たなかで最低のコンサートであった」とメンバを叱咤することになる。その言葉にメンバ奮起、その日は夜遅くまで練習を繰り返し、翌日のコンサートのリハーサルではメンバ自身がコンサートの構成における問題点を指摘する姿まで見られるようになる。
そして二日目のコンサート本番では灼熱の中、メンバの鬼気迫るパフォーマンスが繰り広げられることになる。前日とは見違えるようなパフォーマンス最高のコンサート終了するかに見えた。ところがコンサートの途中から過呼吸を起こすメンバが続出しする。そして中心メンバである前田敦子が過呼吸で何度も倒れながらセンターポジションに立ち続ける姿がある種の感動とともに映し出されることになる。
これらのシーンに映画と「愛」との縫合を見ることも可能であろう。一日目のコンサートにおいて映し出されるメンバのバラバラな断片的な身体、ステージ上のバラバラなイメージ群はラカンの精神分析における想像界に位置付けることが可能でありプロデューサー秋元康という「父の名」により去勢された後の二日目のコンサートはメンバが象徴界における統一的な身体を獲得したと解釈することができるしかしその縫合をほどき、そこに真の思考の可能性を開くのが「過呼吸」なのである。過呼吸における身体性とはアイドルの身体における剰余となるのであり、それは幻想的な身体でも生身の身体でもなく、映画を見るものとって身体が精神分析から身を引き離してその真理を開示する「出来事」としか言えないものとなるのである。

フランスの哲学者ジャック・デリダはその著書『触覚』において、アリストテレスを始原とする「触覚」および身体の哲学史を脱構築することを試みる。デリダは触れること/触れられること、あるいは自らに触れることに関する様々な哲学者の論考を取り上げ、触れられるもの/触れられないものの境界に揺さぶりをかけて触覚・身体の境界における空間化=間隔化の発生論じる。
AKB48と近年のアイドルにおいては握手会という「接触イベント」が特権的な価値を持っているのは周知のことである。『Show must go on』においても被災地での握手による「触れ合い」の様子が描かれるそれらの接触はアイドルの身体という問題に触れるのものである。デリダの議論に基づけば、握手という手と手の接触によって一体感が醸成されてファンとメンバの境界溶解するのではなく、むしろそのその間に発生する間隔化の運動が強調されてしまうということになろう。それは反転してアイドル自身の身体内部の間隔化となり、デリダがプラトンの概念を利用して呼ぶ「コーラ」と呼ぶにふさわしい場となり、そこにこそアイドルに特異な「空間」が見いだされる。アイドルの身体を思考する場とは、接触において典型的に露呈する、身体の内部に生起する間隔のことなのであろう
そしてデリダの『触覚』において主題的に扱われるジャン=リュック=ナンシーの触覚論は、西洋形而上学における「触覚」や「身体」の特権性を脱構築するものでもあるが、そこにおいてデリダが特別に注意を促すのはナンシーにおける「痙攣」「失神」という概念であ身体を脱構築する「痙攣」、それは『Show must go on』においてアイドルの身体に起きる過呼吸であり、過呼吸はアイドルの身体の外部と内部に揺さぶりをかけるものである。高橋栄樹はアイドルの過呼吸を映すことで映像に過呼吸を引き起こし、極めて特異な身体を思考する空間を映像化することに成功したのである。
「過呼吸」において本作に映し出されるアイドルの身体とはテレビに映るような幻想的な身体ではなく、かつ握手会で触れることができる現実的な身体でもない。そこにあるのは痙攣によって幻想的なものと現実的なものに分離して内部に間隔を持つ身体であり、どんなに触れられても他者の身体との間に間隔を持つ身体である。音楽やダンスというコンテンツを入れる容器としての身体、メンバが次々に入れ替わっても何も変わらずグループが存在するその特異な身体性。

Show must go on』において描かれるアイドルの身体について最後に指摘するべきはその身体が曝される偶然性の過酷さである。現代思想において偶然性と必然性の交錯に関して2つの立場が対立する。思弁的実在論の中心人物であるメイヤスーは世界の物理法則の恒常性を認めず、それはいつでも変わり得るものであり、変わることが必然であると言う。メイヤスーは偶然性の必然性を主張する。一方でドイツ観念論を再興する哲学者マルクス・ガブリエルは必然的なものの世界が成立するにはその全体性を支えるための自己言及性をもたざるを得ず、最終的には偶然性が必然性を支えると主張する。
本作ではAKB48の「総選挙」に代表される必然性が最終的に「じゃんけん大会」という偶然性に支えられていることが描かれる。もちろん必然性が偶然性に反転する場が見出されるのが「過呼吸」なのであり、いつ過呼吸が発生してメンバが欠落するかわからない偶然性にさらされ続けることがAKB48の歴史の中で最も印象深いコンサートを産み落としたのであろう。



(*)本論考は『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』の「過呼吸」に擬態し、思想を過剰に取り込むことにより批評に過呼吸を引き起こすことを試みたものである。

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